2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第6章 椿


    1

 椿の花弁は四枚になっていた。その朝――。
「スクナ、里の様子はどう?」
 やはり朝餉を持ってきたスクナに、クシナーダは戸口のところで見張っている兵士にも聞こえるように言った。
「どこもかしこも怪我人だらけ。里の人も、それに」ちらっとスクナは兵士を振り返った。「洪水に巻き込まれて助け出されたオロチの兵とかも……病気になる人も出てきてる」
「その人たちの食事はどうなっているの」
「オロチの? この里のを分けてる」
 クシナーダは、それでいい、というふうにうなずいた。
「でも、このままだとこの冬が越せなくなるって、みんな言っている。里で貯めていた食料だって、そんなに余裕があるわけじゃないから」
 おい、と兵士は口を挟みそうになった。が、クシナーダの声がそれをとどめさせた。
「分けておあげなさい。先のことはいいから怪我をしている人や病人にはたくさん食べてもらいなさい」
「え……」
「あの……」アナトが横から言った。「ことが終われば、キビから食料を届けさせます。皆様に不自由な思いは絶対にさせませんから」
 躊躇するスクナに、クシナーダはさらに驚かせるようなことを告げた。「スクナ、あなたも怪我人の治療に力を貸してやってほしいの。お願い」
 少女はクシナーダの顔を見たまま、固まっていた。
「できない?」
「できなくはないけれど……それでいいいの?」
 オロチ軍の兵士は、この里を蹂躙したのだ。民を殺め、犯し、ものを奪い、無辜(むこ)な赤子でさえその例外ではなかった。里人にとって絶対に許しがたい存在である。脅され、食料を供出しているだけでさえ、たえがたい苦痛であり憤懣の種に違いなかった。それをさらに傷や病を得た者を助けるなど、心情的には考慮の余地さえないものであるはずだった。
「そこのお方」クシナーダは立ち上がり、兵士に言った。「わたくしを里の者たちと会わせてください。あなた方を助けるように説得いたします」
「え……あ……」あまりにも常識離れした提案に兵士は仰天した。
「あなたの一存で決められないなら、カガチを呼んできてください」
 狼狽の挙句、彼は戸口から仲間に叫んだ。「おい!」と。

 朝餉の後、やってきたカガチと共にクシナーダは囚われの家屋から出た。戸口から外を見るくらいは許されていたが、外を歩くのは久々だった。
 その姿を見て、里人が引き寄せられるように集まってきた。「クシナーダ様だ」と声を掛け合い、次々に家を出てくる。
「よけいなことを喋るようなら里人を殺す」カガチはそばで唸るように告げた。
 しかし、クシナーダはふっと吐息のような笑いを発した。
「なにをそんなに怯えているのです」
「なに?」
 クシナーダは歩みを止め、カガチを仰ぎ見た。「あなたのしていることは滑稽ですよ、カガチ。あなたは花に向かって恫喝をしているのです」
 その言葉をカガチのそばでヨサミは聞いていた。
「花だと……」
「無害なただ野に咲くだけの花を脅して、何の意味があるのですか」クシナーダのその表情には怒りもなく、嘲りもなく、そして誇示もなかった。穏やかな中に、毅然としたものだけが立っていた。「あなたは力があります。わたくしたちをどのようにもできます。好きなだけ手折(たお)ればよいでしょう。お望みなら踏みにじるもよいでしょう。けれど、あなたは決して最終的な勝者にはなれません」
「…………」
「わたくしたちは花。いくら折られ切り取られ、踏みにじられても、季節がめぐれば花はまた咲きます。あなたにはそれを止めることはできません」
 クシナーダはそう言うと、また歩み始めた。里の中央にある柱に向かっていく。彼女の歩みにつれ、彼女を慕う者たちが自然と集まった。
 カガチはクシナーダの近くに佇み、腕組みをしていた。その背中を見、ヨサミはカガチが小さくなったように思えた。気のせいだとは分かっている。だが、このトリカミに来て以来、カガチは圧倒的な鬼神の〝力〟を弱められているようにしか思えない。
 この里に張られている結界のせいなのではないかと、ヨサミは考えていた。巫女としての力の大半を失いながら、それでもこの里が特殊な知恵と〝力〟によって聖域化されているのはわかる。そのためカガチの背負っている〝負の力〟が、否応なく制限されているのではないか。
「皆さん、聞いてください」クシナーダは集まった人たちに向かって語りかけた。「勘のいい方はもうお分かりだと思いますが、このトリカミの里が長きにわたり封印してきたものが解き放たれてしまいました」
 それを聞いたカガチも腕組みを解き、クシナーダを見た。やはりそうなのだと、ヨサミは胸の内だけでうなずいていた。あのとき里を覆っていた濃厚な闇の気配、あれこそがそれなのだ。
「世は滅びるかもしれません」
 しーんとした空気が民たちの間に満ちた。
「しかし、わずかな望みにわたくしは賭けたい。皆さん、力を貸してもらえぬでしょうか」
 静けさが同様に広がっていたが、やがて一人、二人……と前に進み出る者、あるいは立ち上がる者、強い眼で応える者が現れ、それは集まった里人たち全員の意志として結ばれていった。無言のうちに。
「ありがとう、皆さん」クシナーダは言った。「わたくしたちにできることをしなければなりません。確執を越え、憎みを脇に置き、今この里にいる傷ついた者、病んだ者のために力を尽くしてあげてください。そう、オロチの人たちもです」
 里人たちは顔を見合わせ、やはり戸惑いは隠せなかった。
「考えるのではなく動いてください。彼らに憎しみをぶつけたい気持ちは本当によくわかります。わたくしも心の底でカガチに復讐を果たしたいと、そう思う気持ちがあります」
 クシナーダは斜め後ろのカガチを振り返りもしなかったが、里人の視線は当然集まった。
「でも、わたくしたちは知っています。本当の強さとは何か――」
 里人は息を詰めるようにして、彼女の言葉を待った。
「本当の強さとは、人を許せるということ」
 彼女の言葉のヒビキが、里の隅々にまで響き渡るようだった。



「わたくしたちワの民は、長きにわたりこの島国に多くの民を受け入れてきました。確執も争いもありました。けれど、わたくしたちはやがては許しあい、ここで一つになって生きてきた。けれどこの百年、あまりにも大きな流れがいくつもぶつかり合い、このワの国の中で荒れ狂い、その大きな山がここにきてしまった。わたくしたちはこの山を越えることはできないのでしょうか?」
 ヨサミは、クシナーダの言葉をそのときまでただ聞いていた。が、この時に至り、口を開いていた。勝手に声が出てしまっていた。
「越えられないよ」
 その呟きは、静けさの中で予想外の強さで人々の耳に届いた。
「許せなければ越えられないのなら、越えられるはずがない」
 カガチがヨサミを見ていた。そして彼は、クシナーダに向かって冷笑的に言った。「――だそうだが?」
 クシナーダはヨサミのほうへ向き直った。「アナト様よりお伺い致しました。カナンに国を滅ぼされ、ご家族も殺されたと」
「ああ、そうだよ」ヨサミは自分で自分が抑えられなくなっていた。「あんな奴ら、どうやって許せっていうのよ。許せるはずないじゃない! それはこの里の人たちだって同じじゃない!」
 金切声のようになった。が、ヨサミはかつてアナトにぶつけたように、クシナーダにその言葉を激しく投げつけることができなっていた。まともに眼を合わせることができないのだ。
「わたしにはあいつら――カナンのやつらを許すことなどできない。あんたの言っていることはご立派過ぎるよ!」
「立派だとか立派でないとか、そんなことはどうでも良いのです」
「どうでもって――」カッとなりながら、ヨサミは反論すべき言葉を失った。
「人はいついかなる時でも、何を選び何をするか、問われているというだけのことなのです。ヨサミ様、あなたがあえて復讐をという道を選び取るのなら、それはわたくしたちにはいかようにもしがたいこと。わたくしはそれを否定しようとは思いませぬ。それに――」
 クシナーダは何かを見定めようとするかのようにヨサミを見つめていた。ただ静かに。
「ヨサミ様、あなたのお役目もまた貴いもの。誰にでもできるわけではございませぬ」
 ヨサミは何かを投げ返したかった。だが、その言葉は見つからなかった。
 クシナーダはまた里人たちを振り返った。
「わたくしは皆さんに許すことを強要しようとしているのではありません。この今の危機の中で、何を選ぶのかということをお尋ねしているのです。そしてその上でもしお力を貸していただけるなら、今のわたくしたちにできることをしてほしい。ただそれだけのことなのです」
 里人はやはり静まり返っていた。その中から声が湧いた。
「どうして?」スクナだった。「どうしてあたしたちがオロチを助けることが、山を越えることになるの?」
 それは一同の疑問を代弁するようなものであったかもしれない。
「クシナーダ様がやってほしいというのなら」スクナは自分の周囲にいる里人を見まわして続けた。「――する。できるよね、みんな」
 少女の言葉に、大人たちも応えた。うなずき、そしてクシナーダにまた視線を集めた。
「だから、そのわけが知りたい」と、スクナが言った。
「それはね、スクナ、それに皆さん……」クシナーダはにっこりとした。「すれば分かりますよ」

 結局、里人たちはクシナーダの言に従った。
 それはそれだけクシナーダのことが信じられているということでもあった。が、その裏側にはヨサミという存在がむしろ里人を結束させてしまったという効果もあった。彼女が人の想いを背負い、代弁してしまったために、むしろ里人は彼女の立場から距離を置くことができたとさえ言えた。皮肉な結末というよりも、不思議な成り行きというべきだったのかもしれない。
 あの場にヨサミがいなければ、意見は割れた可能性すらあったのだから。
 里人は憎悪や敵愾心を抑え、傷ついたオロチ兵たちを癒し、食事も惜しみなく提供した。洪水で汚れていた川沿いの温泉場は修復と清掃が行われ、兵士たちの身体を温めた。
 それはカガチにとっても、兵たちの気力体力の回復という意味では好都合な出来事であったはずだった。だが、すぐに目に見えた形で兵たちにはある変化が起きた。
「すまない……」と号泣する者も出た。自分たちが踏みにじったトリカミから与えられる行為が、彼らに人間らしい感情を呼び起こしたのだ。
 そして、それはじわじわとトリカミの里人にとっても、残虐な行為を働いた彼らでさえ、やはり同じ人であったのだという認識をあらたにさせた。

 そうして椿の花弁は、一日ごとになくなって行った。
 クシナーダの誕生日から五日目の朝、スクナは巫女たちが囚われる家屋の中の椿が、すべてなくなっているのを確認した。
 今夜だ――。
 配膳を終えたスクナは家を出るとき、クシナーダと眼でうなずき合った。

    2

 半月が中天から少し西に傾いたところにあった。
 スサノヲはエステルの幕屋の外で、その月を仰いでいた。柔らかな月明かりが、凍えるような空気の中、あたりを照らしている。彼はふと幕屋の近くにある樹木に花があることに気付いた。
 椿であった。ふわっとした赤い花弁が、月光を浴びて艶めかしいほど美しかった。優しく、凛とした美しさをそこに感じ、それが彼にクシナーダのことを思い出させた。その時、幕屋からモルデとカーラが出てきた。
「お待たせしました。行きましょう」と、モルデが言った。
 彼らが向かったのは少し離れた場所にあるもう一つ別な大きな幕屋だった。そこでは戦いに勝利した男たちの酒宴が催されており、中に入ると乱痴気騒ぎだった。飛び交う野次のようなだみ声、笑い。食事や酒を給仕している数少ない女たちは現地の娘たちだが、嫌がる彼女らを抱き寄せて口説いている者もいる。
「よう、モルデ。ちっとは元気になったか」
「心配するな。おめーがいなくても、ヤイルがいりゃあ、俺たちは百戦百勝だ」
「なんたって、神様がついておられる」
「おお、今日の予言もすごかった! 奴らの侵攻の時期も場所もぴったりだった。おかげで待ち伏せた我らが大勝利!」
 はっはっは、と笑いがはじける。そんな中を進んで行くと、奥の方にヤイルが座していた。隻眼を光らせ、黙々と酒を口に運んでいた。
「ヤイル、話がある」モルデが言った。
「なんの話だ」ヤイルはモルデの顔も見なかった。
「ヤマトの話だ」
 ふん、とヤイルは鼻で笑った。「またその話か。くだらん……」
「くだらぬことはない。このような戦によらずとも、我らはこの国で暮らしていけるのだぞ。エステル様もそれを善しとされた」
「エステル様が?」
「私の国、ヤマトのことをお話申し上げました」カーラが言った。「エステル様はヤマトへ民を率いて向かうのが最良の策とおっしゃいました。ヤマトは良い土地です。四方を山に囲まれ、豊かな水が流れております」
 ヤイルは酒の器を置くと言った。「そのようなこと、神はお望みではない」
「なんだと?」と、モルデ。
「神が求めておられるのは我らの偽りなき信仰の証しよ。我らはそれを自らの命で証明しなければならぬ。この地を我らの力で平定することでな」
「そのためにどれほどの同胞が犠牲になると思うのだ」
「まあ、座れ」
 ヤイルは隻眼を光らせ、周囲の人間を退かせた。側近たちも敬意を持ってヤイルの指示に従った。今やヤイルはエステルをもしのぐ、絶対的な信を集めているのだった。
「この国は乱れすぎておる」ヤイルは自らの器に酒を注ぎ、そしてほかにも三つの器に酒を注いだ。三人に勧める。「ことに怪しげなまじないや祈祷を行う邪教に心を奪われた者ども、神はこれを一掃し、この地を浄めることをお望みだ。汚れたものは焼き払わねばならぬ。でなければ、神の王国が成就せん」
「そう言っているのか、神は」スサノヲが訊いた。
「おおよ。俺のここに」と、ヤイルは自らの頭を指で叩いた。「囁きかけておられる」
「いつからだ」スサノヲは重ねて尋ねた。「いつからその声が聞こえるようになった」
「ずっと前からだ」
「ずっとといっても、そのようなこと、大陸では一度も言っておらなかったな」と、モルデが指摘した。
「はっきりと聞こえるようになったのだ。ああ、この大戦(おおいくさ)が始まったあたりからな」
「つまりは新月の日ということか」スサノヲは確認した。
「うん? ああ、そのようなものだろう。わが祖先にはかの予言者アモスがおられる。おそらくはこの身に流れる予言者の血にこそ、今ここで神は語りかけられたのだろう」
 満足げに酒を口に運ぶ。その言外には、「エステルではなく」というニュアンスがあからさまなほど含まれていた。
「アモスなら俺も同じ祖先だ。言い伝えによればな」と、モルデは言った。
「同じ血が流れていようが、神は自らの御心に従う者にしか語りかけることはなさらぬ」
「俺も神の御心には従って生きているつもりだったがな」やや自虐的とも取れるような言い方をモルデはした。
「そうかな?」ヤイルは隻眼をモルデに、そして次にカーラに注いだ。「トリカミに潜入させておる密偵から、先ほど知らせがあった。ヤマトの巫女はカガチに殺されたそうだ」
「イスズ様が?!」深甚な衝撃にカーラが声を上げた。瞳孔が開いたようになり、半ばほど開いた口のまま彼は凍り付いていた。
「我らと同じ血を引く者であっても、朱に交われば赤くなる。どうも聞くところによれば、そのイスズという巫女、他のこのワの国の巫女たちと似たような邪教に染まっておるらしいではないか」
「ち、違いまする」カーラが反論したのは、ひと呼吸もふた呼吸も後だった。「我らは真の信仰を捨てたわけではない」
「信じられぬな」嘲笑った。「それならなぜおまえらは巫女などを戴いておるのだ。他のよこしまな神々を信奉する部族となれ合っておるのだ」
「イスズ様は他を否定する必要がないと申されておりました」
「あり得ぬ」ヤイルは断じた。「この世には唯一の神しかおらぬ。ほかを認めるなど、決してあり得ぬ。そのような邪教に堕した者どもの話など、悪魔の誘惑にも等しいわ。その誘いにうかうかと乗るモルデ、おまえの耳に神が囁きかけぬのも道理」
「なにぃ……」モルデの顔色が変わった。
 スサノヲはその肩に手をかけ、モルデを制止した。そして、「ヤイル……なぜトリカミを攻めない?」と訊いた。
「なに?」隻眼がちらっと動いた。
「トリカミにいるカガチの本隊は、今弱っているのではないか。敵の大将がそこにいて、なおかつ手薄な状況だ。普通に考えれば、このカナンの主力を持ってカガチを潰しに行くというのが常道ではないのか。カガチさえ討ち取れば戦は終わる」
 その質問はヤイルの痛いところをついたのは間違いなかった。
「カガチを討ち果たすのは最後の楽しみよ」
「そうしてタジマやコジマの軍勢と一進一退を続けているのか。解せぬ話だな。単なる消耗戦でしかない。時間がたてば、カガチは軍勢を立て直すぞ。キビやヒメジから増援が来るかもしれん。そうなれば不利になる一方だぞ」
「神のご指示がない」むっつりとしてヤイルは、眼をそむけ酒を口に運んだ。
「おまえの神はずいぶんと理不尽な戦術を強要するのだな」
「神の御心は計り知れぬからな」
「怖いのではないか」
「…………」
「あの男が。だとすれば、それを怖がっているのは誰だ? 神か?」
「黙れ!」
 幕屋の喧騒が一瞬にして静まり返るほどの怒声だった。手にしていた器を投げ捨て、ヤイルは立ち上がると脇に置いていた剣を抜いた。女たちから悲鳴が上がる。それをスサノヲに向ける。
「貴様の言うておることは神への侮辱。許さぬぞ」
「そんなつもりはさらさらない」スサノヲは眼を上げて言った。「侮辱を感じておるのは、おまえ自身だろう」
 一触即発の空気が、その場に張りつめた。カナンの兵たちも息を殺すようにして成り行きを見守っていた。
「ヤイル――見せたいものがある」ゆっくりとスサノヲは立ち上がった。そして「ついて来い」と背を向け歩き出した。その場を動かないヤイルを振り返る。「どうした? 不安なら手勢を連れてくればいい。やはり怖いのか」
 憤りをあらわに唸り、ヤイルは歩き出した。剣は鞘に収めず、スサノヲの背後に今まさに斬りつけるような距離でついて行く。モルデやカーラがそれに続き、幕屋にいた何人かも興味を覚えてか、彼らの後を追った。
 スサノヲが導いたのは、先ほどの椿の前だった。
「このような寒い季節にも花が咲く」と、椿の一輪の枝をそっと掌で受けるようにしてスサノヲは言った。「美しいとは思わぬか」
 ヤイルは隻眼を細め、ややあって苦笑めいたものを浮かべた。「何の話だ」
「ヤイル、この花は何色だ」


「赤……」
「この地上に咲く花、他にどんな色がある。おまえは他にどのような色の花を見たことがある」
 答えるのもばかばかしいと思ったのか、ヤイルは沈黙していた。
「白、黄、青、紫……数多くの花を俺はこの地に来るまでに見た。形も色も、香りもそれぞれに異なっていた」
「…………」
「この花を創造したのは?」
「……神だ」
「神はなぜ花を一色(ひといろ)だけにしなかったのだろうな。そして、なぜ多くの形を作ったのだろう」
「…………」
 ――全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです。
 スサノヲの脳裏にクシナーダの言葉がよぎった。
「この世を彩る花にもいろいろなものがあったほうが、神も良いと思われたからであろう。いろいろあるから楽しめる。何もかも同じではつまらぬ――そうは思わぬか」
「何が言いたい……」
「この地上に肌の色や言葉や風習が違う多くの民が存在しているのも花と同じこと。神がそれを善しとされたからだ」
「何を言い出すかと思えば……」ヤイルは嘲笑い、そして手にしていた剣を一閃させた。
 スサノヲの近くで花弁を広げていた一輪が落ちた。
「花と人間は違うわ。我ら以外のすべては、神の道から外れた堕落した民どもよ!」
 どうでも動かぬ、頑迷そのものの傲岸さがヤイルの言葉、表情に滲み出ていた。スサノヲはじりっと片足を前に出しながら、憤りを発して言った。
「花も人も神の創造物に違いあるまい」
「笑止」
「そなたらもこの花のように、ただこの地に根付き、あたり前に咲けばよいだけのこと」ヤイルが切り落とした椿を拾い上げ、スサノヲはそれを突き出した。「なぜ、それがわからん。それが許されるのだぞ」
「我らは神に選ばれた民。同じ花であったとしても、そのあたりの道草に咲く花とはわけが違う」
「同じ命であろう!」
「同じではない。神に仕える我らの価値ある命! 他は無価値な命よ!」
「神を侮辱しているのはお前自身だと知れ! 聞け! そなたたちも!」スサノヲは幕屋からついてきたカナンの兵士たちにも語りかけた。「本来、このワの島国はそなたらのものではなかった。後から来たそなたらは、このワの民たちに受け入れてもらわねばならなかったのだ。それが可能だった。アシナヅチがそう告げたように。だが、そなたらは受け入れてもらう努力ではなく、逆のことをしている。他を否定し、自らの存在を誇示し、他を支配下に置こうとしている! それが間違いの始まりなのだ!」
 いつの間にか、中にいたはずのエステルやカイの姿も幕屋の外にあった。彼女もスサノヲの言葉を聞いていた。
「この花のように、そなたらは切りとる必要のない花々を散らせているのだ。この地の民も、そしてそなたらの命もだ! 半島でいまだ待つそなたらの家族のことを思い出せ! 家族と一緒にこの地で安らかに暮らせるのだぞ! なぜその選択をしない! 共に和となり生きろ! それこそが神の道だ!」
「このような者の言葉にたぶらかされるな!」ヤイルは怒鳴った。「我らは受け入れてもらう必要などない! 我らの主たる神が、すべてを我らに与え給うからだ! 愚昧な者どもは滅ぼしてしまえばよいのだ!」
 スサノヲとヤイルの間に明瞭な殺気が走った。この瞬間、スサノヲの心にもはっきりとした殺意が生じていた。この男を排除しなければ、人は死に続け、悲しみは蔓延し続ける。そのためには――。
 スサノヲはほとんど腰の剣に手を動かしかけていた。実際、抜きたかった。その誘惑は熾烈なものであり、ほとんど抗いがたいものへと一気に高まった。
 ヨモツヒサメから受けたダメージは、まだ回復には程遠かった。が、ヤイル一人を斬り捨てることくらい、できぬ俺ではない――。
 ぴくっと手が動いた。その瞬間にヤイルは反応して剣を構えた。
 が、スサノヲはその自分の手に先ほど拾った椿があることを意識し、その一輪が彼を思いとどまらせた。クシナーダの面影がふっと脳裏をよぎる。やめて、と彼女が声なき声で言ったように思えた。
 危ういところでスサノヲは殺気を体内から追い払った。背筋に冷たいものが走る。それは隙あらば付け込もうとするヨモツヒサメの気配だった。ヤイルに向けて踏み出していた足を引く。
 ふうーっという吐息と共にヤイルも剣を引いた。
「よけいな口出しは無用。邪魔をするなら、いかにお前でも容赦はしない」ヤイルは踵を返し、自分がいた幕屋のほうへ向かった。通りすがりに右の隻眼がエステルを捉えたはずだが、臣下の礼も取らず、足早に去る。部下たちに「座興は終わりだ。さあ、呑み直しだ!」と声をかける。
「すべてはわたしの責任だ」近づいてきてエステルは重い口を開いた。月光に照らされることで、やつれたその顔の頬がよけいに落ちているように見えた。「すまない、スサノヲ」
「俺よりも、カーラや亡くなったイスズという巫女に詫びるべきだろう」
「亡くなった? イスズという者は亡くなったのか」
「カガチに殺されたそうだ」
「イスズ様は後からきっとこの地に到来する仲間を、命かけてお導きするお心積もりでした。モルデ様を逃がすために、きっと身を挺されたのだと思います」
 モルデも沈痛な面持ちだった。それを見てエステルは、さらに濃い苦渋をにじませた。
「すまない、カーラ」
 カーラは俯いていたが、「いえ」と顔を上げた。「エステル様、それにスサノヲ様、私は一度トリカミに戻ります。イスズ様はこれより後、私はアナト様にお仕えするよう命じられました。きっとイスズ様は深いお考えあって、そのように命じられたはず」
「そうだな。トリカミに囚われている巫女たちのことも気になる」そう言いながら、スサノヲも自分が戻りたいほどだった。だが――。
「場合によっては、命に代えてお助けいたします。途中で会ったイタケル様やニギヒ様ともそのようなお話を致しました」
「頼む……」
 カーラは頭を下げると、すぐにその場を離れた。歩み去っていくというよりも、風のように消えた印象だった。
「エステル様、ここはお寒うございます。兄さんも、みんな、中に入って話そう」と、カイが言った。
 エステルもモルデも、幕屋の中へ引き上げていく。スサノヲもそれに続きかけ、一度足を止めた。振り返った夜空の月は、すでに西へ沈みかけていた。
「サルタヒコ……見ているのだろう」スサノヲは空に向かって言った。「俺にここで何をさせたいのだ。ヤイルを打ち倒せというのか」
 夜空は沈黙したままだった。
「教えてくれ」
 羽音もなく、風の音だけが聞こえていた。

    3

 夕方、いつものように巫女たちに食事を運ぶと、スクナは家屋を出てきた。
「ご苦労さん」と見張りの兵が声をかけてくる。以前にはなかった気安さだった。それに対してスクナは、にっこり笑顔を返した。
「おじさんたちのも、すぐに持ってくるから」
「ああ、頼むよ」
 イスズが抜け出して以来、見張りの兵は増員され、五人になっている。しかし、彼らはトリカミの里人たちが仲間の傷病者たちの回復のために働いたことで、かなり気を許すようになっていた。その見張りが交替するのは夜半――時間はたっぷりとあったが、問題はタイミングだった。
 スクナは、夕餉に集まる里人たちのところへ戻ると、作られた食事を五人分、別な土鍋に分けてもらった。それをあらためて火にかけ、乾燥した植物の葉をそれに加えて煮た。日が暮れて行くのを見つめる彼女の眼は、里人の中にこっそりと紛れ込んだイタケル、オシヲの姿を確認した。夕闇が濃くなってきたので、抜け道から入り込んできたのだ。
 トリカミの里自体、かなり広範な土地である。主だった道筋にはオロチ軍の兵が警備しているが、至るところに隙間がある。里人にとってはこっそり出入りすることは難しくなかった。
「どうだ?」イタケルは近寄ってきて言った。
「大丈夫。二人はあれ持って、ついてきて」
 スクナに言われて、イタケルとオシヲは用意されていた薪や枯葉などを担いだ。すべての段取りは、スクナによってなされていた。
 スクナが食事を運んでいくと腹を空かせていた見張り兵は嬉々としたが、ついてきたイタケルとオシヲが荷物を下ろすのを不審げに見ていた。
「ねえ、ここで焚火してもいい?」と、スクナが訊く。
「あ、ああ」彼らは顔を見合わせた。
「栗を焼くんだ。巫女様たちに差し上げたいし、おじさんたちも食べるでしょう?」
「ああ、そういうことなら」「この寒さだ。むしろ大歓迎だ」などと、兵たちは笑顔になった。イタケルとオシヲが荷物を置くと去って行ったので、彼らはよけいに気を許した。
 篝火から種火をもらうと、集めた枯葉はすぐに燃え上がった。小枝、そして大きめの薪という順で火を大きくしていく。その間に兵士たちは焚火のまわりで暖を取りながら食事をし、談笑した。
「俺たちの里でも、栗は冬の間の大事な食糧だからなあ」
「あのバチバチ弾ける音がたまんねえよ」
「いや、楽しみだ。ここの里の栗は実が大きい」
 炎を大きさを見て、スクナは乾燥した植物の束を放り込んだ。
「なんだ、そりゃ」と尋ねる兵士。そのときには、すでに頭がぐらぐら揺れていた。
「これを燃やすと良い灰ができてね、栗がうまい具合に焼けるの」
「へえ~、なんて草だ」
 スクナは答えたが、彼らが覚えることはなかっただろう。もうもうと上がる煙が、風にまかれて彼らの気管に吸い込まれた。スクナは息を止めたり、風上に回ったりするなどして、煙を吸い込まないようにしていた。
 もはや立っていられる者はいなかった。
 すでにあたりは闇が濃厚で、半月の月明かりだけが頼りだった。この異変に気づく者もいない。
「ごめんね」と、スクナは兵士たちに詫びた。

 その夜、クシナーダは他の巫女たちにいつでも抜け出せるように身支度を整えさせていた。
「クシナーダ様、本当にここを出られるのでしょうか」アナトが尋ねた。
 その問いにもクシナーダは笑顔で応えた。「スクナが必ず迎えに来ます」
「あのような子供がいったいどのようにして……」
 戸板を叩く音がしたのはその時だった。動かされた戸口の隙間から覗いたのは、そのスクナの顔だった。
「来たよ、クシナーダ様」悪戯っ子みたいな笑顔でスクナが囁く。
 巫女たちは唖然として顔を見合わせた。
「さあ、行きましょう」クシナーダが呼びかけ、彼女らは外に出ていく。
「あ、あの女性(ひと)は……」と、スクナは動こうとしない一人の巫女を目に留めて言った。
「良いのです。行きましょう」クシナーダがやんわりと肩を押す。
 そのクシナーダは家屋を出るとき、残った女性に対して深々と頭を下げた。女性もこうべを垂れていた。スクナはクシナーダの表情に悲しみとも苦しみともつかぬものが浮かんでいるのを見た。
 外に出た巫女たちは、寝転んだりしゃがみこんだりしている見張りの兵士たちの姿に驚き、立ちすくんだ。寝ている――と思ったら、かならずしもそうではない。彼らはぐらぐら頭や体を揺らし、まるで酒に泥酔して酩酊しているような状態だった。巫女たちを見てもにやにや笑い、自分の妻の名前を呼んだりしている。
「また、お酒を――?」と、アナトは尋ねた。
 しかし、前回イスズが抜け出したときのことがあるので、兵士たちに同じ手が通用したとは思えない。
「夕餉に、ちょっとね。それにあの煙も吸わせたから」
 巫女たちが囚われていた家屋の近くには、まだ煙を立ち上らせている焚火があった。
「あの煙を吸わないようにね」と、スクナは警告した。
 巫女たちは慌てて袖で口をふさいだ。
「スクナは様々な薬草の効用とその知識に長けているのです」クシナーダは説明し、スクナの肩に手をかけた。「ありがとうね。スクナだったらきっとなんとかしてくれると信じていました」
 えへ、とスクナが笑う。そこへイタケルとオシヲが走ってやってきた。
「イタケル、オシヲ……よく無事で」クシナーダは感嘆をにじませた。
「行こう。ぐずぐずしていたら気づかれる」と、イタケル。
「西の磐座のところでニギヒ様と、ニギヒ様の部下が集まってる」と、オシヲ。
 イタケルたちの導きを受け、巫女たちは夜陰に紛れ、里を抜けて行った。その姿をこっそり家屋の中から見ている里人たちもいることに、クシナーダは気づいていた。彼らは今宵の企てを知っていて、皆、クシナーダたちが無事に脱出できることを祈っている。いや、もしほかの兵士たちに察知されるようなことがあれば、身を挺してでも守ろうとしているということが伝わってきた。
 彼らの祈りと期待が、夜の大気を通じて流れ込んでくる。
 ――これでは、もしかしたら……。
 クシナーダは危惧を抱いた。
 西の磐座は斐伊川にもっとも近い、里の境界線になっている場所だ。里を聖域化している結界の要ともなる機能を有している巨岩の一つだ。そこが近づくと住居もなくなり、森の茂みも深くなってくる。
 明かりも使わず、沈みかけた月明かりだけを頼りに移動できるのは、地理を熟知しているからこそだった。里の周囲を警戒する兵士たちの場所もスクナが事前に調べていた。彼女しか知らないような抜け道を使い、隙間を縫うようにして移動する。
「大丈夫ですか、ナオヒ様」と、クシナーダは小声で気遣った。
「年寄りにはきついわい……」ナオヒはさすがに息が上がっていた。
「もう少しですから頑張ってくださいね」
「年寄りを鞭打つ、お優しい言葉じゃな」
 磐座が月明かりの中にシルエットで見えた。すでに兵士たちの包囲の外である。
 巨岩の周囲にはニギヒと招集をかけられた配下たちが待機していた。屈強な男たちの存在は、巫女たちを安堵させた。
「クシナーダ様、それにナオヒ様、ご無事で何よりです」ニギヒが言った。
「言った通り、なかなかしぶといじゃろ?」と、からかうようにナオヒが言った。
 そのときまで、彼らのだれも気配を察知することはなかった。いつの間にかそばに来ていた人影が声を発することで、彼らは飛び上がるほど驚かされた。
「皆様……」その男は、カーラだった。
 彼は食い入るように凝視し、巫女たちの顔をゆっくりと確認して行った。その中に彼の主であった女性の貴い姿がないことを、あらためて確認するように――。
 その眼に涙が滲み、口はへの字に歪んだ。
「なんなりとお申し付けください」
 彼がそう言って膝を折ったのはアナトの前だった。


「カガチ様!」イオリの取り乱した声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。
 カガチは祭殿の一角で、ヨサミに給仕させ、酒を呑んでいた。
「巫女どもが逃げました! み、見張りがおかしなもので眠らされッ――」血相を変えてやってきたイオリは、報告を聞いて眉一つ動かさないカガチに、一瞬、言葉を詰まらせた。「す、すでに追手をかけております。すぐに見つけ出し――」
「捨て置け」ぼそりとカガチは言った。
「は?」
「捨て置けと言った」
「い、いや、しかし」
「あの巫女どもも、もはや用済み。連れて歩いても足手まといなだけ」
「は、はあ」イオリはカガチの真意を測りかねていた。怒り狂ったカガチに殺されるかもしれない覚悟で来たのに拍子抜けしたというのもあろうし、何よりもどっと安堵したためか、真っ青だった顔に血の気が戻ってきた。
「道草の花、むしり取ったところでもはや何の益にもならぬわ。のう、そうであろうが、ヨサミ」
 話を振られ、ヨサミは黙って見つめ返した。
「あ、ああ、あの、しかし、カガチ様」イオリはさらに顔色を窺いながら続けた。「ただ、一人だけ、巫女が残っております」
「なに?」カガチはむしろそのことに驚きに打たれたように反応した。
「アカルが残っております。一人……」
「アカルが?」
「は、はい」
「呼んでまいれ」
「わかりました!」
 部屋を飛び出して行こうとするイオリを、カガチは今一度呼び止めた。
「イオリ、心しておけ。我らは明日、ここを出立する」
「え? イズモに進軍されるのですか」
「タジマのミカソらと合流する。そしてカナンとの最後の戦いに備える。よけいなことに気を回さず、兵たちもゆっくり休ませておけ。よいか」
「は、はい。しかし、このトリカミや動けない傷病兵はいかがなされます」
「この地はもはやどうでも良い。守備兵も残さぬ。動けぬ者はここに残す。わかったな」
「は!」イオリは頭を下げ、その場を足早に去って行った。
 その足音が聞こえなくなった頃、ヨサミは言った。「お気づきだったのですか」
「おまえがくれた〝力〟だろう。今夜、おかしな気配があるのは感じておった。イスズが抜け出したときと同じようなものだ」
「なのに見逃された……」
 カガチは酒を呷った。「……俺も馬鹿ではない。クシナーダが言うには、この里が封印してきた〝力〟は解き放たれた。アカルにせよ、キビの巫女どもにせよ、このトリカミを禁忌としてきたのはそれが理由であろう。しかし、その禁忌が破られたとあれば、巫女どもが俺の言うことに従う理由はなくなる。半分はな」
「半分?」
「ことキビからはクロガネ作りのためという名目で、多くの者をタジマやイナバに人質に取っている。それが残り半分。おっと――お前の国からも取っていたな」
 ヨサミはそのことには何も返さず、ただカガチの手の中の器に酒を注いだ。そのことは今言われるまで、ヨサミ自身、ろくに思い出しもしなかったことだった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。タジマにはヨサミの従兄に当たる人物も人質に取られていた。
「キビから徴収した兵士たちも、洪水でほとんど死ぬか、動けぬ状態だ。このような有様に至り、キビの巫女たちが俺から離れようとするのは必定であろう」
「なぜ、お見逃しになったのですか」
「この戦が終われば、カナンという最大の邪魔者はいなくなる。キビにしてもこの戦に兵力の大半を差し出した」
「つまり弱体化したキビなどいかようにもできると? 巫女を人質にする必要もない……」
「そういうことだ。幸いにも洪水で損失したのはキビとヒメジなどから集めた兵力がほとんど。タジマの本隊はカナンの東に温存されておる」
 たしかにカガチの支配するタジマの主力は、まだ残されているのだった。ある意味、カガチには現状でさえ好都合なのかもしれなかった。
「封印されしものが解き放たれたのなら、もはやこの里の巫女を盾にとっても、あいつらを意のままにすることは難しかろうしな」カガチはまた酒を口に運んだ。「俺にとっても手元に置いておく価値がなくなったということだ」
 しかし――。
 それだけだろうか、とヨサミは考えた。以前のカガチならクシナーダを含む巫女すべてを殺してしまい、もしそれでこの里人たちが反感を抱くなら、この里すべてを滅ぼしただろう。言葉の上では微妙な違いでしかないようだが、よくよく突き詰めれば彼の変容はきわめて不可解なものに思えた。彼自身、言葉にしたような理由で自分を納得させているようにも聞こえる。
「しかし、となれば、問題はタジマやイナバにおるキビの奴隷どもだ。あの巫女どもはそれをなんとかしたいはず……」
 カガチが独り言(ご)つのも、ヨサミには筋が通ってないように思えた。ならば、よけいにキビの巫女たちを捉え、動きを封じなければならないはず。
「そうか……読めた」カガチはふっと笑った。
 そのときイオリがアカルを連行して戻ってきた。その彼にカガチはすぐに告げた。
「イオリ、コジマ軍の動きに注意しろ」
「え? コジマですか」
「コジマはカナンの北側に侵攻しておるな」
「はい。現在は意宇の湖(おうのうみ)を挟んだ場所に陣を張っております」※意宇の湖=現・宍道湖
「すぐに使いを出し、反乱の動きがないか、タジマの水軍に見張らせろ。妙な動きをするようなら討て。コジマ内に潜らせている密偵にも伝えておけ」
「わかりました」
 カガチは顎を動かし、イオリを追い払った。その場にはアカルとカガチ、そしてヨサミだけが残された。
「なぜ逃げなかった」
 そう問いかけるカガチに、アカルは伏し目がちのまま応えた。
「わたしはタジマの巫女。わたしがいなくては、軍の統率に影響が出ましょう」
「笑わせるな……。キビなどと違い、タジマは俺が直接支配しておる地だ。お前がいようがいまいが、影響はない」
「十六年前のあの日より、ずっとあなたのことを見てまいりました」アカルは眼を上げ、カガチをまっすぐに見た。そして、彼の前に跪いた。「どうか、最後までおそばにいさせてください」
 その姿と言葉は、ヨサミに激しい嫉妬を掻き立てさせた。自分が顔色を失っているのがわかる。
「どういう風の吹き回しだ」
「わたしの命はもう長くありませぬ」


「…………」
「わたしはあの日、あなたの命を救いました。その時の借りを返していただきとうございます」
「借りと言うか」
「はい。なれば、どうか最後までわたしに事の成り行きを見届けさせてください。それがわたしの最後の望みです」
「そんなことのために、一人残ったのか」
「そんなこと、ではありませぬ。そのことのためにだけ、わたしは生きてきたのです」
 アカルの青白い額のあたりから、なにか鋭いものが立ち上っていた。ヨサミはめまいを覚えた。アカルの思いつめた、必死な何かに、圧倒されながら、同時に嫉妬もし、そしてさらに――。
 憧れさえ覚えた。
「よかろう」カガチはそう言い、無表情に酒を呑んだ。

    4

「二十人……たったそれだけなのか」その数を聞き、モルデは愕然と呻いた。
 すとんと、力なく腰を落とす。信じられない、というように視線が足元をさまよっている。その姿を誰よりも苦しげに見つめているのはエステルだった。
 二十人――それはエステルらと共に戦いを放棄し、ヤマトへ移民する手段を選ぶ者たちの数だった。カイやシモン、ヤコブらの水面下での活動で、その根回しは行われた。が、驚くほど同調者は少なかったのだ。それはそのままエステルの求心力がなくなってしまったことの証明だった。
「この短い間にヤイルはなぜここまで……」モルデはつぶやいた。
 沈黙があった。カイ、そしてシモンやヤコブには、思い当たることがあるようだった。スサノヲはそれに気づいていたが、ただエステルのほうを見つめていた。秋にトリカミの里に現れた彼女と同一人物とは思われないほど、エステルは弱くなっていた。まったく雰囲気が違うのだ。あのときの誇り高く、猛々しい王女のオーラは、今は微塵もない。傷ついた小動物のようだ。
「エステル」他に口火を切る者がいないと知り、スサノヲは言った。「何があった」
 声をかけられ、ただそれだけでエステルはぶるっと震えた。右手で自分の左腕をつかみ、そしてしばらく硬直していた。
「皆、聞いてくれ」やがてエステルは顔を歪め、血を吐くように言った。「軽蔑してくれても構わない。わたしは……怖くなったのだ」
「エステル様……」モルデは衝撃を受け、言葉を失った。
「あのカヤを滅ぼしたとき、憎しみに満ちた眼でわたしを見つめながら、舟で川を下って行く巫女がいた……。あのとき、わたしは本当は……自らの行いに寒気を覚えていた。あの眼が……忘れようとしても、どうしても忘れられぬ!」
 これまで封印していた想いが、最後には叫びとなって響いた。モルデ、そしてカーラなどの話をつなげるなら、それはヨサミというカヤの生き残りに違いなかった。
「あの巫女は叫んでいた。『お父様お母様』と……。それからしばらくして、あの男が……カガチがカヤを奪還しに来た。あの化け物のような男が……わたしは、あの巫女の怨念が、あの男となって現れたように思った」
 その認識もまた正しいのかもしれなかった。ヨサミはカガチの愛妾となっている。
「あのような怪物を……わたしは大陸でも見たことがなかった。鬼……カガチは本物の鬼だ……。恐ろしかった……どこまでも追いかけて、わたしのはらわたを食らうと言った。あのときの恐怖が今もこの身からは消えぬ……」
 エステルは一言一言を苦しげに紡ぎ出した。言葉を発するたびに、自らのプライドを自ら捨てて足で踏みにじるようなものだったろう。
「その後のことはカイやシモン、ヤコブらはよく知っている……。わたしがあの男に怯え、臆病になり、勇気を失ったことを……。わたしがそのような有様だ。兵たちの士気も下がるのは道理……。今、このようにカナンが追い詰められているのも、すべて、わたしのせいだ」
 スサノヲには想像ができた。カナンの民はもともと父権的な意識が非常に強く、神も〝父なる神〟である。女性が頭に立つことなど、ほとんどありえない民なのだ。それを可能ならしめていたのは、王家の血筋であったろうし、エフライムの存命中から非常に強い指導力を彼女が発揮してきたからだ。
 だが、その強い意志が彼女から失われてしまったとすれば――。
 カナンの民の忠誠は、たちまち脆くなったのではないだろうか。そして、そんなカナンの民が次に求めたのは……。
「そんなとき、ヤイルが神がかった……。突然のことだった。が、大水でカガチが率いる軍が滅びるというヤイルの予言は的中した。民たちはヤイルを自分たちに与えられた、あらたな予言者と信じた」
「そうして一気にヤイルの元へ信が集まったということか」
 スサノヲが呟いた後、すぐにカイが叫ぶように擁護した。
「エステル様はずっと、お体の具合も良くなかったのです! それもあってのことなのです。食事もあまり受け付けられず、弱っておられたのです!」
 それを聞き、スサノヲは眼を細め、エステルの姿をまじまじと見つめた。
「エステル……おまえは子を宿しているのではないか」
 え! と大きな驚きを発したのはモルデだった。が、カイらは内心では考えていたことのようで、過剰な反応はなかった。むしろエステルの顔色を窺っていた。
 自分の身体を抱きしめるようにしていたエステルは、やがてそっと自分の腹部に手を置いた。
「ほ……本当なのですか、エステル様」モルデは顎の関節が外れてしまったようになっていた。
「すまない、モルデ……キビから帰ってきたら話そうと思っていた」
「では、あのとき言われていたのは……」
 二人のやり取り、そしてカイらの様子からスサノヲは、それがモルデとの子なのだと知った。そして、ようやく疑念が氷解するのを感じた。
 エステルはかつての軍神のような女ではなくなっていた。
 母になっていたのだ。
 それが今の彼女に感じていた違和感の正体だったのだ。


「わたしは知った」モルデのことを見つめ返すエステルの眼にはうるんだものがあった。「子を宿し、初めて思ったのだ。この子が愛おしいと。この子を守りたいと。そうしたら、自分のことが怖くなった……。多くの者を殺めた自分のことが……。わたしは、あの鬼と変わらぬ……。殺してきた者たちにも、同じように母がおったろうに! あの巫女にも!」
 ぼたっ、ぼたっ、とエステルの涙が零れ落ち、足元で音を立てた。
「そう……だったのですか」
 人目を気にする思いもあっただろうが、モルデは近づき、エステルの肩に手を置いた。エステルもまた彼にしがみついた。そして嗚咽を漏らした。

 そうしてその日が暮れた。スサノヲはエステルの幕屋の一角に、モルデと共に臥所を与えられていた。
 月も没し、夜闇が濃くなった頃、モルデがやって来た。
「落ち着いたか」と、スサノヲは仰向けに寝たまま言った。
「まだ、起きていたのですか」音を忍ばせて入ってきたモルデが驚いたように言った。
「エステルは大丈夫か」
「ええ、もう落ち着かれました」そう言いながら、モルデが臥所に入る。
「この戦は収まらぬ」スサノヲは開いた眼を上に向けたまま言った。「もう滝の水のように流れ落ちて行くだけだ。志を同じくする者だけでも集め、おまえたちはヤマトを目指すべきだ」
「明日、同道する者に声をかけてみるつもりです。そして、明日の夜にでもここをひそかに抜け出す……」
「その後は? 半島に戻るのか」
「そうなるでしょう。半島に残ったカナンの民たちは多い。それを引き連れ、ヤマトを目指します。ただ……」
「ただ?」
「それで良いのかと、エステル様は悩んでおられます」
 スサノヲは半身を起こした。「どういうことだ?」
「これだけの戦乱を起こした責任を感じておられるのです。ここにいるカナンの民にも、そしてこの島国の民にも」
「…………」
「スサノヲ様は、今さら何を言うと思われるでしょう。しかし、俺も同じ気持ちです。このような状況で、自分たちだけが安全な場所へ逃げこむような卑怯なまねはできない。だから俺は残ります。エステル様は半島に避難していただくが……」
「エステルは納得すまい。おまえは腹の子の父なのだろう」
 沈黙は苦しげさえ思えた。
「あの分ではヤイルは決して矛を収めまい。カガチにしても同じだ」
「そうだ……スサノヲ様」思い出したようにモルデが言った。「あのカガチという男は、あなたの剣を持っていました。あのスサで、あなたが持っていた剣です」
「なに?」
「見間違えようがありません。あなたの剣は独特な形をしている」
「そういうことだったのか……」
 モルデも身を起こしていた。「あれはただの剣ではないのですね」
 スサノヲはうなずいた。
 あの剣は彼のエネルギーそのものである。天界から分かたれたスサノヲの大元の光の一部を、剣という形で結晶化させたものだ。ネの世界に降り立った直後だったからこそ、それが可能だったのだ。彼自身、まだすべて物質化していなかったような状況で、その一部を武器に変えたのだ。それが必要とされる状況だったがために。
「あれは当たり前の人間が持つのは危険すぎる代物だ」
「まさかカガチが鬼になったというのも……」
「たぶん剣の〝力〟のせい……」スサノヲは言葉を切り、小さく「シッ」と指を口に当てた。
 気配が動いていた。
 スサノヲは剣を取り、無音で立ち上がった。幕屋の外の篝火が爆ぜる音がする。そして風の音。それに混じって、金物が触れる音が聞こえ始めた。もちろんほんのわずかなものだが、そのときになってようやくモルデもはっとなり、剣を手にした。
 臥所を抜け出して行く。今や明瞭な殺気が彼らを押し包んでいた。
 幕屋の中の布がかすかに揺れた。と、次の瞬間、剣を振りかざした男が布を切り裂きながら突っ込んできた。スサノヲは抜刀し、その剣を弾き返した。
「モルデ! エステルのところへ行け!」
 おお、とモルデは雄叫びとも応えともつかぬ声を上げ、走り出した。
 敵は一人ではなかった。スサノヲは次々に現れる男たちの攻撃をかわし、受け、足で蹴っ飛ばした。吹っ飛ばされた男が転がり、二、三人の足をすくった。
 その隙にスサノヲもエステルの元へと走った。
 もっとも奥にあるエステルの臥所に辿り着くまでに、カイたちが襲われているのに遭遇する。すでにヤコブは喉を切り裂かれ。そこで絶命していた。カイとシモンも、上からのしかかられ、今まさに剣を突き立てられようとするところだった。
 スサノヲは剣を振りかざす男に肩から猛然と当たり、二人まとめて吹っ飛ばした。
「大丈夫か! 立て!」叫ぶ。
 寝こみを襲われてなす術もなかったカイらも、ようやく剣を手にして応戦する構えを見せた。そのとき戻ってきたモルデが叫んだ。
「エステル様の幕屋ぞ! 貴様ら、何をやっているのかわかっているのか!」
 彼はエステルを連れていた。モルデの言葉とエステルの姿は、彼らにわずかな怯みを作った。
「切り開くぞ!」
 言下にスサノヲは前に出た。後に続くカイたちには、スサノヲが何をやっているのか、ろくに見えなかっただろう。あまりにも動きが早く、彼が近づくたびに自動的に兵士たちがもんどりうって倒れて行くようにしか思えなかっただろう。脚で蹴り飛ばし、肘を入れ、剣の側面で打つ。
 幕屋を出た彼らが見たのは、そこに群がるカナンの民たちであった。
 皆、武装し、殺意をむき出しにしていた。
 その背後には、背高いヤイルの姿もあった。
「乱心したか、ヤイル!」モルデが叫んだ。
 ヤイルの顔に傲然とした笑いが浮かんだ。「乱心はどちらかな」
「なんだと」
「困りますな、エステル様。王家の血筋と思えばこそ、お立てしてまいりましたのに。この期に及んで、兵たちを連れて半島に戻るなど、愚の骨頂。勝利は目前だというのに、兵たちの士気が下がりまする」
 カイたちの工作が気取られていたのだった。いや、多く者に声をかければ、ヤイルに伝わらないはずはない。もともとその危険は冒しての工作だったのだ。しかし、よもやヤイルがエステルに剣を向けるとは、だれも想像していなかったのである。
 スサノヲは考えが浅かったことに気づかされていた。半島に残している民は、ヤイルにとって重要な財産だ。人としての資源なのだ。もしエステルがそれを根こそぎ奪い、ヤマトへ移住してしまったら……。
 その想定がヤイルを暴挙に走らせたのだ。
「神のご意志こそが絶対。それに背く者は、たとえ王であろうと罪は免れぬ。やれ!」
 ヤイルの号令と共に、雪崩を打って兵士たちは襲いかかってきた。
 その瞬間であった。エステルの蒼ざめた顔。モルデの叫び。カイやシモンの絶望。それらすべてがスサノヲの認識の中に飛び込んできて、一つ一つが鮮明な映像となって脳裏に焼き付いた。と同時、彼は悟っていた。
 ――守るためだ。
 裂帛の気合いと共に、スサノヲの剣が振るわれた。〝気〟が高潮のように迸り、押し寄せる兵たちを打ち据え、跳ね除けた。


「こっちだ!」スサノヲは叫び、再び剣圧で活路を開いた。
 モルデ、エステル、カイ、シモンらは崩れた囲みの一角を風のように走り抜けた。彼らを先に行かせると、スサノヲは自らがしんがりに回った。
 度肝を抜かれた兵士たちが態勢を立て直し、追いすがろうとする。それを彼は止めた。目まぐるしく襲い掛かってくる剣を、槍を。
「俺は守るためにここにいる!」息継ぎをする暇もないほどの攻防の中、スサノヲは叫んだ。「サルタヒコ! 俺は守ることに決めた!」
 ヤイルの号令で弓矢が放たれた。十を超える飛来する矢を、斜めに振り上げ、そして振り下ろす稲妻の如き太刀筋で薙ぎ払う。
「文句あるまい!」
 かつてない熱いものが滾るのを感じた。自らに与えられた力――スサノヲはそれが何のためにあるのかを知った。いや、自ら決めたのだ。
 その答えは彼を満足させるものだった。生きてここにある。そのたった今の意味。
 命の使い方。
 そんな言葉のピースが、バラバラに飛んできて、彼の中でぴったり枠の中に収まった。
 ――わたくしは決めてございます。
 ――そのようなことは自分で決めよ。
 彼の脳裏にクシナーダと母・イナザミの言葉がよみがえっていた。

「いよいよでございますな、サルタヒコ様」
 ウズメの言葉に、サルタヒコはうむとうなずいた。
 彼らは騒乱から離れた場所にある大きな松の梢にいた。そして、スサノヲの動きを見守っていた。俊敏な身のこなしは縦横無尽に変化し、敵の攻撃をことごとく退けた。
「まっこと、猛々しい踊りじゃ」と、ウズメが感嘆する。
「しかし、一人も殺しておらぬぞ」
 スサノヲはただ一人の敵も斬り捨ててはいなかった。巧妙な打撃を与えて、行動する力を奪っていく。
「面白きやつ……」ウズメはくすくす笑った。

 雪がまた降り始めていた。

    5

 トリカミを発ったカガチは、見る影もないほど少なくなった軍勢を引き連れ、意宇(おう)を目指した。(現・松江市を中心とする地域)
 その地はちょうど中海と意宇の湖(おうのうみ)の結節点となっており、東から侵攻したタジマを中心とするオロチ軍は、中海沿岸のカナンを退け、現在はそこに陣を張っていた。しかし、不可解な勢いを取り戻したカナン軍によって、さらに西への侵攻は食い止められていた。指揮しているのは、カガチの腹心であるミカソだった。
 このミカソの本隊と合流するために、カガチは一度斐伊川に沿って北へ向かい、カナンの勢力圏に接近しすぎる前に北東へ進路を取った。意宇へ向かう道筋は、主に二つあったが、カナンの勢力から距離を置く東寄りのルートは山越えが険しく、やや迂回するものとなる。そのためカガチは、多少の危険はあっても、最短で意宇にたどり着く西寄りのルートを選んだ。
 ところが――。
 この道行は当初予想されたものより、はるかに厳しいものとなった。未明から降り始めた雪が、一行の足を阻んだのである。出立したころはさほどのものではなかった。が、たちまちそれは豪雪と言えるほどのものへと変貌し、視野と体力を奪い、足を取らせるものとなった。
 前新月の侵攻時の雪とはけた違いだった。山野はみるみる真っ白に染まり、分厚い積雪は川沿いの道のありかさえわからなくした。兵たちは足を滑らせ、深みにはまり、転び、ひどいときに川に落ちたり、斜面を滑り落ちたりした。
 ヨサミとアカルはそれぞれ輿に載せて運ばせていたが、カガチは彼女らのことを考慮して、一気に踏破することは避けた。峠を越える手前で一夜を明かすことに決め、山あいにあった集落に強制的に宿を求めた。

 そのカガチたちにやや遅れて、クシナーダたちも同じ道筋をたどっていた。ただしカガチたちに気取られぬために、川の対岸である西寄りの道を歩んでいた。そして、巫女たちにとってもそれは想像を絶する苦行を強いるものとなっていた。
 ――ハハハ。
 女の狂ったような笑い声が、吹雪の音に混じって響いてくるように思える。それは、巫女たちにとっては錯覚などではなかった。その嬌声は跳梁するヨモツヒサメたちが放つものだ。この世を憎悪や破壊、死や絶望などによって塗りつぶしていく歓喜の笑いである。
「いやな声……」ナツソが耳をふさぐようにして言った。
 他の巫女たちも同感の意を表したかっただろうが、今はそれどころではなかった。場所によっては膝まで埋まるような雪を押しのけ、あるいは雪に埋まった足を持ち上げ、降りしきる豪雪に視野もろくに得られない山道を歩く消耗はただならのものがあった。
 体力は根こそぎ奪われ、冷え切った身体が動くことさえ拒み始める。老体のナオヒはニギヒの配下の屈強な男たちが交替で背負っているが、彼らでさえ音を上げたいという想いが顔色に見え始めた。
「カガチたちはこの先の集落で一夜を明かす様子だ」という知らせを持ってニギヒの配下のひとりが戻ってきたとき、クシナーダは一同を近くの杜(もり)に誘(いざな)った。
 その辺一帯は、比較的なだらかな丘陵が目立つ地帯で、その谷間に集落があった。むろん集落はカガチたちが宿として強制使用したため、近づくことはできない。クシナーダが導いたのは、その集落の民たちが神域としている杜だった。
「ここは……トリカミ周辺にある聖域の一つです。ここならば、ヨモツヒサメたちもよりつけませんから……安全です」
 到着したとき、クシナーダも説明するのがやっとという状態だった。
 杜には小屋があり、そこには薪なども常備されていた。岩戸の聖域がそうであったように、トリカミ周辺にはこのような場所が至る所にあった。
 イタケルとオシヲ、スクナ、それにニギヒとその配下たちを加え、総勢で二十名ほど。火が燃やされ、狭い小屋の中に人がすし詰めになると、それだけで生き返ったような心地に誰もがなった。事前にイタケルたちがトリカミから持ち出していた食料が調理され、出来上がるころにイズミが思い出したように言った。
「あのカーラという男は、無事にコジマの陣に辿りつけただろうか……」
 それは独り言のような呟きだったが、そばにいたアナトが応えた。
「きっと、大丈夫です」
 イスズという絶対的な主人を失ったカーラは、彼女の最後の命に従い、アナトの従者となった。キビの人質たちを救出するためには、ナツソが巫女として立つコジマ水軍にじかに連絡を取らねばならなかった。そのことを言い含め、アナトはカーラを送り出したのだ。
「わたしたちはもう後戻りはできませんね」ナツソが自分の身を抱くようにして言った。「わかってはいるのですが、とても怖いです」
 沈黙が落ちた。その重さを払うように、イタケルがわざとらしい大きな声を上げた。
「さあ、栗が焼けたぜ! 食おうぜ!」
「皆さん、頂きましょう」と、クシナーダが言った。
 カガチが傷病兵以外、何も残さぬ状態でトリカミを発った以上、巫女たちはトリカミに戻ることさえ可能だった。しかし、彼女たちはそうせず、距離を置いてカガチたちの後を追った。
 それは巫女たちがトリカミでの軟禁状態を抜け出すと決めた直後、申し合わされていた行動だった。
「クシナーダ様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」アナトが言った。
「はい。なんでしょうか」
「アカル様が申されていたようなこと……本当に可能なのでしょうか」
「わかりません。アシナヅチ様からも、そのようなことは聞かされたことがありません」
「そうですか……」
「ただ、カガチをなんとかしなければこの戦は終わりません。それは明らかなこと。であれば、今はアカル様のお言葉を信じて、わたくしたちはどこまでもアカル様のお力になるしかないと思います」
「それはもちろん。――ね、みんな」アナトは同じキビの巫女たちを振り返った。
 キビの若い巫女たちは、みな、うなずいた。そして焼き栗をほおばりながらナオヒが続けた。
「憎しみ合い、争いを続けたまま、浄化することはできぬ。まずは争いを止めることじゃ。その上でなければ、〝黄泉返し〟などとうてい行えぬ」
「ヨモツヒサメをヨミに返す業ですね」シキが言った。「それはどのようなものなのでしょう。わたしたちも話に聞くだけで、一度もそれを目にしたことはありません」
「むろんじゃ。わしとて代々の語り草として話に聞くだけ。それは岩戸を守ってきたトリカミの民とて同じじゃろうが……しかし、クシナーダはわかっておるのではないか」
 ナオヒの視線を受け、クシナーダはうなずいた。
「皆様もよくご存じのことと思いますが、わたしくしたちは歌と踊りという〝マツリ〟で〝体験〟を伝えてきた民です。〝マツリ〟には型があります。その型を演じることで、わたくしたちは過去の先人たちの体験も実感することができます」
「そういう感覚を抱くことはわたしたちにもあります」シキが言った。「ですが、それはとてもおぼろなもの。たぶん、ここにいるだれも、クシナーダ様と同じような体験ができていないと思うのです」
「うむ。この老いぼれでさえ、〝黄泉返し〟のことはよくわかっておらぬ。話してやってはくれぬか」
 巫女たちのみならず、熱い視線がクシナーダに集まった。
「アシナヅチ様から伝え聞いたことと、わたくしが遠い過去の出来事から受けた印象をつなぎ合わせますと……たぶん、一万年ほどの昔、ヨモツヒサメは世に出ています。大きな時代の節目であったと感じます。その当時、地上にはわたくしたちには想像もつかないような文明が繁栄していましたが、その爛熟期にヨモツヒサメはやはり悪意あるものの扇動によって、世に放たれたようです。そしてその文明は滅びました。今は沿岸の海になっているところの多くは陸地でした。ところが、巨大な水をもたらす星が迫り、洪水が起き、ほとんどの都市は水没してしまいました。かろうじて生き残った人々が、この島国にも逃れ、そして一部の叡智ある人たちが真(まこと)の道を伝えてきたのです。それは共に生きる道です」
 そのとてつもないスケールの物語に、一同は引きこまれた。巫女たちだけではない。スクナや、他の男たちも残らず聞き入っていた。
「その時代、やはりわたくしたちと同じような巫女たちがいました。そして巫女たちの核となってくれる存在がいました。その核となる者と巫女たちの力によって、〝黄泉返し〟が行われたのです」
「その核となる者とは……スサノヲか?」
 ナオヒの言葉にクシナーダは大きくうなずいた。イタケル、オシヲ、スクナ、そしてニギヒらも衝撃を受けた。
「正確にはその時代に存在したスサノヲ様です。今のあのお方そのものではありません。ですが、おそらくスサノヲの〝力〟は、時代の節目に世界を死と再生に導くためのもので、常に二面性があるのです」
「二面性?」シキは強く関心をそそられているようだった。
「破壊と創造です」
 その言葉は、アナトはすでにクシナーダから聞かされていたものだったが、多くの者に衝撃を与えた。


「スサノヲは常にヨミの扉を開く者であり、そしてそこから再生を促す者なのです。ですから、現に今のこの時も、スサノヲがヨミへ行くということがきっかけになって、ヨモツヒサメが世に出てしまったのです。ですが、その責はスサノヲにあるのではありません。スサノヲは単に役目を果たしているにすぎません。いえ、むしろヨモツヒサメがこの世に出現するのは、この世界がいかに澱を積み重ねてきたかということに関わっています。たとえば、この水……」
 クシナーダは眼でナオヒの許可を得て、彼女の器を手に取り、そしてそこに足元の土をかき集めて入れた。その濁った水を自分の器に注いだ。すぐに水は溢れ、こぼれ出た。しかし、その時はまだ水は上澄みのきれいなものだった。次にクシナーダはアナトの器も同様に濁らせ、注いだ。やがて濁った水が溢れてきた。
「ヨモツヒサメが世に出るということは、このようなものなのです。わたくしたち人間が自分だけの想いにとらわれていれば、憎しみや悲しみ、怒りや絶望、虚無といった澱が蓄積され、やがてこの地に蓄えられる器を超えて溢れ出してきます。今がその時だったのです。スサノヲはそのような時に現れるのです」
「この世を壊すために現れるのですか」蒼ざめたような声で言ったのはナツソだった。
「いや、そうではない」と、理性的な声音で言ったのはイズミだった。「つまりそれは……風を入れるためということでしょうか。カビの生えてしまった家の中に、風を入れて良い状態にするために」
 パッとクシナーダは大きく目を開いた。「それは、とてもよいたとえです。イズミ様はとても理に優れたお方ですね」
 イズミは戸惑い、赤らんだような顔になった。
「そうなのです。わたくしたちの澱が淀み、淀んだものが増え、器を溢れ出してしまうとき、スサノヲはその澱を取り除くためにも現れるのです。ですが、澱を取り除くためには、それと一度、正面から向き合わねばなりません。このように……」
 クシナーダは自分の器に残った泥を見て、そして器を傾け、それを足元に落とし、指でも掻き出した。
「澱をきれいにしてしまうには、新しいきれいな水をまた注ぎ――」すでに意を察したシキから器を受け取り、その水を泥の少なくなった器に注ぎ、また流した。「こうしたことを繰り返さねばなりません。それはじつは、わたくしたち一人一人がなさねばならないことなのです。わたくしたち個人の想いは、ちっぽけなようでいて、じつは世界の命運を作り出しているのです」
「スサノヲはそのための力になってくれるということでしょうか」ナツソはまだ用心しながらという風情で尋ねた。
「はい。わたくしたち巫女は、ものを受容する力には長けていますが、苦手なこともあります」
「取り除くこと?」と、イズミ。
「はい。押し出す力というのか、対抗する力というのか……わたくしたち巫女の本質は、そのようにできておりません。陰と陽の力が合わさることで、ようやく〝黄泉返し〟は可能になります」
「具体的には何をすればよろしいのでしょうか」と、イズミ。
「おそらく……これを成し遂げるためには、スサノヲ以外に、最低でも八人の巫女と勾玉が必要です。それも胆力の備わった、強い霊力を持つ巫女です」
「八人……」ショックを受け、イズミはすぐ落胆するような表情になった。「しかも霊力に優れた巫女となると……」
「イズミ様」
「は、はい……」
「あなた様は十分にその力をお持ちです。アナト様や、他の巫女様と自分を比較なさらないことです」
「え……はい」イズミはと胸を突かれたようになった。
「クシナーダ様、今ここには巫女が六人しかおりません」と、頭数を数えていたシキが言った。「〝黄泉返し〟を行うには数が……アカル様を入れても七人です」
「皆さん、誰かお忘れではないですか」
 はっとしてアナトが声を上げた。「ヨサミ?!」
「え……でも……」ナツソが戸惑ったように言い、キビの巫女たちは顔を見合わせた。誰もがわかっている周知の事実があるからだった。そして、言いにくいことをイズミが代弁した。
「クシナーダ様……。ヨサミ様はもう巫女としての力も資格も失っております。トリカミの里の他の巫女の方では……」
 クシナーダは首を振った。「ミツハが生きていれば、きっとお役目を果たせたはず……。けれど、残っているトリカミの巫女たちは、いずれも若すぎます。胆力ということを申し上げましたが、皆さんはこの今の事態を受け止め、乗り越えようとなさっています。その意志こそが重要なのです。トリカミに今残されている巫女たちは、あまりにも未熟すぎますし、まったく準備ができておりません」
「しかし、ヨサミ様はもう霊力をほとんど失っておりますし、今のままではとても協力してくれるとは……」
 クシナーダはそれには応えず、アナトを見た。ヨサミともっとも近しい間柄であるアナトを。その視線を受けたアナトは拳を両ひざの上で握り固めた。
「……この頃、昔のことをよく思い出します」
 誰も口を挟まず、アナトの言葉に耳を傾けた。
「キビの皆は周知のことですが……わたしとヨサミは幼馴染です。カヤとアゾは隣国として、古くから深い交流を持ってきました。わたしたちはよく国を行き来していました。たしかあれは……わたしたちが九つくらいの頃だったと思います。ちょうど今ぐらいの季節でした。コジマからナツソ様がアゾに見えられ、わたしは一緒に年初めの神事に使う曲を考えていました」
 ナツソはアナトの言葉を受け、はっと思い出したような表情になった。
「そのときヨサミが、ご両親と共にアゾにやって来ました。ヨサミといつものように過ごせればよかったのですが、わたしはその頃からやがては国をまとめる巫女として立つように、周囲から求められていて、その……余裕がなかったのです。とくに両親の期待に応えねばと、ヨサミと一緒に遊んだり、お話をしたりすることよりも、立派な巫女になることのほうを選んでしまっていたのです」
 クシナーダは静かな表情で耳を傾けていた。
「ナツソ様と曲作りに没頭しているわたしを見て、ヨサミはきっと寂しかったのでしょう。アゾにいる間にいなくなってしまい、大騒ぎになりました。わたしもそれを聞いて慌てて、ヨサミのことを探し回りました。そのときには……」アナトは頭(かぶり)を振った。「いつもはあれほど当てにしていた霊感も働かなくて、ヨサミをどうしても見つけられないのです。だけど、少し時間がたち、当たり前のことを考えました。ヨサミはわたしと遊びたかっただけ。なら、いつも遊んでいたアゾの中州にいるのではないか……。行ってみたら、ヨサミが岩の陰で泣いていました。そして……」
 ――どうしてもっと早く見つけてくれないの!
「……だけど、ヨサミはそう言いながら、わたしに抱きついてきました。あのときのことが、なぜか今、思い出されてならないのです」
 そのとき、小屋の扉が激しく音を立てた。吹雪の風が扉を叩いたのかと思われたが、そうでなかった。
 小屋の扉を打ち、こじ開けようとしているのは人間の手だった。男たちは敏感に反応し、一斉に立ち上がった。イタケルとニギヒはいち早く剣を抜いた。
 戸口の隙間に覗いた顔は、彼らを驚かせた。それはモルデであり、彼が支えているのはエステルだった。
 モルデはそこにいる顔ぶれを見て戸惑いと落胆を表情に浮かばせた。とりわけキビの巫女たちの顔を確認し、おそらくはここがカガチの息のかかった勢力の一部と接触してしまったと思い込んだのだろう。だが、イタケルやオシヲ、ニギヒの顔を見て、逡巡の箍(たが)が外れた。
「スサノヲ様を助けてあげてくれ!」
「なに?」イタケルが気色ばんだ。
「独りで追手と戦っている! スサノヲ様は怪我をしていて……あのままでは、いかにスサノヲ様でも!」
 男たちは小屋を飛び出した。逆に精根尽き果てたように、モルデとエステルはその場に崩れ落ちた。その二人を飛び越えるようにして外に出たのはクシナーダだった。
「スサノヲ!」クシナーダは吹雪の中、叫んだ。
 すでに夕闇が濃くなっていた。視野はほとんど利かない状態だが、クシナーダの耳は超常的な能力で剣の響きを聞きつけていた。走り出す。
「クシナーダ様!」
 背後の男たちの声は吹雪の中に埋没する。クシナーダは元来た道を走った。途中から雪をかき分けるようにして斜面を這い上がっていく。
 男たちの喚き声が聞こえた。なおいっそう、剣戟の響きが強く耳朶を打つ。
 クシナーダはそこに見た。斜面を駆け下りてくるスサノヲと、彼に迫るカナンの兵士たちを。
「スサノヲ!」


 吹雪を貫いて、クシナーダの叫びが届いた。スサノヲが振り向くのが、横殴りに降りしきる雪の中、見えた。
 次の瞬間、クシナーダは「あッ」と声を上げた。柔らかい雪を踏みしめていた足が滑り出し、止まらなくなったのだ。彼女は手をスサノヲに差しのべながら、ついた勢いを止めることもできず、滑落した。
 そして、気が付いたときには身体が宙を舞っていた。
 眼下は川だった。
 凍りつくような水が、衝撃と共に全身に突き刺さった。




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