2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ プロローグ~放浪の神~


プロローグ



 石造りの都市は、夜でも活気にあふれていた。
 繁華街にはさまざまな商店が並び、人が集まってにぎわいを見せている。
 雑踏の中を旅の商人らしきいでたちの三人が、かき分けるように歩いていく。三人とも長い皮袋の荷を背負っている。背高い男二人に挟まれるようにしている小柄な人物は、フードを頭からすっぽりかぶっていた。
 フードの下の大きな黒い瞳には、この地方で屈指の都市のひとつであるスサの様子が、次々に映し出されていく。
 酒を酌み交わして笑い声を立てる市民。その中には都市国家の兵士たちもいる。そんな男たちがはやしたて、音楽に合わせて体をくねらせる踊り子たち。軒を連ねた商店から呼びかける物売りたち。香ばしい匂いを放ちながら焼ける子羊。
 繁華街を抜け、しばらくすると人通りが極端に少ないエリアに達した。そこは貧民街だった。一度壊されて瓦礫となった焼きレンガを積み上げ、上部を木の葉で覆っただけのような家もある。戦乱が相次いで破壊され、再建されることもなく放置されている区画だ。
 職にもありつけず、路上に座り込んでいる者。痩せこけ、腹部だけが不自然に膨らんだ子供の飛びだすような眼が三人を追いかけてくる。あたりには糞尿の匂いが立ち込め、蠅が無数に舞っている。
「ひどい……」
 フードの下の眼を思わずそらし、エステルは漏らした。すると、隣にいた弟、エフライムが疑いを抑えきれず、言った。
「姉上……本当にこのようなところに、かの方がいらっしゃるのでしょうか」
「ヤイルが傷を負ってまで得た情報です。信じましょう、エフライム」
 エステルは自分に言い聞かすように言った。
 このスサの探索と情報収集のためには時間もかけたが、多くの犠牲も払ったのだ。命を落とした者もいる。だからこそ、こんなところであきらめるわけには行かなかった。
「エステル様、エフライム様、あれを――」
 眼のいいモルデがいち早く見つけ、ある家に走りだした。彼の指が触れる門には、赤い血糊が塗られていた。子羊の血だ。
 期待と不安が、一挙に高まって来るのをエステルは感じた。
 三人は顔を見合わせ、ほとんど眼だけでうなずき合った。周囲を窺う。無気力なスラムの住人の姿があるが、自分たちが特別に警戒されている様子はなかった。
 エフライムが意を決したようにドアを叩いた。耳を澄ますと、ほとんど聞こえるかどうか、呻き声のようなものが室内から聞こえた。ドアを開くと、室内はほとんだ真っ暗だった。
 三人の姿は、その闇に呑まれるよう、建物の中に吸い込まれた。それを見届けると、それまで路上に座り込んでいた男が立ち上がった。痩せこけ、飢えた目をした男だった。三人が消えた家を注視しながら、繁華街のほうへ足早に去っていく。


 瓦礫でできたような家だったが、歩を進めると奥の部屋に老人が座っているのが見えた。ランプの光が弱々しく室内を照らし、老人の皺だらけの顔にさらに濃い陰影を作り出している。ぎろっと眼が動くことがなかったら、死んでいるのかと疑ったかもしれない。



「賢者メトシェラ様ですね」
 エフライムが緊張を漂わせる、かすれた声で言った。老人は否定をしないという形で、それを認める雰囲気を伝えてきた。
「われらは……」と、エフライムが続けようとしたとき、老人は手を挙げて、それを遮った。
「そなたらが来ることはわかっておった……。そなたらの目的も……行き場を探しておるのであろう」
 三人はその言葉に打たれたような感銘を受けた。エフライムは熱を浴びた調子で言った。
「いかにも。かの偉大な預言者、ダニエル様は何千年も先のことまで見通しておられたと聞きます。ならば、その叡智を受け継ぐあなた様は、きっとご存じのはず。我らに約束された、〝もう一つの土地〟のことを」
 メトシェラの顔にさらに深い皺が刻まれ、それは彼らに笑ったような印象を与えた。
「ダニエル様はすべてを見通しておられた。世の行く末、終わりの時……人がやがて星のかなたに旅立ち、出会う生き物と叡智……ダニエル様は、まこと神の如き目をもっておられた。わしが知ることなど、ダニエル様の何万の一にすぎぬ」
「なれど、我らが知りたいのは、そのような何千年も先のことではありませぬ。メトシェラ様、われらはこの命があるうちに、いや、せめて我らの子らの命があるうちに、神のお約束された〝もう一つの土地〟――エルツァレトにたどり着きたい。その場所をお教え願いたいのです」
 メトシェラはエフライムを見ていたが、やがてその視線を少し低いところへ移した。エステルの顔を、まっすぐに見つめてきた。エステルはフードを上げ、意志の強い、輝く瞳を持つ顔をさらして、メトシェラを見つめ返した。
「そなたは……?」
「王位継承者であるこのエフライムの姉、エステルにございます、賢者様」
 メトシェラは満足げにうなずいた。
「そなたらはたどり着くであろう。〝もう一つの土地〟に」
「ま、まことでございますか」
「それはどこに?!」
 エステルとエフライムは競うように声を発した。
「東に向かうが良い……」メトシェラは目を閉じた。「ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ」
「東……」
「そなたらは還るさだめ……」
「還る?」
 エステルは問い返したが、メトシェラは静かになった。
「そこに〝もう一つの土地〟があるのですね?!」
 勢い込むエフライムに、メトシェラが答えることはもうなかった。彼はすでに息をしていなかった。伝えるべきメッセージを伝えた瞬間、果たすべき役割を果たした瞬間に、天に召されてしまったと確信させるほどのタイミングだった。
「エフライム……」
 エステルは弟の二の腕に触れた。
「行きましょう……姉上」
 三人はその場を離れた。
 メトシェラの住まいを出てほどなく、彼らは異変に気付かされた。
 夜陰に混じって聞こえる甲冑の触れる音。そして、何よりも明瞭な殺気。
 繁華街へ取って返そうとする彼らの前に、槍を持った巨漢のシルエットが二つ、立ちふさがった。三人は足を止め、背後を窺った。が、背後もすでにふさがれていた。それどころか、左右の建物の陰からも、スサの兵士たちが次々に出現した。
「きさまら、カナンの民だな」
 槍をまっすぐに向けながら、前方の兵士が断定的に言った。
「ただの旅の者」エフライムが返す。「すぐに立ち去ります」
「ただの旅の者が、なにゆえにメトシェラを訪ねる? カナンの民ではあったが、メトシェラはそのたぐいまれなる知恵ゆえに、王より特別な計らいを受けていた預言者」
「……道をお尋ねしたまで」
「地獄への道か?」兵士の顔に凄惨な笑みが浮かんだ。「イナゴのように目障りな連中だ……殺せ!」
 いっせいに兵士たちは襲いかかってきた。三人は担いでいた荷の中から剣を抜き出し、応戦した。エフライムの剣はひときわ大きく、月明かりの中で異様な冴えた輝きを放った。それが振られると、空間に震動が走るような唸りが生じ、襲いかかってきた兵士を圧倒した。
 が、一人や二人ではない数だ。エステルはエフライムとモルデに守られるような状態で、やや小ぶりな剣をふるい、敵の強襲を辛くも払いのけ続けていたが……
「エステル様!」
 モルデが叫び、突きだしてきた兵士の槍を跳ね上げ、そのまま剣を相手の喉へ突き立てる。危ういところを助けられたエステルも、ひるんだ敵の一人の腿を斬りつけた。
 わずかに開けた活路を三人は駆け抜ける。しかし、敵兵は喚きながら追いかけてくる。繁華街の雑踏をかき分け、時には商店をめちゃくちゃにしながら、彼らは逃げた。
「あッ!?」
 エステルの体は、突如、宙に浮いていた。兵士に協力しようとした市民が、足を引っかけたのだった。前方に叩きつけられるように転がりながら、エステルの視野で城塞都市の風景がぐるぐる回った。
「姉上!」
 エフライムの叫びが鼓膜を震わせる。次の瞬間、エステルが見たのは盾となった弟が、凶刃に貫かれる瞬間だった。背中にまで抜けた剣が、再びすうっと姿を隠すのと同時に、彼の体はぐらっと揺れてゆっくりとエステルの前に倒れた。
「エフライム!」
 エステルは悲鳴のような声を上げ、弟に取りすがった。彼の胸から鮮血がとめどなくあふれていた。
 モルデも剣を弾かれ、同じ場所へ突き飛ばされる。
 兵士の一人が、エステルのフードをめくりあげ、言う。
「こいつ、女か」
「女は生かしておけ。後のお楽しみだ」
 嘲りに満ちた笑みが取り囲んだ。
 ――もはや、これまでか。
 エステルは他の者たちの意見に耳を貸さず、スサの街に入ったことを、心底後悔した。結局、弟たちの足を引っ張ってしまった……それどころか、弟は……
 ――神よ。お助け下さい。
 エステルは瀕死の弟を抱え、天を仰いだ。これほど真剣な願いを抱いたことなど一度もなかった。メトシェラは言った。彼らが約束の地へたどり着けると。

 ならばここで死ぬのは、絶対にありえない。

 焼けるような確信が、死の絶望と裏腹に立ち上がってきた。エステルは自分の胸元の衣服をつかんだ。その下にある宝珠と共に。
「神よ!!」
 エステルの叫びは、満天の星の海を駆けのぼった。


 光がひと筋。
 細い光が地上に立った。まるでそこにだけ、今はない太陽の光を集めたような、そんな強い光が地上に立ち、それがやがて広がって行った。その光は天まで届いた。
 唖然とする兵士たちから、どよめきが湧いた。

 神!?

 エステルは目を疑った。光の中に一人の男の姿が見えた。
 男は地にひざまずいていたが、ゆっくりと立ち上がった。
「貴様! こ、これはいったいなんだ!?」
 兵士の叫びはエステルに向けられたものだった。
「いったい、なにをやらかした。カナンの幻術か!?」
 光が薄くなっていった。現れた男は振り返った。
 エフライムにどことなく似た面差しだった。だが、心優しい弟に比べれば、その表情はあまりにも荒々しく、猛々しいものだった。
「うおおおっ!」
 見境をなくした兵士の一人が、男に斬りかかって行った。が、男が何をしたのか。兵士は振りかぶった剣を下ろす前に後方へふっとばされていた。
 男は開いた手を差し上げ、ゆっくりとそれを握る仕草をした。すると、男の掌には光の横筋が走り、それが握りしめられた瞬間には、光は剣となって、実体化していた。



 信じがたい出来事に、兵士たちはパニックに陥るとともに、理性を欠いた攻撃に出ようとした。
 爆発が生じたようだった。緩慢な時間感覚が訪れ、エステルは不思議にゆるやかになった光景を目の当たりにしていた。が、それはほんの二秒か三秒の出来事だった。
 襲いかかる兵士たちの剣は、あっけもなく折れた。男が持つ剣にとっては、枯れ木の枝に等しかった。剣を持つ腕、あるいは首、上半身と下半身が、ありえないほどの鋭利さで切り離され、魔の風が吹いたかのように一瞬で、その場から戦闘意欲を持つ者が消え去った。
 残されたわずかな兵士も、瞬時に変化したあたりの風景に怖気を立たせ、硬直していた。 賑わいを見せていた繁華街は静まり返り、直後、悲鳴と共に市民も残った兵士も逃げ出して行った。
 猛々しさを全身から発散させるその男の背に、エステルは問いかけた。
「あなたは……神の使い?」
「神?」
 振り返った男は、その言葉を初めて耳にするように考えていた。
「姉上……」
 エフライムが苦しげな声を上げた。今まさに弟が瀕死の重傷なのだという現実が、正気に返ったエステルを絶望させた。
「ああ、エフライム、エフライム……ごめんなさい。愚かなわたしを許して」
「いいのです、姉上……」エフライムは呻き、血を吐いた。「……そこなお方」
 男は近寄り、しゃがみこんだ。
「お名前は……?」
「名?」男は首をかしげた。「この世での名はない」
「では、わたくしがお名前を差し上げたい。名がなくては不便ゆえ」
「ふむ」
「このスサの地にちなみ、〝スサノヲ〟と」
「スサノヲ……気に入った」
「助けてくださって、ありがとう……。どうか……姉上たちを……やくそくの……」
「エフライム様!」モルデが詰め寄る。
 エフライムはまだ喋っていた。だが、もう声は出ていなかった。それを見て、エステルの双眸から決壊したように涙が溢れた。
「エフライム……! ああ、エフライム、しっかりして!」
 呼びかけても閉じられた目が開くことはなく、それから数秒、エフライムの唇は動き続けていたが、やがてそれも止まった。
 弟の名を呼ぶエステルの叫びは、城塞都市の上空、蒼く澄んだ星空に吸い込まれていった。


「行くのか?」
 エステルは、男――スサノヲの背に問いかけた。
 翌朝、スサの街から離れた丘陵地に、彼らはいた。
「われらと共に約束の地へ行きませぬか」
 そのように言うモルデの態度には、スサノヲに対しての畏敬の念が込められていた。
「俺は誰とも約束などしていない」スサノヲは言った。「あんたらが、その約束の地へ行きたいように、俺には俺で、行きたいところがある」
「そうか。残念だ」と、エステル。
「この世界は……」そう言いかけ、スサノヲはふんと笑った。「なんとも脆く、はかない世界だな」
「どういう意味だ」
「命はすぐに絶える。形あるものは消える」
 スサノヲは足で乾いた大地に転がる石を踏んだ。石はいくつにも割れ、砕けた。
「ネの国とはこのようなものか」
「ネ?」
 スサノヲの言葉は謎めいていた。
「俺はこのネの国の片隅にある国に向かう。それが俺のもともとの願いだったが……」スサノヲは振り返った。「俺をこのネの国に呼び寄せたのは、あんたの力のようだ。それは礼を言う」
「それはこちらのほうだ。わたしたちこそ、命を救ってもらい、弟の弔いにまで手を貸してもらって……」
「ありがとうございます」と、モルデも同様に言った。
「では……」
 スサノヲは歩き出した。
 エステルとモルデは、それを見送っていた。彼が朝日の昇るほうへ向かっていくのを。

 その頭上には大きな鳥が一羽、舞っていた。




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