2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ第7章 一つに


    1

 自分一人で逃げるのなら、たやすいことだった。が、とくに身重のエステルは折からの豪雪もあり、行動が鈍かった。まる一昼夜、いくつかの山野を越え、彼女らの逃亡を助けるため、常にスサノヲはしんがりで敵を撃退し続けなければならなかった。
 たった五人の逃亡者を討つために、ヤイルは百を超える追手を波状的に放ったようだった。かつては主君と仰いだ人物を殺害せしめるための強い決意がそこには現れていた。
 成行き的な進路でしかなかったが、エステルたちは東へ逃げた。そしてスサノヲはほとんど休む間もなく、彼女たちを守るために闘い続けた。むろん降りしきる雪と寒さが体力を奪ったということもあっただろうが、それ以上にヨモツヒサメから与えられたダメージが、じわじわと傷口を広げるように彼の力を奪って行った。
 相手をことごとく斬り捨ててしまうのなら、いっそそのほうが楽だったろう。あるいはそうしていれば、圧倒的なスサノヲの力を思い知り、ヤイルも追撃を思いとどまった可能性もあったのかもしれない。
 が――。
 クシナーダは喜ぶまい、と思った。その考えは、彼自身、奇異なものだった。身を守ること以外、スサノヲも好んで人を斬ったことなどなかった。地上に降りた瞬間から、自分と常人との間にはあまりにも不公平な力の差があることを知った。そのため、あまりにも脆い命である人を斬るつもりにもなれなかった。だから、大陸を踏破してくるときも、害をなす者でさえ特別な理由がない限り適当にあしらってきた。
 今殺さないのは、その時の理由とは根本的に違っていた。
 クシナーダの顔が浮かび、その意識の中での彼女が殺すことを善しとしないからだった。そう言われたわけではない。ただ、それが伝わってきて、わかるのだ。
 相手を動けなくさせるだけの加減をするのは、ただ斬るよりよほど神経を使う作業だった。自分でも馬鹿ばかしいことをしていると思いながら、それでもスサノヲは心の中にいる彼女の反応に従っていた。
 そうすることが、なぜか心地よかった。
 と同時に、そうすることで彼は次第に窮地に追い詰められていた。おそらくこの山を越え、そして南西へ進路を取ればトリカミへたどり着けるだろうという、その峠を越えたあたりでとてつもない脱力感に見舞われ始めた。
 ――やせ我慢もここが限界か。
 山の斜面を駆け下り、さらに追ってくるカナン兵を引きつけながら、スサノヲが思ったときだった。
「スサノヲ!」
 その声が降りしきりる雪を、ふっと断ち割ったように思えた。その隙間にクシナーダの顔と、彼女の赤い衣が見えた。だが、次の瞬間、彼女の身体が倒れ、山の斜面を滑り落ちるところで、視野が吹雪に塗りつぶされた。
「クシナーダ――!」
 彼女のほうを見ながら、スサノヲはカナン兵が打ち下ろしていく剣と槍を、次々に弾き返した。
「邪魔をするな!」
 瞬間的に湧いた怒りが彼に力を回復させた。彼の振った剣が、見えない刃となって、山の斜面を這い上がった。その流れに沿って、十数本の樹木が揺らぎ、降り積もった雪を降らせ、しばし視野は完全に真っ白になった。
 その隙を見て、スサノヲはクシナーダのいたほうへ走った。いまだ生々しい滑落の後が残っていた。辿って行けば、斜面に突き出した岩の上を通り抜け、その先は真っ白な宙だった……。
 岩のすぐそばに小ぶりな滝があり、流れ落ちていた。その滝の音と川の流れる音が、吹雪に混じって聞こえる。が、視野が利かず、どれくらいの高さなのかも見えない。
 スサノヲは剣を収め、迷わず飛んだ。自由落下の時間は長かった。足が水に落ちたのを感じた後、おそらくそこが滝壺だったのだろう、しばらく水の中を潜った。濡れた衣や剣の重さに抗い、水中から浮上する。恐ろしいまでの冷たさだった。老人だったら、その一瞬でショック死したかもしれない。
 冷たいというよりも痛い。そして手足の感覚もすぐになくなった。指や足も、ただ自分の身体とつながっている棒のような一部としか思えなくなった。
「クシナーダ!」
 ざぶざぶと歩きながら、スサノヲは何度も叫んだ。吹雪のため声もろくに通らず、視野も利かなかった。探そうにも何も見えないのだ。
 スサノヲはあてどもなく歩き回り、呼び続けた。焦りが全身をさらに冷やした。見つけることのできないこの一分一秒ごとにクシナーダの命が失われていく予感が強くした。
「サルタヒコ! クシナーダはどこだ! 教えろ!」焦りが次第に憤りに変わり、スサノヲは怒鳴った。「俺を助けたように、クシナーダを助けてくれ! 頼む! 頼む!」
 スサノヲは川の中で両手をついた。全身が震えていたが、その震えが寒さのためなのか、それとも恐怖のためなのか、区別がつかなかった。だが、吹雪の大音量以外、返答などなかった。
「くそッ!」
 スサノヲは立ち上がり、またやみくもに歩き出した。そして、はたと自分が間違った選択をしていることに気付いた。吹雪で奪われた視野のため、彼はいつしか川上へ向かっていたのだ。川の流れはかなり強い。
 反転する。そして川の流れだけを見て歩いた。
 そのとき、ふっと吹雪の勢いが弱まった。まるで台風の目にでも入ったように、視野を塗り潰していた真っ白な降雪が開かれ、その隙間に赤い色が見えた。
「クシナーダ!」張り裂けるほど叫んだ。そして走った。
 彼女は滝壺から流され、大きな岩場の間で止まっていた。半ば水につかった横顔は、白いという表現以上に血の気のないものだった。
「クシナーダ!」呼びかけ、彼女の頬を叩いた。
 だが、意識は戻らなかった。かろうじて、呼吸があることは分かったが、もはや死人と変わらぬような状態に思えた。



 スサノヲは彼女を水の中から抱き上げた。彼女の衣から流れ落ちる水は、そのまま氷柱になってしまうのではないかさえ思えた。
 彼女の安全を確保するために、スサノヲは本能的に落ちてきた場所とは対岸に向かった。川の東側の河原に入り、登れる場所を探し、道があるところまでたどり着こうとした。だが深い雪のためにそれは何度も失敗した。ようやく彼女を抱きかかえたまま、川沿いの小道に登ったときには、彼自身、もはやこのまま死ぬのではないかと思えるほど消耗していた。一度、彼女を下におろした。
「クシナーダ……」あえぎながら呼びかける。
 彼女からは何の返答もなく、真っ白な顔はさらに蒼ざめていくようだった。
 気力を振り絞り、スサノヲは彼女を抱き上げた。どこか暖を取れるところを探さねばならなかった。
 吹雪は少し弱まって来ていた。そのおかげで目の前に真っ白な小山が聳えるようにかすかに見えた。濃くなった夕闇の中、そこに小さな光が一つ、灯っているように思えた。
 人が住んでいることを祈りながら、彼は歩き続けた。喉が焼けるようだった。ずぶ濡れで、全身冷え切っていたが、なぜ熱いように思えた。それも錯覚かもしれなかった。
 小山の裾に雪におおわれた巨岩が並んでいた。その間を彼は通り抜け、細い山道を登った。雪に覆われてはいたが、その下に石段のようなものが組まれている個所もあった。明らかに人の手が入った道だったが、スサノヲは幾度もその坂で足をもつれさせ、転びそうになった。
 登りきった場所は、ワの民の祭祀場の一つだった。大きな磐座があり、しめ縄が張られていた。その脇にクシナーダたちが使っていたのと同じような小屋があった。人がいる気配はなかった。さっき見えた光のようなものはなんだったのかと疑うよりも、スサノヲはその小屋の中へクシナーダを運び込んだ。
 岩戸の祭祀場にあった小屋と同じく、そこには薪なども常備されていた。それに秋に収穫された稲の藁が奥に山積みにされていた。クシナーダを藁の上に横たえると、スサノヲは火打石を探し出した。震える手でそれを打ち、藁に火を移し、小枝や薪を組み合わせ、火を大きくした。
 クシナーダのところに戻った。呼びかけるが、意識は戻らない。スサノヲは胸に耳を押し当てたが、心臓の鼓動は探すのを苦労するほど弱く思えた。
 わずかに逡巡したが、彼はクシナーダのずぶ濡れの衣を脱がした。美しい玉のような裸身があらわになる。脱いだ自分の衣を絞り、彼女の身体を拭いた。そして奥にあった藁を引っ張り出し、寝床のようなものを作った。自分も全裸のまま、彼女の身体を抱きかかえ、そして藁で自分たちの身のまわりを覆うようにした。
 自分自身、体温が下がってしまっていたが、それでも抱きしめるクシナーダの身体の方が断然冷たく感じられた。彼は休む間もなく、彼女の身体を、手を足を、さすり続けた。
「頼む……生きてくれ。頼む」
 祈るようにつぶやきながら、彼はずっとさすり続けた。火が衰えないよう、時折藁床を抜け出し、薪を燃やし、そしてまた戻り、互いの体温で暖を取るということを繰り返した。やがて、わずかながら身体が温められる感覚が生じてきた。クシナーダの手足にも血の気が戻ってきたように思えた。
 いつしか吹雪は止んでいた。小屋の隙間から吹き込んでくる風も、嘘のようにぴたりと止まって思えた。
 長い夜だった。
 静寂の中、スサノヲはクシナーダを抱き続けていた。そして、小屋の隙間に黎明の明るさが確認されるようになるころ……。
「う……うん」と、小さくクシナーダが彼の腕の中で声を漏らした。
 はっとしてスサノヲは、彼女の顔を見ようとした。
 薄く開いた彼女の眼が、そこにあった。
「スサノヲ……」
「よかった……よかった!」スサノヲは彼女を強く抱きしめた。
 あ……と抱きすくめられながら、クシナーダは今の状況を漠然と察したようだった。互いに一糸まとわぬ姿のまま、肌を接していることに。
「わたくし……川に落ちて……」
「ああ、でも、もう大丈夫だ。あ、いや」スサノヲは彼女の身を少し離した。「大丈夫か。どこか痛いところはないか」
「あ……」彼女は恥じらうように目を泳がせ、胸の前で手をかき合わせ、みるみる頬を紅潮させた。「たぶん……はい。大丈夫です。どこも痛くない……」
「よかった……。そなたが死んだら俺は……」
 ふいにクシナーダは覚悟が定まったように眼を上げ、二人は見つめ合った。
 目合(まぐわい)が生じた。二人の間に甘く痺れるような霊的な交感が通い合い、自然と口づけを交わした。胸を隠していたクシナーダの手がほどかれ、彼の胸板に、そして腕に回された。
「あたたかい……」口づけの合間にクシナーダが洩らした。「嬉しい……」
 二人はさらに深い口づけを交わし合った。手が互いの身体を求め合った。
 もう二人を止めるものは何もなくなっていた。彼らの間には、隔てるものは何もなかった。
 愛おしい、とスサノヲは思った。これほど他人に深い愛情を感じたことは一度もなかった。その想いがそのまま彼の愛撫となった。手が、唇が、あらゆるところを這いまわり、クシナーダは全身でそれに応えた。
 長い時を待ち焦がれた存在同士がようやく一つになれる。その悦びが二人を貫き、その中で二人は身も心も互いに溶けて混ざり合った。
「あなにやし……えをとめを」
 スサノヲは自分が彼女の中に埋没して、自分がなくなるような心地の中、彼女の眼を見つめて言った。
「あなにやし……えをとこを」
 クシナーダは自分のすべてで彼を受け入れながら、同じように眼を見て応えた。

 そうして二人は、一つになった。


 鳥の鳴き声が聞こえた。
 朝の光があたりに満ちているのが戸板の隙間に見えた。

 二人はこれ以上はないというほどの深い快楽(けらく)の余韻の中で、無限に引き延ばされたような時間を過ごしていた。
「このままがいい……」クシナーダはスサノヲの胸元で囁いた。
「うむ」と返しながら、スサノヲは、しかし、現実の時が自分たちの元に戻ってきたのを感じていた。彼女の背を愛撫しながら、わずかに身を起こそうとして、気づいたことがあった。
「どうなさったのですか」クシナーダは彼の戸惑いを察して顔を上げた。
 スサノヲは自分の胸元を見ていた。ヨモツヒサメから受けた傷が、跡形もなくなっていた。傷みもまったくなかった。
「癒えている……」
 不思議な現象だった。スサノヲは本来、多少の怪我ならすぐに治癒してしまう肉体を持っていた。しかし、ヨモツヒサメに受けたダメージだけはいつまでも残りつづけ、彼を苦しめていた。
 どうやっても拭い去れない汚れが、きれいに洗い清められてしまったかのようだった。
 二人は甘い時を惜しみつつ、衣を身に付けた。焚火のそばに置いてあったので、あらかた乾いてしまっていた。
「戻ろうか、皆のところへ」
 スサノヲはそう言い、クシナーダは「はい」といつものように応えた。
 小屋の戸板を動かし、二人は外に出た。小山の上から見下ろす風景は幻想的だった。
 真っ白な山々の裾野には、雲海が溜まり、ずっと広がっていた。そこに朝陽が当たり、輝くようであり、さらにその上空に目を奪われるほど鮮やかな虹がかかっていた。
「なんと清々しい……」
 スサノヲはつぶやき、彼女に手を差し伸べた。その手を取り、クシナーダは微笑を浮かべた。


    2

 クシナーダを抱いて川を渡っていると、「あっ」という甲高い声が対岸から響いた。蔓などを器用に使って山肌を下りてきたのはスクナとオシヲだった。スサノヲは渡りきったところで、抱きかかえていたクシナーダを下ろした。
「クシナーダ様、ご無事で……スサノヲが一緒だったんだね」
 二人は心底安堵したという表情で二人を迎えた。一緒に河原を歩いて行きながら尋ねる。
「他の者たちは?」
「イタケルやニギヒ様は、他の巫女様たちと一緒。それに今、あのカナンのエステル様たちも一緒になって」スクナが答えた。
「そうか。追手からうまく逃げ延びたのだな」
「ニギヒ様たちが追いかけてきたカナン兵を撃退したから」
 エステルたちの逃走経路が、たまたまクシナーダたちの進路と交わったのは僥倖というべきだった。豪雪によって足を止められなければ、こうはならなかったに違いない。
「スサノヲ……」
 オシヲに呼ばれ、スサノヲは横を歩く少年を見た。
「俺……ミツハに褒められるように頑張った」
「そうか」スサノヲは眼を細めた。そして少年の肩に手を回した。

 帰還したクシナーダとスサノヲを、アナトたちキビの巫女たちは眼を見張って迎えた。
 彼女たちはスサノヲを見るのは初めてだったが、一瞥で心を奪われていた。彼にというよりも、彼とクシナーダ二人そろっての存在に魅了されたかのようになった。
 二人の存在はさして交わす言葉もない中で、まるでオーラが重なり合って柔らかな光を放つようだった。たぐい稀な絆で結ばれた者同士の静かな信頼の気配が満ちており、その姿にはある種の息苦しいような妬ましさを感じた。しかし、その感情以上の憧憬さえも覚えるのだった。
 勘の鋭い巫女たちは、二人に愛し合う者だけが持つ共鳴のヒビキを感じ、それが自分たちさえも癒すという事実に驚かされるのだった。ワの民の斎場の広場には多くの者が集まっていたが、二人がその場に入るのと共に場所の空気がさらに清浄なものへと変わるのに気づいていた。
 その瞬間、彼女らは初対面のスサノヲと何の言葉を交わすこともなく、彼の存在をクシナーダとセットで受け入れたのだった。
「スサノヲ……。よく無事で」
 エステルの言葉にスサノヲはうなずいた。モルデの他、カイ、シモンらも無事にたどり着いていた。
 そこへちょうど、ニギヒの配下の一人が戻ってきた。
「どうだ」と、ニギヒが尋ねる。
「カガチが動き始めました。意宇へ向かうものと思われます」と、配下が答えた。
「少し時を置いて、わたくしたちも後を追いましょう」と、クシナーダ。
「その必要があるのだな」と、スサノヲは尋ねた。
「はい」
「説明してくれるか」
「ヨミから放たれたヨモツヒサメを浄化する〝黄泉返し〟を行わねばなりません。そうしなければこの世は滅びます。そのためには八人の巫女と、スサノヲ、あなたが必要です。しかし、先に争いを止めなければ、そのようなことはできません。タジマの巫女であるアカル様が、カガチを止めるためにそのそばに残っております。その時が来たら、わたくしたちは全力でアカル様をお助けしなければなりませんが、そのためにはわたくしたちが自由の身でいること、そして事があったときにアカル様をお助けできるおそばにいる必要があるのです」
「そのためにカガチを追うのだな」
「はい。まずはカガチを鎮めなければなりません」
「カガチは俺の剣を持っている。常人には持つこともかなわぬ〝力〟を持つ剣だ」
「やはり、そうでしたか。その〝力〟にカガチは取り込まれて、鬼と化したのでしょう」
「そのようなものを鎮めることができるのか」
「わたくしはアカル様を信じます」
「ならば俺も信じよう。俺は何をしたらよい」
「その時が来たら、カガチの動きを止めてください」
「承知した」
 スサノヲは疑問こそ提示したが、他は少しの異論も挟まず、クシナーダたちの提案を受け入れていた。
「だが、カナンにも問題がある。エステルたちはそのイスズという巫女の提案を受け入れたが、ヤイルという男が今、カナン軍を牛耳っている。ヤイルは予言者らしい」
 スサノヲの言葉を受け、クシナーダはエステルの方を振り返った。そして、その瞬間に「あらっ」というように目を丸くした。
「ヤイルは先の洪水を予言し、カガチの軍が壊滅することを的中させた」エステルはやつれた顔に苦渋をにじませていた。「今はオロチの連合軍が分裂し、仲間割れすると公言している。五つの地のキビも互いに憎しみ合うようになると」
 その言葉にはっとなったのは、キビの巫女たちだった。
「まさか……」と青ざめたのは、コジマの巫女、ナツソだった。「あのことを……」


 ちょうどその頃――。
 意宇の湖に近いコジマ水軍の陣に急報がもたらされていた。
「タジマの水軍が攻めてきました!」
 カーラはコジマの本陣の中、指揮官のそばでその報せを聞いていた。彼がもたらした人質となっているキビの家族救出のナツソからの密命。それに沿って、計画が練られている最中のことだった。
「どういうことだ!」コジマの指揮官は顔色を失って叫んだ。
「わかりません! ただ……」
「ただ?!」
「タジマは我らが反乱を起こしたと……」
 指揮官は絶句し、カーラを振り返った。その瞬間、カーラは人質救出の企てが、根底から崩壊する予感を味わった。


「そのお話が本当なら、ヤイルという方は予言者としてのお力をお持ちなのかもしれません」クシナーダはむしろそっと言った。「人には多かれ少なかれ、動物と同じように危機を察知する能力があります。洪水を予知したのは事実かもしれませんが、このような時にもっとも危惧すべきなのは、その方が予言の成就に固執することです」
「固執?」エステルが尋ねた。
「じつは危機的なことを予知することのほうが簡単なのです。出方も際立っていますし、気配もあります。本当に難しいのは、善き未来を提示することなのです」
「善き未来……」
「それは本当の意味での叡智なくしてはかないません。この世が滅びるという予言者は、かつて多く存在します。そうではありませんか、エステル様」
「たしかに……。我が一族にも名だたる予言者はそれを伝えてきた」
「それはたしかに神の如き眼で見たものもあったかもしれません。しかし、人は必ず自分個人の想いによって、その見たものを歪めてしまうものです。どのような貴い人であれ、それをまったくゼロにはできない。真っ白ではないのです」
「真っ白ではない……? どういうことだ? 予言者は神の言葉や神の見せてくれたものを我らに伝えているはず」
「たとえば……このわたくしです」
「え?」
「正直に申し上げます。わたくしは、じつは皆さんの半分くらいしか、色が見えておりません」
 その告白は、巫女たちだけではなく、イタケルやオシヲらにも衝撃をもたらした。


「色が識別しにくい眼なのです。皆さんの感じておられる赤や青、緑や黄、紫……そのような色合いが、わたくしの眼にははっきりと判別しにくいものがあるのです。でも、わたくしの眼にはそれがわたくしの知る世界なのです。わたくしの眼がもっと問題があるものであれば、もしかしたら白と黒しかわからないかもしれません。皆さんと同じものを見ていても、わたくしには違って見える。でも、それがわたくしの見ている世界なのです。が、じつは人それぞれに同じ色でも見るヒビキが違うのです」
 静まり返った。
「見る人によって違う……」エステルが呟いた。
「わたくしは感応する力で、人それぞれが受け取っている赤をヒビキとして感じることができます。だからわかるのです。同じ赤でも、エステル様の見る赤とスサノヲが見る赤は違っています。予知や予言も同様なのです。この世界にはある種のヒビキが強く流れることがあり、それをわたしたちは受け取って、その年の気候やこれから起きることを予見することができますが、それは受け取り手によって解釈が違うのです。またそのヒビキがどこから発せられたものなのかということもあります」
「どこからというと……」
「光なのか魔なのか、というようなこともあるのです」
 カナンの者たちは、顔つきがこわばってきた。
「エステル様、未来はこの瞬間にも無限に変化し続けるもの。それは今のわたくしたちが創造するもので、じつは確定的な未来などない。ましてヨモツヒサメが世に出た今、それを判断することは、わたくしにもできません。ただ……悪しきことの予知を的中させた者は、往々にしてその次の悪しきことの予知を的中させることに固執するようになります。自分が予言する悪しきことが起きることを望むようになるということです」


 同刻――。
 意宇の湖の向こう側で起きた混乱を、ヤイルは黙って眺めていた。満足げに、腕組みをしながら。
「ヤイル様」一人のカナン兵が、ヤイルのそばに来て囁いた。「仰せのとおり、地元のワの民を使って、噂を流してきたことが功を奏したようですな。コジマがオロチを裏切ると」
 うむ、とヤイルは唸った。そして首を左右にゆっくりと振り、周囲に人気がないのを隻眼で確認した。そして剣を抜きながら言った。
「すべては我が予言通り。予言は成就されなければならぬ」
 カナン兵はその剣の光るのを見て絶句した。


「悪しきことを待ち望み、より多くの人がそれを受け入れれば、その出来事が起きることは容易となります。人の意識が大きな力となるからです。立場によっては、もっと具体的に予言を成就する方向へ誘導することさえできるでしょう」
「では、ヤイルは……」
「わかりません。すべては時が証明すること」


「見よ! 我が予言は成就した!」群衆に向かい、ヤイルは叫ぶ。「オロチの結束は乾いた石くれのごときもの! ここよりオロチの崩壊は始まるのだ!」
 沸騰する群衆。しかし、ヤイルの背後には常に冷たいものが貼りついていた。それは綱渡りを休むことなくし続ける者が抱く、胸の悪くなるような恐れだった。
 ヤイルの頭上には、ヨモツヒサメがいた。そのヒサメは嘲笑っていた。
 コジマの反乱の可能性を見抜いたカガチの警告。それが意宇のタジマに本隊にもたらされるのと、奇妙なほどにリンクしてヤイルは策略を巡らせた。ヤイル自身はその発想とタイミングがどこから湧いたのか、知る由もなかった。


「クシナーダ」スサノヲは言った。「そなたはいつも衣を染めていたな」
「はい。それは色をヒビキとして感じることができたからなのですが、わたくしはこの眼で鮮やかな色の美しさを感じることが少なく……だからせめて」クシナーダはにっこり笑った。「他の方の眼を通してその色を感じたかったのです。染めた衣を着たオシヲやミツハが、うわあ、きれいな色だと、そう言って笑ってくれるのがうれしかったのです」
 聞いていたオシヲは、ふと自分の隣にミツハがいるかのような錯覚を覚えた。
「なればこそ、わたくしはこの世にヤオヨロズ――たくさん――の色があることを望みます。それぞれの色が、それぞれのヒビキで輝くこと、そしてそれが高い空から見たときには、大きな一つの美しい風景となるような、そんな世界であってほしい」
 静まり返っていた。
 その中、スサノヲは言った。「それはつまり――それぞれに違う者たちが共に生きる世界ということだな」
「はい――」
「承知した。ならば、俺はそなたの望む世界を守る戈(か)となろう」※戈=剣
 エステルたちは不思議な想いにとらわれていた。クシナーダとの語ることと、カナンの本陣でスサノヲが語ったことが、そのまま同じものだったからだ。
「エステル……おまえはどうする?」スサノヲは尋ねた。「おまえたちカナンの民も、同じ地の上で咲く花の一つとなるのか。それともカナンの花だけでこの地を満たしたいのか。おまえの胸の内を今ここで、皆に語ってくれ」
 視線がエステルたちに集まった。
「愚かであった……」ややあってエステルは言った。「そのような望みを抱いたことと、このワの島国の民たちをおおぜい殺めてしまったことを……わたしは心から後悔している。本当にすまないことをした。許してくれるとは思わない。だが、どうか、この争いを収めるため、我らにできることがあるのなら、協力させてくれないか」
 クシナーダは歩き出し、エステルの前に進んだ。「エステル様、この地で命をお授かりになりましたね」
「え? な、なぜそれを……」反射的にエステルはみずからのお腹に手をやった。
 クシナーダは彼女の前にしゃがみ、そっと腹部に手をかざした。「この子はきっと男の子で……とても強い〝力〟を持つ子です。悪阻がひどいのではないですか?」
「あ、ああ」
「それはこの子がお腹の中にいて、エステル様を浄化してくれているからです」



「わたしを……?」
「はい――」クシナーダは立ち上がり、笑顔を見せた。「母は子を救い、子は母を佐(たす)けるものです。この子はずっとエステル様の苦しみを浄化し続けていました」
「この子が……」エステルの双眸が呆然と見開かれ、涙が溢れた。彼女はお腹に置いた両手を中心に、身体を丸くする。
 モルデがその背にいたわるように手を伸ばした。
「ただ……ちょっと不思議です」クシナーダは戸惑ったように首を傾げ、そしてスサノヲを振り返って見た。
 そのときだった。
 祭祀場につながる山の斜面に甲冑の触れ合う音や男たちの声が下りてくるのが伝わってきた。その気配にはスサノヲはとうに気づいていた。だが、彼は先刻からまったく動くつもりもなかった。
 ニギヒの配下たちが過敏な反応を示し、剣を手にした。撃退したカナン兵たちから奪った剣だ。
「慌てなくていい」と、スサノヲは言った。
「そのようですね」クシナーダも同調する。
 二人が落ち着き払っているので、一同はその場を動くことなく、男たちが斜面を下りてくるのを待つことになった。
「いた! いたぞー!」声が上がる。「エステル様だ!」
 彼らはカナン兵だった。エステルの姿を木立の間に見つけ、勢いを増して駆けつけてくる。彼らに害意がないことを、スサノヲはなぜかわかっていた。まるでクシナーダの持つ霊感が宿ったかのように、彼らの意識がふっと心の中に入ってきたのだ。
 彼らはエステルを探し求めていたが、それはヤイルに討伐を命じられたからではなかった。人数はおよそ三十名ほど。
「戦う意志はない! 我らはエステル様に従う者! ヤイルの元を離れてきたのだ!」
 エステルとモルデは顔を見合わせた。カイやシモンの曇っていた表情にも、にわかに生気のような喜びがにじみ出た。
「エステル様! いかにヤイルが予言を為すとはいえ、エステル様を殺めよなど、もはやとうていついて行けませぬ! どうか、我らもご一緒に!」


    3

 その日のうちに、クシナーダたちは佐草と呼ばれる集落にたどり着いた。そこはやはり古くからのワの民の居住地の一つであり、そばには清らかな泉と冬でも緑が生い茂る森の中にある、身をひそませるには格好の場所だった。意宇の中心地からもほど近く、オロチ本隊に合流したカガチたちの動向を見張ることもできた。※現・八重垣神社付近。
 クシナーダが訪れると、民たちは喜んで寝泊まりする場所を提供してくれた。トリカミの巫女としての威光というよりも、彼女が愛されているからこその対応ぶりだった。カナンからの合流組も含めると大世帯になっていたが、彼らは与えられた家屋で身を休めることができた。
「良いところです、ここは」クシナーダは周囲を見まわしながら言った。
「そうだな」二人で歩きながら、スサノヲも同じように感じていた。
 ワの民の祭祀場は、どこも清浄な空気に満たされている。が、この里のそれはトリカミのそれに近い清浄さで、しかも何か不思議にあたたかいものに満たされていた。
「あら、素敵」クシナーダはある樹木のそばで立ち止まった。
 椿が二本、地から生えていた。が、それは途中ですうっと寄り添うように幹を一つに合わせ、そのまま一本の樹木として成長し、頭上にまで葉を生い茂らせ、花を咲かせていた。根は別々でありながら。
 しばらくクシナーダはその姿に見入っていた。
「面白い椿だな。一つになっている」スサノヲはそう言いながら、その椿の姿に触発されて、自分の中にクシナーダへの愛情が深く湧きおこるのを感じた。
「スサノヲ……」
「なんだ」
「愛しています」クシナーダは椿を見つめたまま言った。


「…………」それは今、彼が感じたものとまったく同じ想いだった。
「わたくしはあなたとこの世界で生きて行きたい。この椿のように」
「俺もこの椿のように、そなたと生きて行きたい」スサノヲは椿を見上げた。「そなたと見たあの雲海と虹……俺は生涯忘れぬだろう。あの雲海の広がりのように、俺はそなたを取り巻いて守りたい。そなたという虹を」
「クシナーダ様――!」スクナが呼びかけながら走ってくる。彼女の背後からキビの巫女たちやオシヲも小走りにやって来る。「すごいものを見つけたよ。あっちに二本の椿が一つになっているのを――あれ?」
 スクナは二人が見ている椿もまた、同じようなものであることに気付いた。
「これもそうだ……」
「こんな椿を他にも見つけたのか」
 スサノヲの問いにスクナはうなずいた。「すごいや……。こんな不思議な木が二つも……」
 巫女たちも到着して、眼を見張る。だが、それは二つではなかった。エステルたちが奥の泉のほうから戻ってくると、声をかけてきた。
「泉がすごくきれいだった。スサノヲ、この地は気持ちが良いな」
「そうだな」
「そうだ。泉のほうに面白いものがあるぞ。椿の木が根では二つなのに、途中で一つに――」エステルは絶句し、目の前にある椿に目を止めた。
「すごいや。三つもあるんだ」と、スクナ。
「え? こんなものがまだほかに……」
「どうしたのじゃ」ニギヒを伴って、その場を通りかかったナオヒが声をかけた。
「こんな不思議な椿が三つもあるんです」スクナが言った。
「ほう。これは面白い。この地には命を結びつける特別な〝気〟があるようじゃな」
「皆さん」唐突にクシナーダは言った。「歌を作りましょう」
 そのあまりにも飛躍したように思える言葉に、他の巫女たちでさえ口をぽかんと空けた。
「クシナーダ、歌なんか作っている場合じゃないじゃろう」と、ナオヒが苦笑した。
「いいえ。今だから歌が必要なのです」
「ほう?」
 クシナーダは、巫女たちと、そしてエステルたちを見渡して言った。「皆さんが心を一つにできる歌を作ってください」
「心を一つに……?」アナトは呆然とつぶやいた。
「はい。アナト様たちはもはや心を一つにされていると思います。ですが、わたくしたちがこれからしなければならないのは、すべての民が心を一つにすること。それができるような歌をこの地で作ってほしいのです」
「わたしたちが作るのですか」
「はい。もちろん。エステル様も協力してください」
「え?!」と、エステルは大きな声を上げた。「わ、わたしがっ?」
「はい。アナト様たちと協力して作ってください」
「む、むりむり! わたしはそんな……そんな柄じゃない」エステルは真っ赤になった。そんな彼女を見るのは、誰もが初めてだったかもしれない。
「できることがあるのなら、協力するのではなかったか」スサノヲがぼそっと言った。
「……いや、しかし」
「エステル様も参加してもらわなければ困ります。カナンの民も共感できる歌でないといけないからです」
「しかし、なんのためにそのような歌なんか……」
「ですから、心を一つにするためです」クシナーダはにっこりとした。「キビの皆様……そう、とくにナツソ様は調べをお作りになるのがとても上手なのですよね」
「は、はい。あの、でも、あまり自信が……」ナツソは物怖じしたように言った。「それに、調べを作るのでしたら、何か鳴り物がなくては……。ここには何も持ってきておりませんから」
 それを聞いていたオシヲが、はっとした。腰紐に差していた一本の笛を手に取る。少し迷ったが、彼はそれをナツソに差し出した。
「あの……これ……」
 それは岩戸の祭祀場でオロチ兵の手にかかって亡くなったミツハの笛だった。
「……使ってください」
「ありがとう、オシヲ」
 クシナーダに代わりに礼を言われてしまい、ナツソはやむもなく笛を受け取った。
「では、皆さん、お願いいたしますね。スサノヲ、他の椿も見に参りましょう」
 クシナーダとスサノヲはその場を立ち去った。
 その二人の背中を見送りながら、うっとりとナツソが言った。「いいなあ、クシナーダ様。あのようなスサノヲ様がおそばにいて……」
「ほんとう……」同じような憧憬の眼でシキも漏らした。
 それにほとんど同調しかけ、アナトはいきなり厳しい表情になって咳ばらいをした。
「な、何言ってるの! さあ、クシナーダ様の言われる歌を作りましょう」そう言って巫女たちを促して歩き出した。が、その場で動かないエステルに気づき、きつい眼で振り返った。「エステル様もです。さあ」
「わ、わかった……」
 エステルがぎくしゃくと歩き出し、ついて行く。
 そんな娘たちの有様を見て、ナオヒは腹を抱えて笑い出した。


 意宇のタジマ本隊に到着したカガチは、しばらくまったく動くそぶりを見せなかった。ある意味、不気味なほどの沈黙ぶりだった。
 意宇の湖で戦いがあったらしいという噂を耳にし、とりわけキビの巫女たちを不安にさせた。その不安の的中は、三日後、帰還したカーラによって知らされた。
「コジマの水軍はほぼ壊滅的な状態です」
 カーラは戦乱の中を生き延び、報告のために戻ってきたのだ。クシナーダたちが移動していたこともあり、場所を探し出すためにかなり苦労したようだった。
「コジマが壊滅……」
 非常に大きなショックを受けたのはコジマの巫女であるナツソ、そしてイズミだった。今回の人質救出の立案を行ったのは、他ならぬイズミであったからだ。
「申し訳ありません、アナト様、ナツソ様……」そうつぶやくと、イズミはがくんと膝を折って、地に手をついた。「人質を救うどころか、さらにもっと多くの者を死なせてしまいました。わたしがよけいな計画を立ててしまったばかりに……」
 イズミは責任感と悔しさのあまり全身を震わせていた。
「いえ……そういうことではないのかもしれません」カーラは言った。
「というと?」アナトが尋ねた。
「わたしたちは慎重に事を運ぼうとしていました。ナツソ様が絶対の信頼を置く方々と、隠密に船を出してタジマやイナバに赴こうと謀ってはいたのですが、その計画自体、知る者はまだほとんどなかったのです。わたしがコジマの陣に到着して、ほんの短い時間しか経過しておりませんでしたので」
「ということは?」
「オロチがコジマを切り捨てようとしたか、あるいは何かコジマとオロチを分裂させるための策略があったのかもしれません。タジマ水軍はこちらに反乱の疑いありとして攻めてきましたが、そのようなことになる理由もまだなかったのです」
「ヤイルかもしれぬ」と、エステルが言った。「ヤイルはもともと知略に長けた男だ。こちらに有利な状況を作り出すために、意図的に噂を流して敵を分裂させるのはヤイルの常套手段だ」
 隣でモルデも頷いた。「じつは先日のクシナーダ様の話を聞いたとき、わたしもゾッとしました。まさにヤイルがやりそうなことを言っておられたからです」
「だとすれば、もうほんの少しだけ猶予があれば……」カーラは残念そうに頭を垂れた。
「くそっ」イズミは小さな拳で地面を叩いた。
 しばらく沈黙があった。
「どうする、スサノヲ」エステルが口を開いた。「キビの人質を救出することは、絶対に必要なことなのだろう」
 その問いに答える以前に、エステルは続けて言った。「我らを行かせてはくれないか」
「なに?」
「ここにいるのはカナンの中でも精鋭ばかりだ。甲冑を捨て、身軽になれば、イナバやタジマへもそう時間はかかるまい。天候さえよければ、三、四日でたどり着いてみせる」
「エステル様はいけません」モルデが言った。「大事なお体です。我らが参ります」
「しかし、そのキビの人たちが囚われて働かされているっていうタタラ場がどこなのか……」カイが疑問を呈した。
「よし、わかった」パン、と両手を叩いたのはイタケルだった。「俺も行く。そのアカルっていう巫女の情報から、俺ならだいたいの場所はわかる。鉄穴流しをしている川は見ればすぐにわかるしな」
「陸路、タジマへの道のりは危険だぞ」スサノヲが言った。
「だが、タジマもほとんど全軍で意宇に集結しているんだろ? なら、むしろ背後は手薄だぜ、きっと」
「そうかもしれぬが……」
「では、我らも」ニギヒが申し出た。
「いや、あんたらにはこの巫女さんたちを守っていてほしい。カナンの連中より、よっぽど信用できるからな。俺はこいつらを見張るためにも行くんだ」イタケルはわざとらしくエステルたちを指さして言った。
 なんだと、というふうな反応をカイは示したが、それはエステルによって抑えられた。
「良いのだ。そのように思われても仕方のないことを我らはしてきた……。モルデの言う通り、わたしがここに残る。おかしなことをすれば、このわたしの命を好きなようにしてくれてかまわない」
 イタケルは眼を細めた。そして小さく、何度か頷いた。
「決まりだな」

 そうしてモルデとイタケルが率いる一団が、その日のうちに発つことになった。
「オシヲ、イタケルに領布を渡してください」彼らを見送るとき、クシナーダが言った。「その領布には魔を祓う力があります。ヨモツヒサメに対しても、多少なりとも効果があるはず」
 オシヲから引き継いだ領布を首にかけると、イタケルは「じゃな」とあっさりと手を挙げて歩き出した。
「モルデ……くれぐれも気を付けて」
「ご心配なく、エステル様」
 言葉を交わしたのち、モルデもまたイタケルを追って歩き出す。
 カーラはアナトたちを守るため、そして彼自身が偵察の能力に長けていたため、意宇の動向を監視するために残された。
 歌が出来上がったのは、その日の夜のことだった。
 キビの巫女たちと、カナンの中で一人残ったエステルは、その歌を携えてクシナーダの前にやって来た。ナオヒは「若い者に任せる」と言って、歌作りには参加しなかったようだが、その歌を聴くために同行してきた。
「歌詞は皆で考えました」と、アナトが言った。
「調べも降りてきたのですが……」ナツソもためらいがちに言った。「このようなもので本当によいのか……」
「聞かせてください」と、クシナーダが言った。
 スサノヲやニギヒも見守る中、ナツソの笛が高らかに鳴り響いた。前奏の後、巫女たちとエステルが歌い始めた。慣れていないエステルは、顔を紅潮させ、それでも巫女たちに指導されたのか、懸命に声を上げていた。
 今まで一度も耳にしたことのないような調べだった。巫女たちが日常の神事に使う、雅やかで緩やかな調べとはまったく異なる曲調だ。それは力強いヒビキに満ちていた。
 歌が終わった。
「いかがでしょうか……?」恐る恐るという感じで、アナトが尋ねた。
「や、やっぱり、だめですよね」と、ナツソも狼狽しながら真っ赤になった。
 しかし、クシナーダはにっこりと笑顔を見せ、自分の拳を胸に当てた。
「なにか聞いていて、心が鼓舞されるような、すばらしい曲です。胸が熱くなりました」
 巫女たちはほっとした表情を、互いに確認し合った。
「心の岩戸を開いて……。これで、わたくしたちはきっと心を一つにできます」
 クシナーダはスサノヲに眼をやった。スサノヲは頷いた。
 ――あとは、とスサノヲは考えた。
 あとは、時が至るのを待つだけだった。


    4

 月が満ち、そしてその後もなお、カガチは長く動かなかった。オロチとカナンは限定的な小競り合いを繰り返していたが、決定的な戦端は開かれなかった。
 水面下でだけ、何かが動いている。そんな気配が濃厚だった。
 クシナーダはその数日、エステルと過ごすことが多かった。何をしているのだろう、とキビの巫女たちも訝るほど、二人は集中的に時間を共有していた。
 その日、クシナーダはエステルを佐草の里の神域にある泉へ連れて行っていた。太い杉木立が取り囲む杜の中に、その小さな泉はあった。静かな気配があたりには満ちていて、そこに佇み、ただ息をしているだけで、清浄なものが満たされていく。
 寒風の中、二人の姿は泉の中にあった。むろん、クシナーダの指示である。澄んだ水は凍りつくほど冷たく、水に漬けた足からみるみる凍りついてしまいそうだった。
「本当は全身を浸すのが良いですが、エステル様は身重ですし、これで良しとしましょう」
 クシナーダは両手で泉の水をすくい取ると、エステルの頭の上から注いだ。その冷たさにエステルはびくっとなる。


「お顔を洗ってください」
 言われるままにエステルは、顔を水面に近づけ、両手で顔を洗った。かがめた胸元から、彼女が身に付けている首飾りの宝珠が垂れ下がった。そして、それも泉の中に浸かった。
 その宝珠は、どう見てもクシナーダたち巫女が身に付けている勾玉と同じものとしか思えなかった。
「大丈夫ですか」と、クシナーダが尋ねる。
「ああ、なんというのか……すごく心地よい」
「出ましょうか」
 二人は泉を出た。持ってきていた布で足を拭く。
「これはどういう意味があるのだ」
「禊をして頂きました。穢れを洗い清めるためのものです」
「ミソギ……」濡れないようにたくし上げて衣装を戻しながら、エステルは遠くを見るような眼になった。「不思議なものだ。カナンの民にも似たような風習がある」
「さようごございますか」
「それに……前から思っていたのだ。これはなぜ、そなたらの物と似ているのだ」と、自分の宝珠を人差し指と親指で持つ。
「勾玉はずっと昔からございます」
「これは失われたカナンの神殿にあったもの。多くは略奪されたが、これだけは残され、わが一族に伝えられたという……。神を象(かたど)ったものだと聞いている」
「さあ、なぜでしょう」うっすらとクシナーダは笑ったが、その顔には答えがわかっているが、あえてあいまいにしているような表情が滲んでいた。それは勿体ぶっているというよりも、沈黙しながら提示するという、そのような姿に見えた。
 身なりを整えた彼女らは、泉を離れて歩き出した。
「教えてくれないか。なぜ、そなたらはこれと同じものを持っているのだ」
「エステル様。それはあなたの言う神も、わたくしたちの言う神々も、同じ、ということではないのでしょうか」
 ぎょっとしたようにエステルは立ち止まり、そして同調せずに静かに歩を進めるクシナーダを追って足を速めて追いついた。
「馬鹿な。唯一の神と、そなたらの神々は何もかも違う」
「エステル様、わたくしたちはあなたが言う唯一の神というものを否定してはおりません。わたくしたちはこの天地(あめつち)すべてを尊んでいるだけのこと。それを神々と呼ぶのです。でも、わたしくしたちは唯一の神が存在しないなどと、一度も言ったことはございません。それを意識しなくても、この天地のすべてを尊ぶ気持ちがあれば、それは同時に唯一の神を尊ぶのと同じことだからです」
「すべてを尊ぶ……」
「この空も大地も風も、そして人や他の動物たち、草木や花も、すべて尊い。わたくしたちの先祖もまた尊く、わたくしたち自身もまた尊い。エステル様やカナンの民も同じく、尊いのでございます」
「それがおまえたちの考え方か」
「エステル様、ただ一つのものを尊ぶというのもまた崇高なことなのですが、それには一つの落とし穴があるのです」
「落とし穴?」
「ただ一つのものを認めるということは、その瞬間に敵を作り出してしまう危険があるのです」
 ぎくっとして、再びエステルは歩みを止めた。今度はクシナーダも立ち止まり、振り返った。
「エステル様にはもうお分かりだと思います。一つのものだけを認めるということの裏側には、それ以外のものを否定するという想いが秘められているのです。そこにもし寛容さがなければ、敵を作り出すのは必定」
「つまりすべてを尊ぶというそなたたちと、我らカナンの民はまったく逆だということだな」
「けれど、真(まこと)の神の御心に至れば、この世のすべてに神の慈愛が満ちていることを知ります。辿る道は違えど、至るところは同じなのです。その時には敵は存在しなくなっています」
 エステルは眼を下の方に落とし、それから思い出すように上の方へ向かわせた。「亡くなった父から聞いたことがある。カナンの地に、百年ほど前に救い主と期待された男が現れたことがある、と。カナンの民はその男が神の使いとして、カナンを大国の圧政から解き放ち、かつての栄光を取り戻させてくれると信じて迎えた……。が、その男はこういったそうだ。
〝汝の敵を愛せ〟――と。
 カナンの民は落胆し、その男を見限り、処刑台に送ったそうだ」
「エステル様、あなたがたにとって神への信仰は何物にも代えがたい大事なものとはわかります。ですが、人にはそれぞれに大事なものがございます。大切な守りたいもの、それは人それぞれにあると、今のあなたならわかっておられるのではありませんか」
 そう言われ、エステルは自分の腹部に意識を向けるようなそぶりを示した。
「あなたは今、ご自分が弱くなったようにお感じかもしれませんが、そうではありません。守るべきものが、二つになってしまった。その間で苦しまれたことでしょう。でも、それは弱くなったのではなく、優しくなられたのです。そうして他のものを受け入れて行くことこそ、真の強さ……あなたは本当は強くなられたのです」
 く……とエステルは両方の拳を握り固めた。
 そのとき、オシヲが杜を駆け抜けてくるのが見えた。彼の後からスサノヲも歩いてくる。
「クシナーダ様!」
「どうしたのですか、オシヲ」
「カガチが動き出した! 意宇のオロチ軍が動き出したんだ!」
 クシナーダはエステルを振り返り、うなずいた。そしてオシヲのほうへ向かって言った。
「わたくしたちもすぐに発ちましょう。オシヲ、皆さんに知らせて」
「わかった」
 クシナーダはオシヲと共に佐草の集落へ向かって先を急いだ。それとすれ違ったスサノヲは、後からやって来るエステルをその場で待っていた。
「どうした?」と、声をかける。
「なんでもない……」エステルは涙ぐんでいたのを悟られぬように、顔を横へ向けていた。そして、小さく言った。「ああも、たなごころを指されてはな……」
「クシナーダのことか」
「不思議な娘だ。おまえが愛するのも分かる」エステルは足を速めた。


 カガチの行動は、カナンに呼応したものだった。
 意宇の湖の南に陣を張っていたカナンだったが、すでにこの時、非常に強い危機感に見舞われていた。タジマ水軍とコジマ水軍の内乱的な戦闘の後、カガチはコジマを完全に掃討してしまうと、すみやかにコジマの代わりに意宇の湖西側の前線基地にタジマの水軍を回らせた。このとき腹心のイオリをこの指揮に当たらせ、東西から完全にカナンを挟撃できる態勢を整えたのだ。
 戦力は二分された形だが、それでもなお意宇にはタジマ本国の軍勢が六割がた残されていた。前新月以来の戦いで敗走を続けたカナンの勢力に対して、もはや相当に有利な状況だった。一気に攻め込むことができずにはいたのは、豪雪以来、不順な天候が続いたためである。
 カガチにしてみれば、もはや焦る必要はどこにもなかった。ワの国に根を張った状態なのは彼らであり、時間が経過すればするほど、カナンにとっては食料の不安も生じてくるはずだったからだ。今や当初の支配地域も狭められ、カナンは意宇の湖の南にある拠点に封じ込められ、身動きできなくなっている。
 その現実は、じわじわとヤイルの首を絞めてきていた。このまま時を過ごしても、事態が好転する要素は一つもなかった。彼にとっての最大の好機は、タジマ水軍とコジマ水軍の分裂を生じさせた混乱に乗じることだったが、よりにもよってその先鋒を任せるべく待機させていた精鋭部隊が、まるごと消えてしまったのだ。突撃の機会を逸したまま、その精鋭部隊がエステルのもとへ去ったとわかったのは、かなり時間が経過してからだった。
 次の新月が近づき、天候がわずかばかり回復した。日差しが降り注ぐ日が続き、残されていた雪の下から地面があらわになり、ヤイルは行動を起こした。
 残された戦力で、オロチとカガチを討ち果たす――もはやそれ以外の選択肢がなくなってしまったのだ。それは悲壮な覚悟を必要とする決断だったが、ここに至ってもなおヤイルにはわずかな勝算が残されていた。
「我らはこの戦いに勝利する! 神は我に見せたのだ! 勝利の瞬間を! 今こそ持てるすべての力をぶつけ、意宇のオロチどもを粉砕するのだ! さあ、馬を出せ! 我らの騎馬は敵を滅ぼし、カガチを殺すだろう! 我に続け!」
 ヤイルは虎の子である騎馬を投入した。それはこの戦いが始まる以前に、わずかずつではあるが、大陸から運び込んできた貴重な戦力だった。
 ワの地は山野が多く、騎馬が活躍するには、やや不向きだった。そのためこれまでの戦いでは温存されることが多かった。先進的な弓矢、剣や鎧だけで勝利できたということもあった。
 カナンは拠点を離れ、東へと全兵力を移動させた。そして意宇との中間地点の山麓、わずかばかりの平野が開ける場所へ陣を構えた。背後に山を置き、そこにタジマ水軍への守備隊を配置し、戦力の大半は東へと向けた、一点突破の戦略だった。その中核となるのが騎馬隊だった。
 ――カガチが来るか。
 ヤイルは冷や汗をずっと流し続けるような心境で待ち続けた。
 ――カガチよ、来い。
 恋い焦がれた相手を待ち望むような熾烈さだった。もしカガチが後方で待機し、持久戦に持ち込まれたら、もはやカナンに明日はなかった。この戦いでカガチを討ち取らねばならなかった。
 カヤの砦の奪還に現れたときの鬼神。あの恐るべき男が、あの時と同じように先頭に立って現れてくれることを、ヤイルは全身全霊で神に願った。でなければ、勝機はなかった。
 新月となる日の朝、平野の向こうにオロチ軍は出現した。小さな川を挟んで、両軍は対峙した。
 ヤイルの隻眼は、その軍勢の中にひときわ背高い男の姿を見出した。遠目過ぎて、とうていその容貌を確認することはできなかった。が、その大男の周辺に群がる軍勢の密度が、彼にそれが大将であることを悟らせた。
 ごくりと喉仏が上下した。


 カガチはヤイルの対岸にいた。小山を背後に陣形を整えているカナン軍を見つめると、彼は笑った。それはただの笑いではなかった。
 肉食獣が久々の獲物を目の当たりにしたような、欲望と喜悦が入り混じったような鬼気迫る笑みだった。側近の一人、ミカソはその横顔を見て、心底思った。恐ろしい、と。そして同時に、カガチのような男の敵に回らずにすんでいる幸運を思った。
 カガチは残らず敵を殲滅するだろう。その血をほしいままに浴びるだろう。
 その真っ赤に染まった姿が、すでにミカソには見えていた。

 そのカガチのはるか後方。
 輿に載せられたヨサミとアカルがいた。彼女らは戦いの鬨(とき)の声が上がるのを、そこで待たされていた。
 アカルは苦しげに空を見上げた。そこにある邪悪な気配を――。
 勾玉をつかみ、祈るように。
「アカル様――」
 隣の輿から、ヨサミが声をかけてきた。
「大丈夫ですか。お加減が悪そうな……」
「ご心配なく」
 アカルの真っ青な横顔を見て、ヨサミは輿から身を乗り出しかけ、そしてやめた。この囚われに等しいタジマの巫女がどのようになろうが、自分の知ったことではない――そのように言い聞かせた。だが、無視してしまうには、あまりにもアカルの存在はまぶしかった。
 彼女のつかむ勾玉が光っているのが見えた。それはヨサミにわずかに残された霊視的な感性による視覚だった。
「アカル様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「はい……」息をするのさえ、苦しそうだった。
 なぜそうまでして――ヨサミは思うのだった。
「アカル様にとって、カガチ様はどのような存在なのでしょうか」
「カガチ……」アカルは辛そうな眼差しで、ヨサミを振り返った。「カガチはわたしの――」
 後に続く言葉は信じがたいものであり、ヨサミは唖然とし、返す言葉も失った。


「アカル様に〝力〟を――」
 クシナーダの言葉に、巫女たちは集まった。キビの四人の巫女とナオヒ、そしてクシナーダの六人は輪となった。そして互いに手を結びあい、意識を離れているアカルへと向けた。彼女らのそれぞれの霊能が解き放たれ、視野が拡大し、その視覚で捉えられたものが彼女らの取り囲む空間の中に浮かび上がった。アカルの姿だった。
 そのそばにヨサミもいた。
 ヨサミ、とアナトは呼びかけた。それはアナトの呼びかけであったが、同時に巫女たちすべての想いでもあった。
 ア――――
 クシナーダが最初に澄明な声を上げた。アーともハーともつかぬ、不思議なヒビキの声だった。
 ア――――
 アナトが続いた。わずかに声のヒビキが異なる。
 ア――――
 シキがさらにそれにかぶせて行く。
 六人の声のヒビキが重なり合い、彼女らの中心に浄化の光が送り込まれていく。
 その光はますます強まり、やがては霊的な能力がない人間にさえ、それが実感されるほどになった。彼女らの胸に下がっている勾玉が、はっきりとわかるほどの強い輝きを放っている。
 彼女らのそばでエステルは、驚きをあらわにして見守っていた。
 熱い、と思った。そしていつもは衣服の下に隠している宝珠が、その熱さの元だと気づき、胸元からそれを取り出した。
 眼を見張った。
 掌の上で、宝珠は信じられないほどの光量で輝いていた。まるで巫女たちに共鳴するかのように。
「ア――」
 ためらいがちにエステルは、彼女らと同じような響きを発していた。つられるように、ごく自然に。
 スサノヲは巫女たちを背後に、小高い山の突きだした岩の上に佇んでいた。
 眼下に狭い平野が広がっていた。川の両岸に二つの軍勢がそれぞれに展開し、対峙している。
 双方の陣営の上空に、真っ黒い霧のようなものの集まりが、いくつも点在していた。双方に四つずつ。
 ヨモツヒサメたちだった。
 それは地上に満ちている敵意、悪意、憎悪、恐怖などの想念を吸い上げていた。と、同時に吸い上げた想念を、その何倍もの濃度で地上に送り込んでいた。そこには「浄化」とはまったく位相を逆にした循環があった。人の「負」の想念が、ヨモツヒサメという媒体を通じることで、さらに強力な「負」へと変換・凝縮され、人へ還元されているのだった。
 そしてそれを受け取った地上では、さらに濃厚な闇が広がり続けているのだ。
「いよいよですね」隣にやってきたニギヒが言った。
 スサノヲはただ黙ってうなずいた。ニギヒは霊感など微塵もなく、この光景を見ることがない幸運を知らない。もし目の当たりにしたならば、この光景には絶望の感情以外、何も覚ええないだろう。このようなものがこの世に存在しているのならば、地上には地獄的な現実しか生み出され得ないはずだからだ。
 あれを滅すること。
 スサノヲは思った。それが自分の役目なのだと。
 だが、それはまったく絶望的に思えた。圧倒的なヨモツヒサメの〝力〟の前には、スサノヲでさえなす術もなかったのだ。その方法も可能性も、まったく彼には見えなかった。



 陽が中天を越えたころ、鬨の声は上がった。


    5

 カナンとオロチ。
 双方の軍勢は雪崩を打つように走った。そして、無数の弓矢が空を行き交った。降り注ぐ矢に射抜かれ、次々と兵士が倒れて行く。胸を、脚を、頭や眼を、矢が突き刺さって行く。
 両軍を隔てている川は、みるみる血で染まった。まるで鉄穴流しをしているかのように。
 槍や剣を携えた兵士たちが累々たる屍を越え、それぞれの敵へと向かっていく。そしてさらに凄惨な殺し合いが繰り広げられた。
 ――ヒャハハハハ!
 ――殺セ! 殺セ! モット殺セ!
 狂喜乱舞する上空のヨモツヒサメたち。
 死の力そのものであるヨモツヒサメは、現実に生み出される死によって、さらに際限なく膨張した。そしてその〝力〟は今、一人の男に注ぎ込まれようとしていた。

 ふっとカガチは笑った。「もはや待てぬわ。この剣もさらなる血を欲しがっておる」
 彼は黒い霧のようなものを濃厚に身にまといながら立ち上がった。
「カガチ様、お供します!」ミカソの叫びなど聞こえていない。
 身がはち切れそうなほど、殺戮への衝動が疼いている。それは性的な欲求が立ち上がって来るのにも似ていた。どうしようもないほど血に飢えた自分がいて、しかも、それを制御するすべはまったく何もないのだ。
 カガチは川へ向かって歩を進めた。悠然と。
「カガチだ!」
「敵の大将だぞ!」
 その叫びはヤイルの耳にも届いた。ヤイルは弓矢の部隊に命じた。
「あれだぞ! カガチに放て!」
 数十という矢が放たれた。カガチは抜刀し、降り注いでくる矢を二度、三度と払った。それらはほとんど薙ぎ払われたが、うち一本だけが肩に突き刺さった。
 カガチは矢を自ら力づくで引き抜いた。矢じりが抉り取った血肉をまき散らす。が――。
 カナン兵たちは見た。カガチのその肩の傷は、見ている間に傷が盛り上がり、流血も止まってしまうのを。
「ば、化け物だ……」
 川の中で腰を抜かしてしまう者。敵に背中を見せ、敗走する者。
 カガチの肉体は常人のものではない跳躍を見せた。ふぬけのようになったカナン兵たちの首を、次々にはねて行く。あるいは鎧ごと断ち切ってしまう。


「クシナーダ」スサノヲはその時言った。「俺は行く。これ以上、カガチを放置できない」
 彼の姿は岩上から消えた。
 アカルに力を注いでいたクシナーダたちもその作業を中断した。
「わたくしたちも参りましょう」
「おい!」ニギヒの号令で配下の兵たちが駆け寄ってきた。


「神のご加護は今ぞ! さあ、行け! カガチの首を取るのだ!」
 ヤイルの号令と共に、三十の騎馬隊が走り出した。その中にはヤイル自身の姿もあった。
 騎馬隊の戦力は、この局面では圧倒的だった。押し寄せるオロチ軍の波を突き破り、カガチに向かって突進していく。


「来よったな」カガチは残忍な笑いを浮かべ、押し寄せる騎馬隊を迎えた。
 フツノミタマの剣を掲げ、それを溜めた〝気〟とともに横殴りに払った。まるで瞬時に湧いた暴風のように、その剣圧が騎馬隊のみならず、あたりにいた者を吹き飛ばした。近くにいた者など、敵味方によらず、胴が分断された者さえいた。
「おお!」カガチのすぐ後ろにいたミカソは驚嘆した。
 殺到していた騎馬隊の半数は、それで馬が跳ね上がり、乗っていた者を振り落してしまった。コントロールを失ったまま近くに暴走してきた馬の手綱に手を伸ばし、カガチは跳躍して、その背に飛び乗った。
 圧倒的な気迫で、恐慌状態の馬を押しつぶすように制圧下に置く。
 そこへヤイルたちが近づいた。ヤイルはカガチが馬上にいるのを見て愕然とした。そして、手綱を引き、馬をかろうじて立ち止まらせた。しかし、他の兵たちはそのままカガチに向かって行き――。
 カガチの剣が舞った。それはもう物理的な距離など問題にしなかった。
 騎馬隊の兵士たちは馬上で、一度もカガチと剣を交えることもなく、次々に腕や首が宙に飛んで行った。
 それを見て、ヤイルは転進した。左は海からタジマ水軍が寄せてくる途上にあった。本能的にヤイルは右へ馬を走らせた。カガチはそれを追ってきた。
 あっけないほど短時間で壊滅したカナンの騎馬隊。残された馬たちは暴走し、オロチ軍の後方へと駆け込んで行った。そのうちの何頭かは周囲を取り囲む兵士たちの中で右往左往し、それがアカルとヨサミの輿にも近づいた。
 アカルの身体が宙に舞ったのはその時だった。何が起きたのか、ヨサミが気づいたのは、アカルがその馬の背に乗り、馬に対して何事か囁いている姿を見たときだった。
 興奮状態だった馬は、アカルの囁きを受け、鎮まった。
「さあ、連れて行っておくれ」アカルがまた囁いた。
 馬は、アカルを乗せて走り出した。
 ヨサミはアカルの背が馬上で揺られているのを見、それから慌てて輿を飛び下りた。
「ヨ、ヨサミ様! どちらへ?!」
 輿を担いでいた者の声を無視し、ヨサミはアカルを追って走り出した。

 ヤイルは馬上で、二度、カガチと剣を合わせた。
 だが、その二度目の時にあまりの衝撃に全身が痺れ、落馬した。したたかに頭を打ち、唸りながら隻眼を上げたときには、すでにカガチの剣が頭上に突きつけられていた。
「どうした、隻眼の男」カガチもまたすでに馬を捨てていた。「おまえだろう、ヤイルとかいうのは」
 ヤイルは血の気を失った顔面に、みるみる脂汗を滲ませた。後ずさりしながら、手が落とした剣をまさぐる。
「おまえの眼には、どんな未来が見えておる」カガチは嘲笑いながら、ぐっと顔を突き出した。「カナンの勝利か? 俺の死か? さあ、どうした、おまえの神とやらは。おまえを助けてはくれぬのか」
 は、は、と短く熱い呼吸を繰り返すヤイル。その呼吸は今にも途絶えてしまいそうなほど、切迫したものだった。手がようやく剣の束に触れ、彼はそれをつかむと、喚き散らしながらカガチに突き上げた。
 ひょい、とカガチは首を振ってそれをよけた。立ち上がったヤイルは猛然と、狂ったように剣をふりまわした。二人は体格的にはいい勝負で、一見、豪傑同士が戦いを繰り広げているように見えたかもしれない。だが、その中身は大違いだった。
 カガチはまるで子供のふりまわす剣をあしらう大人のように、ヤイルの剛剣をかわし続けた。その姿はあまりにも余裕に満ちており、両者の間には歴然とした力量の差があった。カガチは相手の錯乱ぶりを楽しんでいた。
 打ち込んできたヤイルの剣を弾き返し、ひゅっ、とカガチの脚が鞭のようにしなった。その猛打を浴びたヤイルは吹っ飛んだ。茂みの中に巨体を飛び込ませていく。
 剣を肩に担ぎ、カガチはなおも相手が立ち上がってくるのを待っていた。ヤイルはそばにあった椿の木の枝をつかみ、それを折りながら、ふらふらになりながら起き上った。粉々に挫けそうな闘志をかき集め、相手に向かって行こうとし、愕然となる。彼がつかんでいる剣はすでに折れていた。その手がぶるぶる震えはじめる。
 それを見てカガチは、剣をその場に突き立てた。来い、というように、指でヤイルを招いた。もはやヤイルには正常で理性的な思考能力はなかった。そんなものは蒸発して消え失せていた。
 うおおおおお、と叫びながら、ヤイルは肉弾戦に転じた。その拳をカガチは左右の掌でそれぞれに受け止めた。
 カガチの手の中にあるヤイルの拳が、次の瞬間にまるで熟し切った果実のように握りつぶされた。はらわたをねじって出すような、ものすごい絶叫が上がった。ヤイルの隻眼は飛び出さんばかりに、みずからの潰された両手を見ていた。
「終わりだ」カガチは宣告し、突き立てていた剣を手にした。
 ヤイルの眼が、その太刀筋を見ることはできなかった。あまりにも素早くふるわれた剣は、彼の両腕を切り落とした。その痛みを感じる暇さえなく、剣は斜めに振り下ろされ、首元から胴体に深々とした裂け目を作った。
 そこら中に血しぶきをまき散らしながら、ヤイルはその場に崩れ落ちた。目の前に、彼が散らした椿の花が落ちていた。
「花……」
 それが彼の見た最後のものだった。

 甲高い笑い声が、狂気のように響いていた。それはヒステリックで、邪悪な喜びに満ち満ちていた。
 その笑い声の下で、殺し合いが続いていた。
 カガチはその主戦場に戻ろうとした。が、背後に感じた気配に立ち止まった。
 ゆっくりと振り返った。
 絶命したヤイルのそばに一人の男が佇んでいた。腰をかがめ、彼はヤイルの眼を閉じさせると、カガチに向き直った。
「何者だ」
「スサノヲ――」
「カナンの者か」
「いや、違う。その剣の元の持ち主だ」
 カガチは自らの手にあるそれに目を落とした。「ほう。しかし、これは今の俺のものだ」
「そのようだな」
 スサノヲはカガチの携える剣が、すでにかつてのフツノミタマの剣ではなくなっていることに気づいていた。何百という人の血を浴び、命を吸い、その剣はもはや妖刀と呼べるほどの、異様な気配を放つようになっていた。
「だとしても、それをおまえの手に渡してはおけぬ」スサノヲは剣を抜いた。
「ほお……」
 カガチは眼を細めた。スサノヲのその姿を一瞥し、彼は悟っていた。
 これは上玉だ、と。これほどの敵は、ここしばらく出会ったことがない。少なくともカガチが今の巨大な〝力〟を手に入れたからというもの、ただそこに在るだけで、カガチに対抗できる気配を持つ者はただの一人も存在しなかった。
 いや、そうではない――。ただ一人だけ、あのクシナーダを除けば、である。
 クシナーダにはなぜか、戦わずしてカガチを挫く得体のしれない〝力〟があった。圧倒されるというのでもない。ただのか弱い娘に、なぜかカガチは自分の意志が、傷一つつけられないのを感じていた。
 ――わたくしたちは花。
 そう言いきってしまえるあの巫女の心は、おそらくどのような暴力によっても屈服させることができない。何をする前から、それがわからされてしまうのだ。
 こいつは……。
 はたと気づいていた。この男はただ強いのではない、と。クシナーダのことを思い出さずにはおれないほど、スサノヲの背後にはあの巫女の気配が濃厚に感じられるのだ。
「思い出したぞ……。アシナヅチが死ぬとき、クシナーダが貴様の名を口にしていた……。貴様、トリカミの者だな」
「俺は、カガチ、おまえと同じ身の上の者だ」
「なに?」
「住むところを追われ、この島国に流れ着いた……。言わば、そのような身の上ということだ。おまえもそうなのだろう」
「…………」
「剣を収めろ、カガチ。おまえが戦っているカナンもまた同じ身の上。そのような者同士でこの場で殺し合い、憎み合い、それがなんになるのだ。おまえは、おまえが大陸で受けた悲しみを、この地であらたに作り続けているだけではないか」
「黙れ……」怒気がカガチの顔を彩った。
「家族を……母を殺されたのだろう。飢え、死の恐怖に怯え、おまえは海を渡った」
「やめろ」
「そのような苦しみを、ここで再現し続ける必要はないのだ。楽になれ」
「やめろと言っている!」
 カガチは猛然と飛びかかった。その剣は、スサノヲでさえ、ぞっとするほどの鋭さで襲い掛かってきた。かろうじて刃を合わせ、横へ逃がす。と、間髪を入れずにカガチの脚が唸りを上げて、かばったスサノヲの腕のガードごと吹き飛ばした。
 軽々と五メートルは弾き飛ばされ、スサノヲは河原の土手に背中を打ち付けて止まった。ガードした腕が痺れていた。
 とてつもない身体能力だった。その力は、ほとんどスサノヲのそれに匹敵するか、あるいは凌駕さえしていた。
 カガチは闇の衣をまとっていた。それは上空のヨモツヒサメから還元された〝力〟でもあり、また彼自身が持つ鬼神の〝力〟でもあった。もはやそれらは融合し、分かちがたいほど緊密な結びつきを生じていた。一つの生命体であるかのようだ
 だが、その濃密な闇の中に、スサノヲはかつてクシナーダが視たのと同じものを視ていた。泣き叫ぶ子供の姿――。母のそばで号泣する男の子――。
 彼がカガチについて語ったのは、口から出まかせでもなければ、誰かから聞かされた情報でもなかった。カガチ自身から伝わってきたイメージだった。
 そしてその悲しみや憎しみ、あるいは強い悔悟、罪悪感、それこそが今のカガチを作っている大本だった。



 ふううう、とスサノヲは息をすべて吐き出し、全身をゆるめた。
「来い、カガチ。おまえの悲しみと憎しみ……。俺がすべて受けてやろう」




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