2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第3章 黄泉の扉


     1

「オシヲ、クシナーダ様を知らない?」
 ミツハに声をかけられ、オシヲはドキッとしながら足を止めた。
「あ、ああ。そういえば、さっきスクナと一緒に北田のほうへ行ったようだけど」
「呼んできてくれる? アシナヅチ様のところにご来客なの。スサノヲ様も北田にいらっしゃるはずだから、ご一緒にお呼びして」
「わかった」オシヲはミツハの頼みに応えられる喜びを胸に走り出した。とてもささやかなことだが、彼には重要なことだった。
 ミツハは十四、オシヲは十三である。幼いころから姉弟同然に育ってきたが、ある時期からミツハは巫女としての素養を見込まれ、他の子供たちとは違った育てられ方をするようになった。それ以来、若干の距離ができてしまったが、オシヲはずっと、少しだけお姉さんのミツハのことを、同じ里の中でも常に目で追いかけていた。
 おっとりとしているが、いつもにこにことして、優しい笑顔が絶えないミツハ。



 ミツハに認められる男になりたい。そんなことも、いつの間にか思うようになっていた。
 だから、イタケルにもこっそり教えてもらい、剣を使う練習もしていた。里には今、以前カナンによって殺されたオロチの兵が持っていた剣が十本ほどあった。それを使って、日々、鍛錬していた。
 ミツハや里は俺が守るんだ。そんな想いが、日々、きな臭い雰囲気が里の周辺に蔓延するにつれ、強くなっていた。
 本当はスサノヲに剣を教えてもらいたかった。しかし、カナンの兵士たちがやってきたときに見せたスサノヲの身のこなしを見たら、あまりにもすごすぎて、とてもおいそれとは頼めなかった。比較的寡黙なスサノヲには、少し近寄りがたいところもあった。
 スサノヲはすげえ、と素直にオシヲは思っている。そして、最近のスサノヲとクシナーダの様子を見ていたら、二人がとてもいい感じなのも、好ましく思っていた。
 二人はお互いを意識し合っていた。それは、はたで見ていたらわかる。どこにいても、かならずお互いの姿を眼で探している。そう、それはオシヲがミツハに対してそうだから、すぐにわかる。そして、たいていその姿を発見すると、クシナーダのほうがさりげなく近寄っていく。
 二人が寄り添って立っているのを見ていると、ふとこのままスサノヲがこの里に留まってくれて、クシナーダと結婚して、共に里を守ってくれたらいいのに、という思いが強く湧いてくる。クシナーダは里の男たち全員の憧れのようなものだったが、一方でスサノヲがクシナーダにふさわしいということも、誰もが感じていた。
 北田へ行くと、とうに収穫を終えている稲田の畔に、やはりクシナーダとスサノヲの二人の姿があった。イタケルとスクナと一緒に話し込んでいる。スサノヲとイタケルは、新しく土地を開墾しているところで、腰を下ろして休憩中といった様子だ。汗が光っている。クシナーダとスクナは、彼らに水と焼き栗を届けに来たようだ。
「たしかに今年はカメムシがひどかった。まるで俺たちが虫を養ってやってるようなもんだ」と、イタケルが焼き栗を噛みながら説明している。「――お、どした、オシヲ」
 息を切らしながら、オシヲは要件を告げた。
「少しだけ待ってくださいね」と、クシナーダ。「スサノヲも今、ちょうど休憩されたところですから」
「そのカメムシというのは?」と、スサノヲ。
「稲を食う虫だ。くっせえ臭いをひり出しやがる。臭いがついたらとれねえ」
「稲作が広がるにつれて、カメムシも繁殖するのは当たり前だよ」と、スクナが言った。
「なんかいい手はないか、スクナ」
 イタケルはずっと年下のスクナにも意見を求めている。スクナは少女でも、今や大人たちも一目を置く存在だ。薬草のことだけではなく、大陸で様々な知識を習得してきていたからだ。
 とはいえ、スクナも「うーん」と悩んでいる。
「臭い……虫」クシナーダは稲作を行う土地を見ながら、ふっとどこか遠くを見る眼差しになった。「……いいアイディアがあります」
「あ、あいであ?」と、スクナ。
「ああ、ええと、いい考えです」クシナーダは言いなおした。「畔にハッカを植えてみてください」
「ハッカ? ハッカって、なんだ」
「スクナはよく知っています。清々しい香りのする野草です」
「それを植えたらどうなるの?」と、スクナ。
「カメムシが嫌がるのではないかと」
「ほんとか、それ」
「やってみてください。スクナ、ハッカのたくさんあるところ、知っているでしょう?」
「うん、知ってる」
「イタケル、スクナや他の里の人と一緒にハッカを集めて、畔に植えるようにしてください。来年の田植えに間に合うように」
「お、おお。わかった」
 クシナーダはスサノヲを振り返った。彼女の意を察して、スサノヲは立ち上がった。二人はオシヲを促して歩き出す。
「スサノヲ、大丈夫ですか。お疲れでは」
「大丈夫だ」
 クシナーダは、今日は緋色の衣をつけていた。スサノヲは藍色の衣を。どちらもクシナーダが野草や樹木の幹や葉から取った染料で染めたものだ。
「もしかして、また未来を見たのか」並んで歩きながら、スサノヲが訊く。
「あ、ばれちゃいました?」優しく笑うクシナーダの口の中に舌が見える。「ふっと幻視がやってくるのです。未来の稲田でこんなことをしている、こんなふうになっているというのが。ええと、なんというのか、こういうのを、かんにんぐ、というらしいです」
「かんにんぐ?」
「ずるをするというようなことらしいです」
「なるほど。いつも、ずるができれば便利だな」
「必要なければ見えませんよ」
「意外に、そうやって歴史というのは作られているのかもしれぬな」
 そんな会話をしながら歩く二人は、本当の夫婦のようだった。
 歩きながらクシナーダが歌い始める。

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ

 星の物語の歌の一部だ。オシヲの胸の中にも、すっとヒビキが入ってきて、聞いているだけで癒される。クシナーダはこの歌が大好きで、幼いころからいつも歌っていた。
 クシナーダは恋をしている。オシヲは確信していた。彼女からは今、匂い立つような花の良い香りがするように思われた。全身で愛を表現している。
 その対象は、むろん、スサノヲだ。
 しかし、クシナーダのそれに比べ、スサノヲはあまりにも無愛想で、何も感じないかのように、平然とした顔をしていた。いや、そのふりをしているように思われた。
 オシヲはそんなスサノヲを見ると、後ろから蹴ってやりたくなるのだった。


 アシナヅチの居宅に近づくと、笑い声が響くのが耳に入った。中では年老いた巫女ともう一人の男が、アシナヅチと談笑していた。そのそばでミツハが柿の葉のお茶を入れている。
「あら、ナオヒ様。お早いお着きですね」クシナーダは入るなり言った。
「なんだ、クシナーダ、ナオヒが来るのを知っておったのか」と、アシナヅチが意外そうに言った。
「はい。わかっておりました」クシナーダはミツハのそばにやって来て、一緒にお茶の用意を手伝いながら続けた。「ああ、ナオヒ様のヒビキが近づいて来るな~と」
「言ってくれればよいものを」
「アシナヅチ様も気づいておられると思っておりました」
「クシナーダ、こやつもだんだん耄碌してきておるのじゃ」ナオヒは笑いながら指差した。「最近はこっちから〝語り〟かけても、ぜんぜん応えてくれん。ぼけじじいじゃな」
「なにを言う。あんたのほうこそ、わしよりも三つも年上のばばあじゃないか」
「女のほうが長生きで丈夫なんじゃよ」
 年寄り同士のなにやら異次元の会話がなされているのを聞きながら、スサノヲは老いた巫女の反対側に腰を下ろした。巫女の隣にいる男と目が合い、互いに目礼をする。三十代の壮健な男だった。
「オシヲ、お茶の葉とお湯飲みが足りないの」ミツハが戸口のところに立っているオシヲに声をかけた。「わたしの家にあるから、取りに行ってくれる?」
「ああ、いいよ」と、オシヲがよく響く声で答え、走って行った。
「ところで、ナオヒ様。アソの大巫女様がはるばるいったい何の御用で?」クシナーダはお茶を出しながら言った。



「感じるところがあってな」ナオヒはお茶の器を手に取り、目を細めてそれを飲んだ。が、飲みながらその眼はスサノヲを見つめていた。「――さぞかし猛々しいやつかと思いきや、意外にも静かなヒビキじゃな」
 自分のことを言われているのだと知り、スサノヲはただ黙って見つめ返した。
「じゃが、その静けさの中に火の山のような〝力〟がある。まるでアソのお山じゃ」
「アソ?」
「ツクシにあるものすごく大きな火の山です」と、クシナーダが説明する。
「わしはこちらへ来る間、ずっと感じておった。恐ろしく猛々しい、憎しみに満ちた〝力〟が荒れ狂っておるのを。てっきり、そなたがそれかと思うておったが、はて……?」
「フツノミタマのことでしょうか」
「クシナーダも感じておるのじゃな」
「はい。その言葉が繰り返し、繰り返し降りてくるのです。それはたぶん、今はキビのほうにあると思いますが……」クシナーダは遠慮がちにスサノヲを見た。「なにかこう、スサノヲが二人いるように思えるのです」
「俺が? 二人?」スサノヲは戸惑った。「その、フツノミタマとは?」
「わからん」と、アシナヅチが言った。「たぶん何かの憑代(よりしろ)のようなものじゃろう。わしにはそれが剣のように見える」
 ふん、とナオヒは鼻で笑った。「おや、じじいも気づいておったのか」
「当り前じゃ」
「しかし、問題はフツノミタマではなく、その〝力〟を悪しき思いで使う者がおるということじゃ。が、とりあえず、スサノヲ、そなたの姿を見て安堵したわ」
 ――剣? スサノヲの心にざわつくものがあった。
「すると、おぬしはわざわざツクシから、スサノヲの顔を見に参ったのか」
「ああ、うるさいじじいじゃ。そればかりではないわい」
 二人はあきらかに互いにじゃれ合うように揶揄し合っていた。それが二人なりの楽しいやり取りなのだ。
 そこへオシヲがお茶の葉と器を持って戻ってきた。クシナーダがミツハとお茶を用意しようとすると、その背にナオヒが言った。
「クシナーダ、聞いておくれ」
「はい」手を止めて、振り返る。
 オシヲが代わって、ミツハの手伝いをする。
「ツクシの争いは、それはひどいものじゃ。毎日毎日、各地で土地の奪い合いをしておる。ナの国も、イト国も、この争いを抑えることができぬ。ことに昔からツクシに住むクナ国との争いは、まこと惨いものじゃ」
「痛ましいことです」クシナーダの声も沈んだ。
「わしらは今日、ツクシを代表してここへ参った。この者は、イト国の皇子(みこ)、ニギヒじゃ」
 ミツハやオシヲが驚きに手を止めた。ニギヒはあらためてクシナーダに会釈をし、クシナーダは深く頭を下げた。
「この百年じゃ。大陸から雪崩を打つように、多くの民やモノが流れ込んできた。あまりにも急な変化はさまざまな軋轢を引き起こす。変化を受け入れ、あわよくば利益を得ようとする者。あるいは変化を拒み、それまでの暮らしにしがみつく者。どちらにせよ、対立と分裂が生まれてしまう。このままではワの国は、二つに引き裂かれるじゃろう。東西、あるいは南北に。もともとワの民として、共に生きてきたわれらが、争い合い、憎み合い、それをずっと繰り返すようになるやもしれん」
「まことに憂慮すべき事態です」と、ニギヒが後を続けた。「このままで良いとはだれも思うておりませぬ。が、止める手だてがございませぬ」
「そこでイト国王は、このニギヒをわしのところへ遣わした。ツクシの中で、イト国がいわば渡来した者たちの代表、わしはもともとワの国に住まう者の代表というわけじゃ」
「では、大巫女様とイト国との間で良いお話ができたのでは?」
「なかなか簡単ではない。ことはツクシだけでは収まらぬ。もうそういう時代ではないのじゃ、クシナーダ」
「と申されますと?」
「ツクシではもう殺し合いが過ぎておる。家族や愛する者を殺されたから相手を殺す。そうしたら、また相手から殺し返される。そのような憎しみの連鎖が続きすぎておる」
「それでも、ナオヒ様が大巫女として剣を収めるように命じられたら……」
「わしとて、過去に幾度もそうして骨を折ってきたのじゃ。戦をやめるための協定は幾度も結ばれたが、その都度、破られてきた。土地が生む利益を求める欲が取り決めを破らせ、あるいは過去の怨讐がアソの噴火のように起きてな。今さらイトがわしを立てたところで、周囲は決して納得はせぬ。多くの者は、わしがいいように利用されたと思うじゃろう。この通りの年寄りじゃしな」
「かといって、われら渡来系の国々がこのまま力で覇権を広げることも愚策です」と、ニギヒ。
「そこでじゃ、クシナーダ、そなたに頼みがあるのじゃ」
「いやです」
 は? というような空気が室内に広がった。ミツハやオシヲはお茶を全ての人間に出し終えるところだったが、そのまま固まってしまう。
「まだ何も言うておらぬじゃろう……」
「いやです」クシナーダは堅い表情のまま、きっぱりと言い切った。
「まいったわ、こりゃ……」
 ナオヒは苦笑して、珍しく救いを求めるようにアシナヅチを見た。が、当のアシナヅチは眼をあらぬ方に向け、素知らぬ顔をした。
「クシナーダ様」めげない意志を見せたのか、あるいは鈍感なのか、ニギヒが言った。「どうか、ワの国全体の女王になっていただけないでしょうか」
 この申し出に度肝を抜かれたのは、ミツハやオシヲだった。スサノヲもさすがに想定外のことだった。しかし、クシナーダは頑なな姿勢を崩さなかった。
「ですから、お断り申し上げております」
「なぜですか。あなたは今のこのワの国の至宝です。ツクシだけでない、このナカの国やイヨ、あるいはヤマトの先にある東国でさえ、あなたが女王として立つのであれば納得するかもしれない。それで多くの者が救われるのですよ」
「ニギヒ様」
「は、はい」
「それでは逆にお尋ねいたしますが、ニギヒ様がこれから後の人生、皇子としての地位を捨てて、ただ一人のワの民として生きろと言われて、それはおできになりますか」
「それは……」
「そうすれば民が救われます」
「ならば……そのように致します」
「ご立派なお心がけです。しかし、生涯、たた一人で生きなければなりませぬ。それでも、おできになられますか。どのような伴侶も娶らず、生涯をただ一人で終えるのです」
「それは……しかし、それで民が救われるのなら」
「あなた様はとても高貴なお考えをお持ちの方でいらっしゃいます。素晴らしいお方です。しかし、ニギヒ様、それは言葉でいうほど簡単なことではございません。人は普通に誰かに出会い、そして誰かを愛するものだからです。わたくしには以前からわかっておりました。わたくしの未来には、大きく二つの選択肢があることを。その一つを、今日、お二人がお持ちになりました。その未来を選択した場合、わたくしがどのような命運を辿っていくか、おおよそのことはわかっています。幼いころからわたくしは、その日が来ないことをずっと祈っておりました」
 じっと見つめていたナオヒは、ちらっとクシナーダの隣のスサノヲを見、いきなり笑い出した。「そうか! そうであったか! はっはっはっは。このナオヒ、とんだ無粋者じゃ! なあ、アシナヅチ」
「まあ、そういうことじゃな」そう言いながら、アシナヅチの視線もクシナーダとスサノヲの間を行き来した。
「では、どうしてもお受けくださらないと……」ニギヒは落胆を隠せなかった。
「俺のような部外者が口を挟んでもよいか」
 スサノヲが珍しく口を開き、周囲を驚かせた。
「そなたらは人の命を盾に、クシナーダに要求を突き付けている。ワの国の戦争で死ぬ者がいる。それが救われる。だから、ワの女王になれと。それはこのトリカミの里や巫女の命を盾にとって支配を広げてきたカガチのやり口と、どう違うのだ」
 それはまったく意表を突く、重い衝撃を伴った指摘だった。ニギヒは言葉を失い、狼狽した。
「……いや、形はそうでも、カガチとはまったく考えは違う。われらには大きな理想がある。カガチは自分が支配したいだけだ」
「たしかに、そなたらはこの国を平和にしたいのであろう。しかし、クシナーダにこの戦乱の何の責があろう? そなたらの言い分は、クシナーダ個人の願いとか夢を犠牲にして成り立つものだ。まして、クシナーダが女王になったところで、本当に争いがなくなるのか? それははなはだ疑問に思える」
「スサノヲの言う通りじゃ」ナオヒは言った。「クナ国はおそらく誰が女王になろうと、簡単には和することはあるまい。東国もしかりじゃ」
「まして、カガチがクシナーダ女王を承認するはずがない」アシナヅチも口添えした。「それに、先来、渡来したカナンじゃ。唯一の神を信奉する彼らは、これには絶対に従うまい」
「カナン……。聞き及んでおります」と、ニギヒ。
「クシナーダを女王に担げば、むしろいっそうこのナカの国の争いに火をつけ、とてつもない混乱と人の死が生まれるのではないか。クシナーダはそういったこともわかっているのだろう」と、スサノヲは娘を見た。「彼女は心優しい娘(こ)だ。人の命がかかっていると言われているのに、そなたらの申し出を断るのも、本当はすごく傷ついているはず。よほど思うところがあるのだ。それをわかってやってはくれまいか」
「ニギヒ、この話はもうやめじゃ!」ナオヒが笑顔で言った。
「わかりました」と、ニギヒも折れた。
「しかし、スサノヲ」ナオヒはずいっと前に出た。「そなた、自分のことを部外者と言うな」
「……流れ着いた者ゆえに」
「気持ちを察さねばならぬのは、そなたのほうかもしれぬな」そう言って、ナオヒは豪快に笑った。「アシナヅチ、わしはしばらくここで厄介になるぞ。なにやら、これから面白くなりそうじゃからのぉ」


     2

「スサノヲ様」
 呼び止められたのは、その日の夕刻だった。トリカミでは、食事は毎回、里人全員のものが共同で作られる。収穫が多いときも少ないときも、それを分け合って食べるのだ。その用意がなされていた。
 通りかかった彼を呼び止めたのは、ミツハだった。彼女は抱えていた山芋をその場に置くと、小走りに近づいてきた。
「どうした」
「あの」ミツハは眼を輝かせながら無邪気に言った。「ありがとうございます」
「なんのことだ」
「さきほど、クシナーダ様のことをかばっていただきました」
「ああ」なんのことかと思えば、という感じで、スサノヲはむしろ意外に感じながら応えた。「かばうというほどのこともない」
「いえ。クシナーダ様は本当に喜んでおられました。スサノヲ様にああ言っていただいたことが、とてもうれしかったのだと思います」
「そうか」
「わたしも、とてもうれしゅうございました。ありがとうございました」
「あ、ああ」
「クシナーダ様を呼んできてくださいますか。もうすぐ晩御飯ですから」
「わかった」
 ミツハはぺこりと頭を下げ、走って戻って行った。食事の用意をしている女たちの中へ入って行き、笑いながら山芋を洗いはじめる。
 無邪気な少女だ。素直な感情にあふれた表情がまぶしいほどだ。
「かわいい乙女じゃな」いつの間にかやってきたナオヒが言った。そしてすごくまじめな顔で続けた。「わしにもああいう時があった」
「…………」
「なんとか言え」
「いや……どう反応していいか、わからなかった」
「小憎たらしいやつじゃ」笑いながらナオヒは持っていた杖で、スサノヲの尻を軽く叩いた。「天界から降った身には、地上の民などはかなく脆い命に見えるのじゃろうな」
 その通りだった。
「その代償じゃろうな。そなたにはまだ大事なものがちゃんと備わっておらぬ」
「大事なもの?」
「感情じゃよ」
 思いがけぬ指摘を受け、スサノヲは言葉に詰まった。昼間の意趣返しをされたようなものだった。
「それゆえに、そなたはこの地上で生きる人としては、はなはだ不完全じゃ。自分が空っぽだと感じるのではないか。ああして笑い、そしてあのように泣き……」
 子供たちが喧嘩して、一人が泣いている。母親が駆け寄って行くのが見えた。
「そんな感情を人が持つのはなぜなのか。なぜ人はこの世に生まれるのか。よく考えてみることじゃな」
 ナオヒは謎かけをして、ひょこひょこ歩いて夕食の席に向かった。
 スサノヲはクシナーダの居宅へ向かった。ナオヒから受けた指摘は、痛いところを突くもので、彼の胸の中でじわっと根を張った。
 クシナーダは家の前にいた。大きな釜状の土器を火にかけ、その中で煮ているものを棒でかき回していた。もう夕刻は冷え込みが厳しいが、大きな焚火のそばで動いているので、彼女は額に汗を浮かべていた。
「あら、スサノヲ」彼女はすぐに気づいて、作業の手を止めた。手の甲で額の汗を拭う。
「精が出るな。また衣を染めているのか」
 大きな土鍋の中は、樹木の果実と麻の繊維でできた衣類だ。それを一緒に煮炊きして、色を付けているのだ。
「はい。今日はクチナシの実で、黄色のいい色合いに染まりそうです」



「好きだな、衣に色を付けるのが」
「だって、楽しいじゃありませんか。いろいろな色があったほうが」
「いろいろあったほうが……そういうものか。いつだったか、イタケルは自分がワの国を一色に染めるとか言っていたが」
「それはつまらなくないでしょうか」
「つまらない?」
「全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです」
「なるほど」スサノヲは納得した。たしかにその通りだ。
「スサノヲはどの色がお好きですか」
「ああ? いや、俺はべつになんでも……」
「わたくしは赤や緋色が好きです。スサノヲは緑や藍の色がよくお似合いですよ」
「そうか?」
「はい」
 いつも彼女は、「はい」という言葉をそっと差し出すように言う。そのヒビキが、どれほどスサノヲの胸の中で、おかしな反応を起こしているかも知らずに。
「そうだ。ミツハに言われてきたんだった。晩御飯だから呼んでくるように」
「はい。もういい頃ですから、衣を引き揚げます」
「ああ、それは俺がやろう」スサノヲは手を差し出した。
 彼女は「では、お願いいたします」と、手にしていた棒を渡した。
 沸き立っている土鍋の中から、熱された衣を棒でひっかけて引き揚げる。衣はものすごい湯気を立てながら、一度、近くの岩の上に置かれて熱を冷まされる。十枚ほどの衣を引き揚げ、クシナーダは杓で水をかけ、土鍋の下の火を消した。
 それから二人は並んで、夕食の席に向かった。
「あら……」その途中、クシナーダが空を仰いだ。上に向けた彼女の掌に、雪が舞い落ちてきていた。「寒い寒いと思ったら、雪ですわ」
「これが……雪というものか」
「初めてご覧になりますの?」
「ああ」と、スサノヲも手で受けるようにした。「遠くの山々にある雪は見たことがあるが、俺はずっと南のほうを通って来たので、こうして見るのは初めてだ」
「そうですか」
 掌に落ちては、すぐに水となって消える結晶。スサノヲはそれをしばらく見つめていた。「はかないものだな……」
「人の命のように?」
 ギクッとさせられる言葉だった。さきほどのナオヒの言葉といい、クシナーダもスサノヲの心を見通しているのかもしれなかった。
「もうすぐですね」ふっと、クシナーダの声音に翳りが生じた。
「?」
「スサノヲがヨミへ行く日です。あと、十日もしたら、一番日の短い季節の新月です」
 ああ、とスサノヲはうなずいた。
「どうしても行かれるのですか」
「気持ちは変わらない」
「かならず……戻ってきてくださいね」クシナーダは両手を胸の前で結びあわせていた。声音にも必死なものが滲んだ。「かならず、ですよ」
「わかった」
「約束してください」
「約束する」そう言いながら、スサノヲはちょっと歩みをゆるめた。「一つ、訊いても良いか」
「はい。なんでしょう」彼女も歩みを遅くした。
「昼間言っていたことだ。そなたには大きく分けて二つの未来があると。その一つはワの女王になることだった。もう一つの未来は、どのような未来なのだ」
「お昼間のお話を聞いてくださっていたのなら、おわかりくださるかと……」クシナーダの頬がみるみる紅潮した。「わたくしにも、未来のことが詳しく見えているわけではございません。こと、自分のことはよくわかりません。ただ、誰かのそばで生きるということはわかります」
「それが誰かということは?」
「わかりません。ただ……」クシナーダは歩みを止めた。
 見えない糸に引かれるようにスサノヲも立ち止まった。
「未来というものは、今すでに固まって存在しているものではございません。わたくしたちが見るのは、そのいくつかの可能性の断片に過ぎません。今が未来を創造するのです。それはスサノヲもよくご存じのこと」
「いかにも。未来はあいまいに漂っているものだ」
「ですから、後悔することのない選択を、わたくしは今この瞬間にしたいのです」
 伏し目がちだったクシナーダは、はっきりと眼差しを上げた。その瞳に満ち溢れるものに、スサノヲは胸の芯をぎゅっとつかまれた気がした。
「それが誰かということではなく、わたくしは決めてございます」
「決めて?」
「はい……。わたくしはもう自分のすべてを捧げる方を決めております」
 クシナーダはじっとスサノヲ見つめ続けていた。その眼差しの意味するところものは、いかに彼が鈍感だとしても伝わった。いや、とっくに伝わっていたものだった。
 二人の間に、雪はいっそう、白い妖精のように、無数に舞い落ちてくる。
「クシナーダ……」
「はい……」
「この里は、いいところだ」
 彼女にしてみれば一世一代の告白を行ったのと同じだった。その返答を身を縮めるようにして待っていたのに、スサノヲのその言葉は彼女を戸惑わせた。
「豊かで、実りも多く、そして何よりも皆、親切でいい人ばかりだ。心が安らぐ……」スサノヲは里の中心に集まっていく人たちを見ていた。「地に降りて以来、長く旅してきたが、そんなことを思ったのはここが初めてだ。ここを守りたい。俺は心からそう思っている」
 スサノヲが視線を戻すと、クシナーダは胸の前で両手を組み合わせたままで、息もしていないかのようだった。
「だが、俺が一番大事に思っているのはそなただ」
 クシナーダの眼は大きく見開かれ、それからゆっくりと柔雪(やわゆき)が溶けるように、表情に鮮やかなものが広がって行った。
「俺はヨミからかならず戻ってくる。だから……」スサノヲは言葉を探した。「待っていてくれるか」
 大きくうなずいた瞬間、クシナーダの瞳から溢れたものが零れ落ちた。喜びの涙だった。
「はい……。信じてお待ちいたします」
 二人の距離は近くなった。眼と眼と合わせ、そして口づけを交わした。夕闇の中、小柄なクシナーダの身体が、背の高いスサノヲにぶら下がるように懸命に伸びあがる。
 そんな二人の姿を、少し離れた茂みの影から、イタケルとスクナが見ていた。
 スクナはイタケルを振り返り、にっこり笑った。「やったね」
 イタケルは仏頂面だった。
「なに? 妬いてるの?」
「違うわい。俺はクシナーダの姉ちゃんに頼まれてたんだ。妹が幸せになれるように、見守ってくれと」
「クシナーダの姉ちゃん?」
「アワジという、俺と同い年の娘だった。行くぜ」
 スクナは首根っこをつかまれ、引きずられていった。


 ――カヤがカガチによって奪還されて半月、戦局は膠着状態だった。
 しかし、それは意図的に演出されたものだった。カガチはほぼ完成を見たキビの山城に拠点を置き、その北にあるカヤに大軍を終結させた。一方、オロチ本国のタジマとも頻繁に情報のやり取りをし、周到な根回しを行っていた。
 それはイズモに拠点を置くカナンを完全に殲滅させるための準備だった。
「ヤマトのイスズ様がお見えになられました」
 知らせが届いたのは、その準備がほぼ整いつつある頃だった。カガチは配下のイオリとキビの巫女や首長たちを集め、酒宴を行っていた。隣にはヨサミをはべらせていた。
「イスズ様が?」
 驚いて腰を浮かせたのは、巫女のシキとイズミだった。
 現れたイスズはその二人と真っ先に目を合わせ、それから冷たい雰囲気の中で行われている酒宴の中へ入ってきた。カガチの前に進み出て座る。
「おまえは来ぬと思うておったが」盃を口に運びながら、黒頭巾のカガチは言った。「来なければ、お前やヤマトの命運もそれまでのことではあった。……だが、どういう風の吹き回しだ」



 イスズの切れ長の目の奥には、深い淵のような艶やかなものが光っていた。その光が、カガチの巨躯の奥にあるものを透視するようだった。
「わたくしが駆け付けたのは従妹たちの身が案じられただけのこと」
「そうか。そういえば、シキやイズミとはそういう関係だったな」
 キビの巫女たちの内、シキとイズミはもともとヤマトやカワチなどと密接な縁故があった。キビの勢力が強大になり、東への影響力を強めていったとき、ヤマトを中心とする勢力との間に、瀬戸内の支配権も含め、良好な関係を保つために婚姻関係が結ばれた。シキの母とイスズの母は姉妹であったし、イズミの父親もその弟にあたる。
 シキやイズミという名も、それぞれの親の縁ある土地から取ったものだ。
「手ぶらでは来ておりませぬ。首長のトミヒコは残らせましたが、国の兵(つわもの)を五十名、連れてまいりました」
「たった五十か。が、まあよかろう。もうじきカナンどもを皆殺しにする大戦(おおいくさ)を始める」
 カガチの空になった盃に、ヨサミが酒を注いだ。その仕草は、もはや巫女のものではなく、女のものだった。
「イスズ、おまえも戦に参加するのだ。なに、剣を取れとは言わぬ。国の主(あるじ)として兵士を鼓舞すれば良い」
「わたくしが?」
「皆、そうしてもらう。タジマのアカルも、おそらく明日には到着するだろう」
「アカル様も?」イスズの顔に疑念が広がった。「そのようにしてまで、わたくしたちを集めなければならぬ理由はなんなのです」
「戦いに勝利するためよ。言うまでもなかろう」
「わたくしには、あなたが大きな〝力〟を得ているように思います。その〝力〟をもってすれば、カナンを滅ぼすことなど造作もないのでは」
「そうかもしれぬな」ふんと、カガチが笑った。「だから、どうだというのだ」
「〝力〟を得た代償に、人心を失いましたか。そのためにさらなる人質が必要なのでしょう」
「人心など、もともと俺に執着はない。従わぬ者は殺す。ただそれだけのこと」
「何が本当の狙いなのです」
「おまえらは、俺の言うとおりにしておれば良い」
 イスズは音もなく腰を上げ、そして告げた。「これ以上、トリカミには触れてはなりませぬ。それをお約束ください。でなければ、わたくしは兵を引き上げさせます」
「やってみろ……」むしろカガチは静かな調子で、しかも陶然と何かに酔うような調子で言った。「好きなようにしろ。だが、言っておく。おまえらが俺に指図できることなど、何一つないのだ。おまえらが俺に背くなら、この冬もトリカミの巫女……一人、殺す」
 イスズの顔は、かすかに蒼ざめた。それはカガチの発する邪気が、あまりにも濃いものだったからだ。



「トリカミ、トリカミ。何かと言えば、おまえらはあの地のことを口にする」
 ヨサミはカガチの言葉を褥(しとね)の上で聞いていた。何か返そうとしても、まだ息が荒くて声も出せない。すっかり身体がなじんでしまった、とヨサミは感じていた。カガチの荒々しい愛撫や交合にである。
 もはや苦痛はなく、むしろ悦びさえ覚えている自分が恐ろしかった。それは以前にも増して、自分を責めさいなむ罪悪感を生み出していた。
「なにがあそこにあるのだ」隣で横たわるカガチが尋ねる。
「……知りませぬ」ようやく声を発することができた。
「そうかな? タジマのアカルは何かを知っていた。俺がイズモへ支配を広げようとしたとき、アカルはトリカミだけには触れるなと、あのイスズのように言っていた」
 岩を削ったようなカガチの手と指が視野を多い、ヨサミの顔をつかんだ。みしっと頭蓋骨がたわむほどの力だった。顔を向けさせられる。
「ワの民の間には、トリカミが失われたとき、恐ろしい〝力〟が解き放たれるという言い伝えがあるそうだな。それは真実(まこと)なのか」
「ただの言い伝え。わたしは知りませぬ」ヨサミは指の間から、カガチの顔を見て言った。「知っているのなら、もはやカガチ様には隠しませぬ」
 ふん、とカガチは笑い、手を外した。型と痛みが残った。
「おまえたちが守ろうとするトリカミだからこそ、俺はこれまで支配に利用してきた。だが、もはやそのような必要はない。俺には大きな〝力〟がある」
「……トリカミをどうなるのですか」ヨサミは甘えるよう仕草で、カガチの胸板に手と顔を寄せた。
「カナンを滅ぼすためには、あの地を素通りにはできぬ。予定通り、次の新月の日を持って、イズモのカナンどもに攻勢をかける。だが、もし……そのような恐ろしい〝力〟があの地にあるのなら、見てみたいものだな」
 カガチは牙をむき出し、笑った。その男の胸で、ヨサミは体が芯から凍えて行く心地を味わっていた。


     3

 西の海峡ナガトを迂回し、大小さまざまな島々が美しく生み落されている内海を抜け、ようやく目的地にたどり着いたとき、アカルは驚きを感じた。
 コジマのわきを抜け、穴海にそそぐ川を遡り、港に到着して見た風景。
 その目の前に開けるキビの風景の明るさに驚きを感じたのだ。タジマとはまったく異なる豊かな広がりを持つ、ある種の包容力のようなものが土地にあった。タジマやイナバなどを陰とすれば、このキビには明瞭な陽の〝気〟がみなぎっていた。
 しかし、よく見れば、そんな豊かなキビの風景には、あちこちに毀(こぼ)れ落ちたような無残な部分があった。緑を失い山肌を露出した、寒々とした山々。中には土砂崩れが起きたことをうかがわせるものもある。クロガネ作りの燃料のために乱伐した結果だということは想像がついた。
 衛兵たちに案内され、向かったのは巨大な山城だった。中心部のアゾの国から背後の山々へ分け入っていく。急こう配を昇る道もあり、肉体的に強いほうではないアカルは、何度も休まねばならなかった。途中には何カ所も攻め込んでくる敵に対して岩を落とす仕掛けがあり、要所には小さな砦に匹敵するような門も設けられていた。警備はとてつもなく厳重だった。
 難攻不落の山城といってもいいだろう。スケールが他の砦とはまったく異なる。
 カガチがやがて次なる本拠とすべく、この十年ほどをかけて造営してきたものだけのことはある。ようやく山の頂に出ると、峰の続きにカガチの居城が見えた。そこが最後の道のりだった。

 山城に辿り着くと、眼下にはキビの平野を一望にできる風景が広がっていた。その美しさに息を呑まされる。
「ようよう着いたか」
 カガチは上機嫌だった。若い娘をかわたらにはべらせ、昼から酒を呑み、軍議の最中だった。呑んではいるが、酔っている様子もない。
 彼の周辺にはそうそうたる顔触れがそろっていた。このキビの首長たち、巫女たちはもちろん、近隣の支配地から集めた軍勢の指揮官たちだった。その中に、ヤマトの巫女、イスズの顔もあることを知り、アカルはこれもまた驚きに打たれた。
 タジマとヤマトは昔から密接な関係にある。イスズとアカルはともに三十。同じ年に生まれた巫女であり、過去に幾度か面談を持ったこともあるし、意識の中では時折、通じ合っていた。彼女らは離れていても、時に応じては相手のことをわかることができた。
 しかし、イスズがこのキビに呼ばれることはあっても、よもやカガチに協力することはあるまいと思っていたのだ。カガチの強圧的な支配にやむなく組み込まれた形になっていたが、イスズのヤマトはこのキビのような絶対支配を受けるところまでは至っていなかったからだ。
 ――なぜ、イスズ様が。
 そう問いかけたい想いに駆られたが、当のイスズは目を伏せ、意識も閉ざしていた。
「遅くなりました。船旅をお許し下さり、ありがとうございます」と、アカルは礼の口上を述べた。
「おまえは体が弱いからな。タジマの軍はもはや準備が整っておろうな」
「ミカソ様と共にすでに大山(だいせん)の麓に集結しておりましょう」
「水軍は?」
「とうにイナサのあたりで待機しております。いつでも中海(なかうみ)に攻め込めましょう」
「よかろう。これですべての駒が揃った――。コジマの水軍からも、明日にはイズモ沖へ到達するという連絡があった」
 ナツソが巫女としてあるキビのコジマの軍勢とは、アカルは途中ですれ違っていた。その時は、まだこの内海の範疇だったが、外海へ出れば、潮の流れに乗ってイズモ沖へ到達するのは早い。



 ※ この時点でのカナンの本陣は、トリカミの里の北、意宇(おう)の湖(宍道湖)の近くにあり、現島根県の県境付近での勢力を維持していた。カガチの作戦の目的はこれを四方から攻めて、殲滅することにある。


「明後日は新月。これで予定通りのカナン攻略に打って出られる」そう言いながら、カガチはかたわらの娘を見た。「のう、ヨサミ。待ちに待った時じゃ」
 ヨサミと呼ばれた娘には隠しがたい巫女的な所作が見られた。が、カガチのそばにいる彼女は、カナン殲滅作戦の話を楽しむかのような表情で聞いていた。
「今日よりわれらもイズモへ向かって進軍する。同時に大山の麓からミカソの軍が侵攻する。カナンも馬鹿ではなかろう。おそらくわれらの動向に気づき、阻止しようと戦力を振り向けてくる。そこが付け目。東と南の防衛線を維持するので精いっぱいとなったカナンの背後を、タジマの水軍とコジマの水軍が突く。カナンどもは総崩れになるだろう」
 ふふ、とヨサミは笑った。少し神経的な笑いだった。
 カガチの用意した作戦は、イズモを中心として支配を拡大しようとするカナンを完全に包囲するものだった。
 巫女たちは例外なく、この場に居合わせるだけで気分が悪くなるような想いに耐えていた。それはものすごい悪臭を発するもののそばに寄るのと同じだ。
 カガチは怨念的な〝力〟の集合体のようなものだった。彼がもともと潜在させていた憎悪と欲望が、今はとてつもない熾烈なレベルにまで高められていた。その影響のために、巫女たちは胸がむかつき、ひどい頭痛に襲われていた。彼女らがもともと持つべきヒビキと、カガチの発するヒビキは、まったく相容れぬものだからだ。清浄なる〝気〟が、悪しきおぞましい〝気〟で汚染されそうになる。
 アカルは必死になって自らを守らねばならなかった。ただ、この場にいるというだけでだ。自然と巫女たちは自らのまわりに「結界」を張り、カガチの〝気〟からの影響をかろうじて排していた。
 なぜこのようなことになってしまったのか。
 アカルは変貌を遂げてしまったカガチを前に、自問せずにはおれなかった。


 あの日からすべてが始まった――。
 カガチと出会った、あの日から。
 ――なぜ自分はあの男を助けてしまったのだろう。
 アカルは今に至るまでに、何十回何百回とそれを自問していた。その自問とともに蘇えって来るのは、十六年前の邂逅だった。
 アカルはもともとタジマ、タンゴあたりを支配する海族の巫女である。この海族の聖地がタンゴの沖合に浮かぶ冠島(かんむりじま)である。毎年一回、必ずその島で執り行われる儀式があり、当時巫女として立ったばかりのアカルは、生まれて初めてその島での祭祀を執り行った。
 そして帰還しようとしたその時、島の岩礁に打ち上げられた人影があることに気付いた。それがカガチだった。ぼろぼろの身なりで、生きているのが不思議なほど、痩せこけていた。
 冠島は神の島であり、基本的には無人島である。放置しておけば、死んでしまうのは明らかだった。アカルは伴の者に命じて、カガチを連れ帰った。
 カガチは翌日、意識を回復した。その知らせを受け、彼の様子を伺いに出向いたとき――。
 そう、そのときだったのだ。
 カガチはその眼を大きく見開き、しばらくアカルの顔を食い入るように見つめていた。信じられないものを目の当たりにしたという表情であり、彼の唇が何かをつぶやいて動いた。



「どうされました」
 アカルのその質問に、カガチは答えなかった。おそらくカガチは、アカルよりは二つか三つほど年上だった。アカルは当時、まだ十四。若い巫女の顔立ちの中に彼が見出したものがなんだったのか。今に至るも、その驚きの意味は伝えられていない。
 大陸を追われて逃げてきた。家族は皆、殺された。
 彼が言葉少なに語った事情に同情したアカルの父、タジマの首長が彼をみずからのもとで登用しようとしたとき、アカルは言い知れぬ胸騒ぎのようなものを感じた。それは明らかに巫女としての直観が、未来に抱かせた鋭い不安であり、警告だった。
 だが、アカルは父にそれをやめさせることができなかった。カガチと顔を合わせるたび、彼の眼の中にある憂愁の光が、初めて目と目を合わせたときの、あの彼の表情を思い出させたからだった。
 アカルの中に、何かを見出した。何かを必死に求めている。
 そんな若者の表情だ。
 カガチは製鉄の技術を持っていた。それだけではなく、非常に勇猛な男だった。年齢にしては体格も非常に大きく、その当時、ワカサで起きていた部族間の争いを、父の号令に従って見事に鎮圧してしまった。その功績を評価され、カガチはワカサ付近の国々を任されるようになり、そこを中心におもに北へ支配を広げた。その支配権の拡大は、しゃにむなものであり、カガチはみずからの国に「オロチ」という名を掲げた。
 タジマやイナバでは、タタラ場が次々に増産され、その鉄生産の〝力〟を背景に、カガチは支配を伸ばし続けた。カガチに協力的だったアカルの父も、この頃になると大きな懸念を抱くようになっていた。タジマがオロチの属国化しつつあったからだ。
 だが、その懸念を抱いたまま、父は病でこの世を去った。
 その瞬間に、タジマ・タンゴはカガチによって取り込まれてしまった。もはや彼に相対しうるほどの力の持ち主は存在せず、またたくまにカガチはホウキ(大山付近)あたりまでの領地を掌中にし、さらに鉄生産に拍車をかけ、その労働力を確保するために、オウミやヤマト、ヒメジなどへと手を伸ばし、そして最終的にキビをも支配下に収めて行った。
 この六、七年の間には、イズモに根強くあった勢力を排し、鉄資源の豊富なイズモに拡張しようとしていた。それがこの十六年の間に起きたことだ。
 彼にとって計算になかったのは、カナンの渡来であったろう。イズモ各地に建設していた新しいタタラ場の数々も奪われ、支配権はホウキあたりまで後退させられていた。
 カガチはそれを奪い返そうとしている。
 いや、カナンを完全に殲滅しようとしている。

 ――多くの者が死ぬだろう。
 アカルは暗雲が垂れ込めるような未来を見ていた。その下には、累々たる屍が横たわっている。それはもはや動かしがたい未来に思えた。
 今のこの事態、そしてこれからの未来。
 アカルはそのすべてに大きな責任があった。
 あのときの、カガチの瞳の中にあったもの。
 たったそれだけ。その一つのことだけが、なぜかアカルの心をつかんで離さないのだ。
 自分が冠島でカガチを助けさえしなければ。
 カガチを登用しようとした父に警告さえ与えていれば。

 今のすべてはなかった。



 カガチ軍は山城を出立した。
 アカルは他の巫女たちと共に、部隊の中ほどに用意された御輿(みこし)に乗せられた。御輿は二つ用意され、アカルはイスズ、ナツソと共に、もう一つの御輿にはアナト、シキ、イズミらが乗せられた。運んでいるのは、彼女らの国から徴用されている兵士だ。
 すぐそばを、一人の男が両手を背後で縛られた状態で歩かされていた。身に付けている衣類はぼろぼろで、あちこちに血が滲んでいた。黒髪黒眼だったが、どことなく異国人らしい容貌に見えた。
 歩くのが精いっぱいで、兵士に鞭打たれている。
「カナンの捕虜にございます」ナツソが言った。
 アカルやイスズが、その者を注視しているのに気づいてのことだった。
「たしか、モルデとかいいました」
「なぜ、あのような捕虜まで連れて行くのです?」アカルは尋ねた。
「わかりませぬ。ただ、あの者はカナンの捕虜の中でも、かなり地位の高いものと思われています。カガチはたぶん利用価値があると考えているのではないでしょうか」
「交渉に使うつもりでしょうか」
「おそらく違うでしょう」イスズが言った。「カガチはもっと邪悪な考えがあると思います」
「と仰いますと?」ナツソが訊いた。
「あの者からは、彼の愛する者への想いが溢れています。あの者はおそらく、カナンの姫君……たしかエステルといいましたか、その御方を愛しているのです」
 アカルは舌を巻いた。イスズは読心にも長けている巫女だ。
「カガチはそれを知っているのか、あるいは読み取っているのです」
「読み取って?」
「カガチには以前になかった〝力〟を感じます。一つは彼が帯びている剣、もう一つはわたくしどもにも似た〝力〟です」
「それは……」ナツソの表情が曇った。「おそらく、ヨサミの〝力〟だと思います」
「あのカガチの隣にいる巫女ですね」
 イスズとナツソの会話から、アカルもその娘が巫女だという事実を知った。が、巫女というには、すでに……。
「ヨサミはカナンによって父母、カヤの国の同胞(はらから)を皆、殺されました。ヨサミは復讐のために、カガチにみずからのすべてを捧げたのです。ヨサミは読心もできますし、先視(さきみ)もできます」
「その〝力〟は、おそらく剣の〝力〟によって、何倍にも高められているのでしょう」
「イスズ様、カガチはなぜあのようになってしまったのでしょうか。以前より恐ろしいものを秘めた方でした。が、今のカガチはまさに鬼神そのもの……」
「あの剣がカガチを変えたのです」と言ったのは、アカルだった。「カガチが帯びている剣は難破船と共に漂着したもの。わたしたちが作っているような、クロガネの剣ではありませぬ。あれはたぶん、この世のものではない霊剣です」
「やりそうですか」イスズが言った。「フツノミタマの剣。そのような言葉が、ずっと降りてきていました。あれは荒ぶる神の剣です」
「カガチは……もともと大陸の戦乱の中で肉親を殺され、半島を小舟で脱出してきた者です」アカルはみずからの知りうることを話した。「カガチはこの十数年、支配を広げてきましたが、それはいつか肉親を殺した大陸の国家に復讐するため……」
「その怨念でヨサミとカガチは結びついたということでしょうか」と、ナツソ。
「おそらくそうでしょう」イスズが冷静に言った。「鬼というものは、人の欲が生み出すものです。多くは切実なものです。たとえば飢えです。腹を空かせ、食べたいと思う欲求。あるいは眠りたいとか、あるいは愛欲などもそうです。これらは人間の生理に沿ったもので、否定できないものです。カガチは半島を逃げ出してくるときに、多くの悲しみや憎しみと共に、生き抜きたい、という本質的な欲求を強く抱くようになっていたのでしょう」
「それは……わかります」アカルはうなずいた。「タジマへ来て以来、カガチはこの地で生きて行くため、必死であったと感じます」
「鬼は欲望そのもの。誰しも鬼を心の奥底に飼っているのです。カガチの場合は、復讐への欲求があまりに強く、それが彼の今までの行動であったことは、わたくしも感じています。たぶん、フツノミタマの剣の〝力〟が、彼の中の非常に強い憎しみや本質的な欲求を膨れ上がらせてしまったのでしょう」
「そして、カガチは鬼になった……」ぶるっと、ナツソは身を震わせた。
 キビの巫女たちは、最年長のアナトでさえ、イスズやアカルより年下だった。まだまだ少女らしい感性や未成熟なところを残していた。
 アカルは自分たちよりも年下で、しかし、すでにはるかに自分の精神(こころ)を凌駕している巫女には、ただ一人しか出会ったことがなかった。
 トリカミの里のクシナーダだった。出会ったのは六年ほど前で、クシナーダはまだ十歳ほどの少女だった。だが、そのときでさえ、すでに「かなわない」と感じた。
 ――あなたはお母さんよね。
 少女のクシナーダの声が、ふっと脳裏をよぎった。
「鬼となった者は、もはや救われないのでしょうか」と、ナツソが言った。
 イスズもアカルも沈黙していた。
 鬼が肉体に実体化するというのは、稀なことではあったが、現実にあった。単純に言えば、肉体は精神の実体化したものであるからだ。精神の力が物質化を遂げるほどになれば、それはあり得るのだ。
 しかし、一度、物質化して肉体と同化したものを切り離す術は、通常はなかった。
「そう……ですか」ナツソは悲しみをにじませ、御輿の床に手をついた。
「カガチが剣の〝力〟であのようになったとしても、それは本人が望んだ結果。なぜ、あなたがそのように悲しむのです」
「ヨサミがかわいそうで……カガチと一つになっています」ナツソの手の上に涙がこぼれ落ちた。
 イスズは黙って、そんなナツソを見ていた。
「イスズ様、お伺いしてもよろしいでしょうか」アカルは言った。
「なんでしょう」
「なぜ、イスズ様はこちらにいらっしゃったのです。このような殺伐とした場に」
「アカル様」イスズは切れ長の目を捕虜の男に向けながら言った。「わたくしには、果たさねばならぬ責があるのです」
「この争いに、イスズ様になんの責があると申されますか」
「あるのです」
 アカルは知った。自分がこの戦乱に大きな責任があると感じているのとは別な意味で、イスズもまた何らかの大きな役割を持たされてここへ駆けつけたことを。
 山深い峠が迫っていた。
 この山々の向こう側。そこにカナンの軍が展開している。

 その大戦乱の火ぶたが今、切って落とされようとしていた。


     4

 ――イヨイヨダナ。
 夜半から降り始めた雪は、勢いを増すこともないかわり、止むこともなく、ずっと静かに振り続けていた。すっかり葉を落としてしまった木の枝にも、わずかに雪が積もっている。その枝の一つに、大きなカラスの姿があった。
 スサノヲはうんざりしたようにそれを見上げ、毒づいた。「このストーカー野郎が」
 ――ハッハッハ。ズイブント洒落タ言葉ヲ知ッテオルナ。
「クシナーダが言うには、二千年ほどたつと、自分自身が生きることよりも、他人に執着して生きるよすがにする人間が現れるそうだ」
 ――ソナタニ縁(ヨスガ)ハアル。ガ、ソレユエニ見守ッテオルダケノコト。ワレハ何モソナタニ要求ハセヌ。
「楽しんでいるだろう」
 ――ソレハワレデハナイ。ワレノソバニオル女子(おなご)ガ面白ガッテオルノダ。
「ウズメとかいうやつだろう。クシナーダが言っていた。この頃、ずっとウズメ様の気配を感じると」
 ――ウズメダケデハナイゾ。アラユル存在ガ見テオル。
「鬱陶しい」スサノヲは言葉ほど苛立っているわけではなかった。むしろ、カラスとの対話を面白がっている様子すらあった。「なんのために、そのように見ているのだ」
 ――ワレラガイナケレバ、ソナタラノ世界ハ存在スルコトサエ危ウイ。見守ル者ガアッテコソ、コノ世界ハ成立スル。
「……そういうことか」
 ――コノ根ネ世界ハ、ジツハトテモ危ウイモノダ。ウタカタノ夢。見守ル者ナクシテ、コノ世界ガ成リ立ツコトハアリ得ヌ。
「しかし!」スサノヲは言葉を荒らげた。「ここで生きる者には、これは夢ではない。人の死や悲しみ、飢えや病や老いの苦しみ、すべてが現実だ」
 カラスは喉の奥で笑うようなヒビキを伝えてきた。
 ――オウオウ。ソナタノ言ウ通リジャ。イイゾイイゾ。
「なにが『いいぞいいぞ』だ」
 ――よもつひらさかヲ抜ケ、イザナミ様ニ会ウテ来ルガヨイ。
 カラスは木の枝を飛び立った――いや、そのように見えた。実際には羽ばたいた瞬間には消えていた。


 静かだった。
 トリカミの里にはうっすらと雪が積もっている。巨大な柱が直立する場所から、広い里の風景を眺望すると、なにもかもが真っ白で美しかった。静寂が包み込んだ里を、里人が飼っている犬が歩いていく。
 あまりにも静かだった。
 スサノヲはアシナヅチの居宅へ向かった。そこからはすでに人の話し声が聞こえていた。
「だから、俺も行くって」と、強硬に主張しているのはイタケルだった。「このところ里の周辺がおかしいんだ。例のカナンのやつら、妙に殺気立っている。なにがあるか、わかんねえ」
「だからこそ、イタケルには里に残って、皆を守ってほしいのです」返すのはクシナーダだった。
「岩戸を開けるのは、わしとクシナーダ、それにミツハがおれば良い。――お、スサノヲ、参ったか」
 アシナヅチの言葉を受けて、皆が戸口を振り返った。その視線を浴びながら、スサノヲは中に入った。クシナーダが少し動いて空けた場所へ座る。アシナヅチ、ナオヒ、クシナーダ、イタケル、ミツハ、そしてオシヲまでいた。
「なにを……?」話し合っていたのか、という問いは、どちらかというと確認のためだった。
「おめーをあの世に送るのに、誰が行くかって話だ」と、イタケル。
「あの世……」
「ヨミの国です」と、クシナーダが修正する。
「同じだろう」
「同じではありません」
「お、俺も行かせてください!」
 オシヲが両手をついて、前のめりになって言った。が、アシナヅチは、「だめじゃだめじゃ」と一蹴した。
「なぜですか。みんなを守るためです」
「おまえごときがなにを守るじゃ」
「いや、オシヲはこのところ剣の練習だってしてるし、へたな大人より、よっぽど頼りになるぜ」
 イタケルの言葉に、長く垂れ下がった白い眉毛の下でアシナヅチの眼が動いた。
「剣の練習?」
「あ、いや、その……」
「イタケル、おまえはあのオロチ兵たちの剣を捨ててなかったのか」
「――い、いや、だってもったいねえだろう」
「お、俺がイタケルに頼んだんです! 剣を教えてくれって!」
 弁護に回ったオシヲに、アシナヅチとクシナーダは顔を見合わせた。
「剣を持つ者は剣によって滅びる」と、口を挟んだのはナオヒだった。「アシナヅチ、そなたのいうこと正論じゃ。しかしな、ツクシの有様を見てみるがいい。毎日のように侵略を受け、生まれ育った土地や、愛する親兄弟を奪われ、それでも剣を取らずにすむほど、現実はゆるくはないぞえ」
「わかっておるわ、そのようなこと」
「スサノヲをヨミに送った後が心配なんだよ」イタケルが助勢を得て、勢い込んだ。「岩戸は里から離れた山ん中にある。そんなところにアシナヅチ様とクシナーダ、ミツハだけなんて、危険すぎる」
「それはたしかにそう思うが」と、スサノヲはアシナヅチを見た。
 そしてクシナーダの横顔も同時に、その視野に収めた。彼女は表情をこわばらせ、白い顔をさらに白くしていた。彼女にしては珍しいほど、何か張りつめたものを感じさせた。
「仕方ない……。イタケル、オシヲ、約束せよ」アシナヅチが告げた。「どのようなことがあろうと、自ら剣を抜くな。良いか?」
「あ、ああ」
 イタケルとオシヲは顔を見合わせた。二人はうなずき合った。
「わかった。約束する」
「よかろう。では、二人に同行してもらおうか」
 やった、と言わんばかりに、イタケルとオシヲは互いの手を叩き合った。
「わしは足が悪い。ニギヒと共にここで留守番しておることにする」ナオヒが言った。「そのほうがよかろ? アシナヅチよ」
「そうじゃな。そうしてもらおう」
「岩戸まで陽があるうちに着いたほうがいい。雪も降っているし、そろそろ出かけなくては」イタケルが立ち上がった。
 クシナーダも無言で腰を上げた。アシナヅチの居宅を出、雪景色となったトリカミの里を見つめる。その眼差しが何を見ているのか、スサノヲはひどく胸騒ぎを覚えた。
 気配を察してか、家に籠っていた里人がおおぜい見送りに出てきていた。トリカミの里人は、なぜか勘の鋭い人間が多い。
「お気をつけて」
「かならずお帰り下さいよ」
 そんな声があちこちからかけられた。そんな中から、スクナがやって来るのが見えた。
「スサノヲ……」少女の眼はうるんでいた。「絶対、帰って来てよ」
「ああ、心配するな」微笑し、頭に手を置く。
「絶対だよ」
「ああ」
 スクナにとって、スサノヲは親代わりのようなものだった。絶対のよりどころなのだ。
 スサノヲにとっても、スクナは小さな存在ではなかった。少女を助けることで、自分の中での何かが変わった。その後の流れもきっと変えた――。
 最初はあわれと思い、気まぐれに助けたにすぎなかった。
 しかし、助けるということが、自分のどこかに血を通わせた。それがきっと、クシナーダや今身の回りにいる人々とのつながりを生み出す源になったような、そんな気がしていた。
「おまえは大切な存在だ」そういうスサノヲの眼はやさしかった。「おまえが俺に与えてくれたものは、きっととても大きい。だから、おまえのところに必ず戻って来るよ」
 うん、とスクナはうなずいた。泣きそうな表情だ。
「準備はできた。行こうか」イタケルが声をかけてきた。肩に長い大きな縄のようなものを担いでいた。
 スサノヲはスクナをその場に残し、歩き出した。里を出て行く道筋に、ニギヒと彼の従者数人の姿が見えた。イト国の皇子である彼は、この場に逗留するというナオヒのわがままにつき合され、この十日ほど、トリカミに留まっていた。アソの大巫女一人を残して帰還もできないからだ。
 ニギヒは部下から何事か報告を受けていた。部下に指示を与え、その者が離れて行くのと、スサノヲたちが彼のそばに近寄るのはほぼ同じだった。
「お気をつけて」と、ニギヒは言った。「ヨミの国なるもの……わたしも一度、この目で見てみたいものです」
「そんなに気軽に行く場所ではない」と、アシナヅチ。
「ナオヒ様がこの場におられる理由、呑み込めてきました。お留守の間、わたしもナオヒ様とご一緒に、この地をお守りいたします」
「よろしく頼む」
 アシナヅチの言葉と共に、一同はニギヒをその場に残し、再び歩き出した。
 何かが起きようとしている。
 それは全員が感じ取っていた。

 岩戸への道。
 それはトリカミの里から川の支流の一つを、上流へと遡る道筋だった。獣道のような道を歩き、時に瀬を渡り、岩場を登らねばならなかった。大の男のイタケルでさえ、息が切れる道のりだ。とりわけ足腰の弱っているアシナヅチには厳しく、イタケルとスサノヲが交代で彼を背負う場面も多かった。
 途中、一行は一頭のクマに遭遇した。先頭を歩くオシヲが気づき、静かにして山の斜面を歩くクマが行きすぎるのを待った。
「おかしいな……。もう冬眠している頃なんだが」イタケルがつぶやいた。「今年は栗とか、木の実も豊富だった。腹が減っているはずはないんだが」
「彼らも気づいているのです」クシナーダが言った。「安心して眠れる状況ではないと」
「山がざわざわしています」ミツハもそんなことを言い、自らの胸を抱くようにしていた。
 クマをやり過ごし、斜面の険しい道を登りきった彼らは、もう岩戸を目前にしていた。道を下って行くと、一度離れていた渓流沿いにまた近づくのが音で分かった。
 夕暮れが迫って来ていたが、眼下に川の流れが見えた。
「あれが、岩戸じゃ」アシナヅチが指差した。
 それは……。
 まさに巨大な一枚の岩だった。


 それが渓谷をふさぐように、縦に突き刺さっている。
 谷間を埋める一枚の板のように。ただ、それは板というには、あまりにも巨大であり、岩盤の一部が切り出され、そこにはまり込んでいるように見えた。その一枚の大きな壁が、川を上流と下流で隔てていた。
 ただ、流れはその岩の下を通過してきているのだろう。とだえることなく、流れ続けている。
 が、視覚的にはその巨岩は、完全に渓谷と川を隔てているように見えた。
 巨岩のもとへと降りて行く道は、人の手によって明らかに手を加えられ、階段状になっていた。ここが祭祀場として、長く大切にされてきた証(あかし)だった。
 降りて行く途中、岩戸の前にの水場にいた白い影が動いた。
「あ……」と、オシヲが小さな声を上げた。
 ふわっとその白い影は羽を広げ、岩戸の向こう側へと飛び去って行った。首の長い鳥だった。
 あまりにも幻想的な光景だった。その鳥は、まるで神の遣いのように見え、これから岩戸を通り抜けようとするスサノヲを導くようだった。
 雪は、今はやんでいた。
 しかし、木々の枝に乗っている雪が、風に吹かれては細かい塵のように舞い落ちてきていた。それが岩戸の前に小さな泉のようになって溜まっている水面に、音もなく吸い込まれていく。ただ波紋だけを広げ。


 言葉にできぬ霊気が、あたりには濃厚に立ちこめていた。
 ――なんという場だ。
 スサノヲはこの地上に降りて以来、初めて感じるほど強い〝神気〟に全身の皮膚が粟立つのを感じた。
 こんな神聖な場が現実に存在しているとは、にわかには信じがたかった。いや、すでにここは半分、地上ではないように思えた。
 あたりは急速に暗くなってきていた。
 もっとも日照時間の短い季節。しかも深い渓谷。
 闇の訪れは、あまりにも速やかである。
 イタケルとオシヲが持ってきた火打石を使い、可燃性の高い木屑に火を起こし、それを松明数本に移した。このような時のために用意されているのだろう。岩戸の近くに小屋があり、そこには薪も蓄えられていて、焚火も用意された。燃え盛る炎が、神聖なるその場を、さらに神秘的な光でゆらめかせた。
「用意ができました」
 小屋の中で着替えを済ませてきたクシナーダとミツハは、真っ白な衣装に身を包んでいた。ただ、クシナーダはその肩に、鮮やかな朱の領布(ひれ)をまとわせていた。
「もうよいかな」アシナヅチは渓谷の隙間にある、わずかばかりの空を見上げた。
 そこにはすでに太陽の光はなく、目を凝らせば、雲の切れ間に見える星さえあった。
「この岩戸の向こうに、ヒバという御山がある」アシナヅチは、スサノヲに向かって言った。「イザナミ様が眠る御山じゃ」
「イザナミ……母が?」
 スサノヲは戸惑った。彼にとり母は、天界に存在した大きなヒビキそのものだった。人ではなく、物質でもない。
「スサノヲよ、そなたが人の身としてこの地上に生まれた瞬間に、この地にも母なる存在が生まれたのじゃ」
「どういうことだ」
「母なくして、子は生まれぬ。道理であろうが」
「それはそうだが」
「スサノヲ、いつぞや、月の夜にお話しいたしました、わたくしたちの民に伝わる古い物語を覚えておられますか?」クシナーダが言った。「天界で乱暴を働き、ヒビキの女神を岩戸に閉じ込めた弟神のことを」
「覚えている」
「その神の名は、スサノヲ、と伝えられています」
「な……」
 その神話上の神の名を、たまたまスサノヲはスサの地で、エステルの弟、エフライムによって与えられた――?
 ――スサノヲ?
 初めて出会ったとき、その名を聞き、クシナーダが目を丸くし、何度か頷いていた光景がよみがえる。
「あなたの物語が生まれた瞬間、母なるイザナミ様もこの地上にすでに在ったのです。歴史はすべて一瞬にして生まれたのです、きっと」
「母が地上に……」
「それがいつの時代なのかは定かではありませぬ。イザナミ様はこの地上のすべて、この星のすべてを生み賜うた母神様。そしてこの世を去られ、ヨミにおさまられた大神。スサノヲはその母のことを想い、天界で〝泣きいさちる神〟でした。母に会いたいと」
「母に会いたいと……」
「けれど、わたくしたちの物語は伝えておりませぬ。天界を追いやられ、母に会いに行かれたはずのスサノヲの物語を。スサノヲは――いえ、あなたは――」
 クシナーダの手が、スサノヲの胸に触れた。
「その物語の本当の続きを紡ぎに来られたのです、きっと」
 クシナーダの掌から、熱いと感じるほどのものが伝わってきて、スサノヲの心臓を打った。
 クシナーダ、アシナヅチ、ミツハ、イタケル、オシヲ。
 十の瞳がスサノヲを見つめていた。
「俺は……神などではない。ただ、天界から零れ落ちてきただけの男だ。少しばかり人より力に優れているにすぎぬ」
「わかっています。今のあなたは天にある神などではありません。人です。ただ、稀有な生まれをしたにすぎません。なぜなら――」クシナーダは他のトリカミの同胞を振り返った。「人はみな、天から零れ落ちたものだからです。それはご存知でしょう」
「それは……わかる」
「わたくしたちは幾度も幾度も生まれ変わり、幾多の人生を生きる御霊の一つです。あなたも、わたくしも……」
 見つめるクシナーダの瞳の中に吸い込まれそうだった。
「いつかの時代より、あるいは始源の時より、イザナミ様はあの御山に眠っておられます。天界の〝今〟は、この地上世界の〝すべての時〟……そうなのでしょう? スサノヲ」
「そなたの言う通りだ。俺に母なるものがあるのなら、たしかにイザナミもこの地上存在していなければならない」スサノヲは振り返り、岩戸の向こうにあるはずの、すでに闇の中に沈んでいる山の姿を想った。「母があそこに……」
「ヒバはヨミそのものとも言える」アシナヅチが言った。「これよりこの岩戸を開けば、ヨミへ通じるヨモツヒラサカも開かれる。したが、スサノヲよ。この岩戸を開いておれる時間、それは今宵限りじゃ」
「今宵限り」
「この季節の新月の夜しか、ヨモツヒラサカは開かぬ。夜が明ければ、岩戸は自然と閉じる。そうなれば、そなたはもはや地上には戻れぬ」
「わかった。……しかし、どうやってあの岩戸を開くのだ」
 スサノヲは松明の炎に照らされる巨岩を仰いだ。それは決して動かすことなどかなわぬ重量感を備えていた。渓谷にがっちりとはまり込んでいて、たとえ二十人三十人の男たちが渾身の力をふるっても決して微動だにしないだろう。
「ご心配には及びません。さあ、アシナヅチ様。始めましょうか」
 うむ、とアシナヅチはうなずいた。
 ミツハが手にしていた笛を顔の横に添えた。
 ひと呼吸あった。
 ミツハの奏でる笛の音が、冴えざえと渓谷に響き渡った。神気の漂う水場に、それは波長となって広がった。岩戸の巨岩の前にある大きな岩の一つの上にクシナーダが登る。ミツハの笛の調べに合わせ、ゆっくりと舞い始める。
 さながらそれは天女の舞いだった。彼女の身に付けている白い衣装が、ふわっと風をはらんで羽衣のようだった。
 最初、クシナーダは硬い表情で踊り始めた。が、やがてそれは柔らかいものへと変わり、表情には静かな悦びに満ちたものが広がって行った。踊ることに夢中になり、やがては忘我のような境地へと変わっていく。その時、クシナーダの身には何かが降りてきたように思えた。
 いや、実際、スサノヲの眼にはクシナーダの身体がすうっと半透明のようになり、その身体に重なり合って踊る女神の如き存在が〝視えた〟。
 その女神は輝くような裸身だった。
 あまりのその美しさに、スサノヲは呆然となった。女神は嬉々として踊っていた。その女神の喜悦が、今はそのままクシナーダへ伝播していた。
 その女神の姿が見えているのかどうか、イタケルとオシヲが声を上げた。
「お、おい……あれ」
 見ると、岩戸の巨岩が透けはじめていた。あれほど密度が高く、強固そうに見えた岩盤が、まるで薄い紙のように透けたり、また元に戻ったりを繰り返していた。
 おおおおおおおお―――――!
 両手を胸の前で組み合わせたアシナヅチが、地の底から湧き出るような声を発した。老体の肉体を通じ、蒼白いオーラのようなものがほとばしり、それは二つに割れて岩戸の左右両端につながったように見えた。
 すると岩戸は透明化したままの状態で定着した。
 笛の調べは終わっていた。
 クシナーダは岩の上で、崩れるようになっていた。
「クシナーダ……」スサノヲは岩に上がり、彼女の肩に手をかけた。「大丈夫か」
「……はい。心配ありません」
 そう言いながら立ち上がろうとするが、消耗は隠しがたかった。スサノヲの手に支えられ、ようやく岩を降りてくる。
「大丈夫です。ウズメ様と共鳴したので、戻るのに少し時間がかかるだけです。それよりもスサノヲ、これを――」クシナーダは肩からかけていた朱の領布を、スサノヲの首に回してかけるため、伸び上がった。「これがヨミの亡者たちからあなたを守ります。さあ、早く行ってください。時間が……」



 スサノヲは自分の肩から掛けられた領布を握った。
 岩戸を振り返った。それは今も完全に透明化していて、その先の風景が見えていた。
 その先には岩戸を上から見たときにあった、岩戸に隔てられた渓谷の向こう側があるだけだった。
「本当にこの先に……?」
「何をしておる。ヨモツヒラサカはすでに開いておる」
 アシナヅチに叱咤され、スサノヲは動き出した。クシナーダから手を離すのが忍びなかった。が、このままではいられなかった。岩戸の前の水場へ、ざぶざぶと入っていく。水は恐ろしく冷たかった。
 岩戸の先には、ただの渓谷しかない。そこにあったはずの岩……手を伸ばすと、そこに吸い込まれたスサノヲの手は見えなくなった。引くと、元に戻る。
 あきらかに空間がそこで切り替わっていた。
 スサノヲは振り返り、一人一人を見つめた。
「スサノヲ様、どうか御無事で……」ミツハが祈るように言った。
「さっさと戻って来いよ」と、イタケル。
 スサノヲはうなずき、最後にクシナーダと目を合わせた。そして、彼女の目を振り切るように、水を撥ね、岩戸の中へ飛び込んで行った。彼の姿は、異なる空間に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。
「スサノヲ……」クシナーダは岩戸の前にしゃがみこんだ。彼女もまた祈るように。
「イタケル、早くしめ縄を。その左右に張るのじゃ」
 アシナヅチに命じられ、イタケルが担いでいた縄を持って、「お、おお」と動き出した。彼自身、岩戸を開くところを見るのは初めてで、何もかも要領を得ているわけではなかった。岩戸の前に左右に張り巡らす。
「これで、いいのか」
「ああ、こうしておかねば、わしの張った結界だけでは心もとない」
 そのときだった。
 彼らの頭上に人の気配がした。甲冑が触れ合う音。男たちの話し声。彼らが松明の光を見つけ、やって来ているのは明らかだった。
「こいつはやばいぜ」イタケルが言い、腰の剣に手をかけた。
 急な石段を降りてくる男たちは、四人の男たちだった。その武装から、一目でカナンの兵士と分かった。
「おまえたち、このような場所でいったい何をしている……」
 降りてきた男たちはいずれも血濡れた剣を持ち、そして息も絶え絶えだった。血走った眼をぎらつかせ、警戒心をみなぎらせていた。傷を負っている者もいた。
「わしらはたたこの聖地で供え物をしておっただけのこと」と、アシナヅチが言った。
「こんな夜にか」
「おい、こんな連中、放っておこう。追手が来るぞ」他の兵士が言った。「あの化け物みたいなのに襲われたら、ひとたまりもな――」
 ぶわっと黒い風圧が、空から降ってきた。カナンの兵士たちは、そこに出現した巨漢を見て、悲鳴を上げた。
 黒頭巾の巨漢は、残忍な笑みを浮かべ、両手を大きく広げ、カナン兵たちの前に立ちはだかった。
 カガチだった。


     5

 満を持して、カガチはカナンに攻勢をかけた。
 イズモの東方より、二つに分けられたタジマ、イナバ、コシを主力とする部隊、そして南からキビ、ヒメジ、ヤマトらを中心とする大戦力が侵攻し、それぞれ初期のカナンの防衛線を突き崩した。




 イズモを中心とするカナンは、この東と南二方向からの侵攻は、イズモの東側で合流し、そのまま西へ押してくるものと読んだ。それが地理的にもっともあり得る進路だったからだ。そのため、戦力のほとんどをその東の防衛に振り向けた。
 ところが――。
「われらは西から峠を越える」
 総攻撃の前、直感のようにカガチは南のキビ方面から侵攻する部隊も二つに分け、そして西へ迂回する部隊の指揮を自分が執った――いや、カヤを奪還したときのように、自らが先陣を切った。数で勝るという確信があるからこその戦術だったが、なによりも己自身に頼むところが大きかった。
 ヒバの山の近く。
 カガチの部隊は中枢である巫女たちを抱えての峠越えを敢行した。脚を止められるほどの雪でなかったのが幸いし、侵攻の時期を合わせ、手薄なカナンの防衛線に襲いかかった。その峠はトリカミの南の山中にあり、エステルはトリカミに手を触れないというスサノヲとの約定を守っていたため、この南の峠についての防衛線は、きわめて手薄だったのだ。
 カガチの策略は、まさに図に当たった。南方からの侵攻への備えが十分でなかったカナンの守備隊は総崩れとなった。
 そして、ほぼ同じころ、タジマの水軍、コジマの水軍が北方より侵攻したため、カナンの動揺は甚大なものとなった。
 こうして幾多の山野で戦いが繰り広げられ、オロチの連合軍は巨大な大蛇の如き勢いを得て、それぞれの峠を越え、イズモへと侵攻を果たした。
 カガチ自身、今、トリカミの聖地、岩戸の前に立っていた。
 血に飢えた、破壊の欲望の化身として。

「おや――これはアシナヅチ様。久しいのぉ」カナン兵を追って乱入したカガチは、そこにいる面々を見渡し、言った。「ほお。巫女様もおるではないか。たしかクシナーダと申したな」
「カガチ……」イタケルはほとんど剣を抜きかけ、アシナヅチとの約束を思い出したのか、思いとどまり、ただクシナーダとアシナヅチを守るべく動いた。
 オシヲもそれに倣う。オシヲはミツハをかばうように立っていた。
 頭上から声が降ってきた。
「カガチ様! カナンのやつらは!?」
「ここにおるわ」
 オロチ兵たちが十数名、石段を駆け下りてくる。多勢に無勢。カナン兵たちの進退は窮まった。彼らの背後には冷たい渓流しかなく、川も岩場だらけである。
「カガチ、ここでの殺し合いはやめるのじゃ」アシナヅチが言った。「ここはわれらの聖地。ここを血で汚してはならぬ」
「どこであろうが、知ったことではないわ。――やれ」
 カガチの命を受け、オロチ兵はカナン兵に斬りかかった。剣の弾ける音。火花。そして、悲鳴。
 オロチの剣は以前よりも鍛えられていた。カナンとの剣戟に耐え、しかもオロチ兵たちは首や関節など、鎧の隙間を狙うよう訓練されていた。
 一人、また一人と打ち倒され、その地が聖地の水を赤く染めた。
 逃げ場を失っているカナン兵はしゃにむに突進し、囲みを破った。そのうちの一人はカガチによって、首を切り飛ばされた。が、もう一人は岩戸のある方、アシナヅチやクシナーダのいる方へ走った。今は消えている岩戸の先へ逃げようとしたのだ。
 だが、他のオロチ兵たちが追いかけた。
「危ねえ!」イタケルが叫び、アシナヅチやクシナーダをかばいながら守ろうと動いた。
 殺到するオロチ兵が、カナン兵の背後から襲った。一撃二撃は鎧によって守られた。首を狙って横払いに振るわれた剣をかろうじてかわす。
 空振りに終わったオロチ兵のその剣は、結界のしめ縄を切った。
「いかん! 結界が!」アシナヅチが大声を上げ、岩戸に近づいた。
 その瞬間、オロチ兵が突きだした剣が、動いたアシナヅチの胴を貫き、最後のカナン兵も別な者に首を貫かれた。
 息を呑む一瞬、そしてその直後、ミツハの悲鳴が上がった。
 岩戸の前に、カナン兵とアシナヅチは折り重なるように倒れた。
「アシナヅチ様!」そばにいたクシナーダが取りすがった。「アシナヅチ様!」
「……てめーら」イタケルは双眸を燃え上がるように光らせ、振り返った。「許さねえ……アワジや、みんなの恨み……」
 イタケルは剣をついに抜いた。振りかぶり、カガチに向けて叩きつけた。あっさりとカガチはそれを弾き返した。イタケルはもう一度、それを繰り返したが、次には剣が折れた。彼の手元には短い刃と柄しか残らなかった。
 カガチの持つ、ゆるいそりを持つ剣は、怪しい光を放っていた。
「ちくしょう……」
 イタケルは素手で打ちかかって行こうとした。だが、オロチ兵たちが次々に攻撃を仕掛けてきて、逃げ回らなければならなかった。オシヲが以前のオロチの剣を持ち、加勢しようとするが、他の兵に「ガキがっ」と罵られながら、あっけなく剣を弾き飛ばされる。
「オシヲ!」
 それを見たミツハの身体が、兵とオシヲの隙間に入り込んだ。自ら盾となって、彼女は真っ白な衣装を縦に割かれた。血しぶきと共にミツハはその場に崩れた。
「おやめなさい!」
 渓谷に鋭い言霊(ことだま)が響き渡った。クシナーダがアシナヅチのそばで、その声の鞭をふるい、兵たちの動きを止めたのだった。さらにオシヲに斬りかかろうとしていた兵も硬直した。
「ミツハ! ミツハ――ッ!!」
 喉が張り裂けるほどの絶叫をオシヲは上げ、彼女に取りすがった。
「オシヲ……」彼女は先ほどまで吹いていた笛を手にしていた。それをオシヲのほうへ持ち上げる。
 オシヲは彼女の手を笛ごと握った。その手からすうっと力が失われた。
「大好き……オシ……」
 彼女は息を引き取った。
「ミツハ……おお……ミツハ――!」
 アシナヅチも息をしているのが不思議なほどの深手だった。そのアシナヅチから離れるのはあまりにも心残りだったが、クシナーダは立ち上がって、カガチと対峙しなければならなかった。
「カガチ、わたくしたちの聖域を汚し、里の者を殺め……これ以上の何をしようというのですか」
 カガチの剣だ、とクシナーダは視た。フツノミタマの剣。
 あれはスサノヲの〝力〟だという、鋭い直観がひらめいた。そして今のカガチは……。
〝鬼神〟であった。
 黒頭巾の下に隠してはいるが、カガチの全身からは禍々しい怨霊の如き〝力〟が溢れ出していた。しかし、その〝力〟はクシナーダの前には寄りつくことはできず、押し返されていた。
 その見えない世界の力関係は、カガチも感じているようだった。
「トリカミの里には手を出す予定ではなかった」カガチは言った。「が、この冬も巫女を一人、貰い受けるつもりではあった。それもあって、この峠を越えてきたのだ」
「わたくしは今、ここを離れるわけには行きませぬ」
「ならば、この二人の男も殺す。あるいはトリカミの里へ行き、別な巫女をさらってきてもよい」
 今、自分がこの場を離れたら……クシナーダは冷水を浴びる心地で考えた。取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。
 しかし、拒否の選択はできなかった。
 それに……クシナーダは今のカガチの姿の中に、別なものを視ていた。それは彼を押し包む怨念的な〝力〟である黒い霧のようなものの中にあるものだった。それはきわめて透視しにくいものだったが、彼女には視えていた。その常闇(とこやみ)のような空間で、苦悶の表情を浮かべる男の……いや……
 ――子供?
 泣き叫ぶ子供の姿が。
「わかりました。一緒にまいりましょう。これ以上、トリカミの里には一指も触れてはなりませぬ」
「約束しよう」
「イタケル、オシヲ……アシナヅチ様のことをお願いします。決して短慮に走らず、スサノヲの帰りを待ってください。いいですね」
 そう言い残し、クシナーダはその場を離れた。そのときに、わずかにアシナヅチを振り返った。アシナヅチがうなずくのが見えた。
「さすがトリカミの……いや、ワの国至高の巫女じゃ。おい、そいつらの甲冑をはぎ取れ。使えるものは使え」
 カガチの命令で、死体からカナンの鎧が奪われた。見ればすでに、カナンの鎧を着けている者もいる。カナンは明らかに劣勢なのだ。
 その間、クシナーダはミツハの亡骸のそばに寄り添い、涙した。そして、イタケルにアシナヅチのことを託した。
 カガチと兵らは、クシナーダを連行し、石段を上がって行った。上のほうが騒々しかった。やや遅れて侵攻してきているオロチの部隊と合流したようだった。
「くそ……」イタケルはみずからのふがいなさを呪い、罵っていた。
 オシヲはずっとミツハの身体を抱きしめ、そして彼女が持っていた笛を握りしめ、闇をずっと見つめ続けていた。
 許さない……俺は絶対に奴らを許さない……。
 まるで呪文のようにオシヲの心の中で、同じ言葉が繰り返されていた。
 う……という呻きが上がった。アシナヅチだった。
「アシナヅチ様……だ、大丈夫か」イタケルは駆け寄った。
「大丈夫な……わけなかろう」
「そ、そ、そりゃあ、そうだけど、だ、大丈夫だよ、俺が里まで運ぶから。すぐに良くなるさ。スクナがきっといい薬草、探してくれるからさ」
 まったく説得力のない言葉を埒もなくしゃべるしかなかった。彼は泣いていた。手は震え、やがて嗚咽が止まらなくなってきていた。
「よいか。クシナーダに言われた通りにせよ……。一時の感情に呑まれてはならぬ」
「あ、ああ、わかってるよ」
「わかってなどおらぬだろう……おまえはいつも、いつも、やんちゃばかりしおって……言うことを聞かぬ洟垂れガキじゃった」
「あ、ああ。そうだな」
「わしの最後の望みじゃ……約束を、守ってくれ……」
「わ、わかった。けどよ、アシナヅチ様がいてくれなきゃ、ダメだぜ。俺、叱ってくれる人、いなくなるじゃんか」
「……失われるものなど、いっさいない……わしは十分に生きた。そろそろ、楽にさせてくれ……」
 アシナヅチは目を閉じた。
「ア、アシナヅチ様……」
 滂沱と涙が溢れ出し、イタケルは、わあああ、と泣き喚いた。
 同時にオシヲもまた叫んだ。
 それは悲しみと呪詛の咆哮だった。

 悲しみと
 憎しみが
 満ちた。

 そして。
 岩戸は破れた。

 彼らの背後の岩戸から、何かが溢れ出してきていた。カガチが身にまとう黒いオーラにも似た瘴気のようなものだった。アシナヅチとクシナーダが張った結界の外へ、まるで長いカマキリの腕のような四肢が、空間をこじ開けるように、にじり出てくる。引き裂いたその隙間から、底光りする巨大な双眸が覗いた。
 お喋りが始まった。それは人語をものすごく高速化したようににわかには聞き取れない、甲高く神経に触る声だった。
 女のお喋りが聞こえる、とイタケルは思った。涙に濡れた顔を上げ、彼は不思議な思いにとらわれた。同時にものすごく冷たい、背中や首筋の皮膚に突き刺さってくる不快なものを感じた。本能的な嫌悪感と共に、彼は振り返った。
 何かがそこにはいた。
 イタケルには霊視などできなかった。が、その彼でさえ、その場に佇む異様な亡霊の如きものの存在は感じることができた。
 もし霊覚のある人間がいたならば、恐怖で卒倒したかもしれない。
 異様に長い四肢を備え、闇の毒気を衣装として身にまとった、ガス生命体のような存在だった。毒々しい瘴気が渦巻いてその身を形成している。
 イタケルは見た。誰もいないはずの水場が、何者かの足によって波立ち、そしてその足が前へ前へと運ばれていくことで水が撥ねる様子を。
 その数は増えていた。一人二人三人……。
 うっとイタケルは口を抑えた。耐え難い嫌悪が、胃の中身を逆流させたのだ。
「オシヲ……」
 見るとオシヲは、両手で頭を抱えていた。割れるような痛みに耐えているのだ。



 ――ワレラニ触レルナ。
 ――触レレバ腐レル。
 ――ワレラハ死ノ使イ。
 ――触レレバ死ヌ。
 ――触レレバ滅ビル。
 ――触レタイカ?
 ――愚カナ人ヨ。
 ――地ノ底ノ、ワレラ、死ノチカラ。

 八つの禍津神(まがつかみ)がそこに佇んでいた。
 彼らは封印を解かれ、世に飛散して行った。




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