2015年7月2日木曜日

ヤオヨロズ プロローグ~放浪の神~


プロローグ



 石造りの都市は、夜でも活気にあふれていた。
 繁華街にはさまざまな商店が並び、人が集まってにぎわいを見せている。
 雑踏の中を旅の商人らしきいでたちの三人が、かき分けるように歩いていく。三人とも長い皮袋の荷を背負っている。背高い男二人に挟まれるようにしている小柄な人物は、フードを頭からすっぽりかぶっていた。
 フードの下の大きな黒い瞳には、この地方で屈指の都市のひとつであるスサの様子が、次々に映し出されていく。
 酒を酌み交わして笑い声を立てる市民。その中には都市国家の兵士たちもいる。そんな男たちがはやしたて、音楽に合わせて体をくねらせる踊り子たち。軒を連ねた商店から呼びかける物売りたち。香ばしい匂いを放ちながら焼ける子羊。
 繁華街を抜け、しばらくすると人通りが極端に少ないエリアに達した。そこは貧民街だった。一度壊されて瓦礫となった焼きレンガを積み上げ、上部を木の葉で覆っただけのような家もある。戦乱が相次いで破壊され、再建されることもなく放置されている区画だ。
 職にもありつけず、路上に座り込んでいる者。痩せこけ、腹部だけが不自然に膨らんだ子供の飛びだすような眼が三人を追いかけてくる。あたりには糞尿の匂いが立ち込め、蠅が無数に舞っている。
「ひどい……」
 フードの下の眼を思わずそらし、エステルは漏らした。すると、隣にいた弟、エフライムが疑いを抑えきれず、言った。
「姉上……本当にこのようなところに、かの方がいらっしゃるのでしょうか」
「ヤイルが傷を負ってまで得た情報です。信じましょう、エフライム」
 エステルは自分に言い聞かすように言った。
 このスサの探索と情報収集のためには時間もかけたが、多くの犠牲も払ったのだ。命を落とした者もいる。だからこそ、こんなところであきらめるわけには行かなかった。
「エステル様、エフライム様、あれを――」
 眼のいいモルデがいち早く見つけ、ある家に走りだした。彼の指が触れる門には、赤い血糊が塗られていた。子羊の血だ。
 期待と不安が、一挙に高まって来るのをエステルは感じた。
 三人は顔を見合わせ、ほとんど眼だけでうなずき合った。周囲を窺う。無気力なスラムの住人の姿があるが、自分たちが特別に警戒されている様子はなかった。
 エフライムが意を決したようにドアを叩いた。耳を澄ますと、ほとんど聞こえるかどうか、呻き声のようなものが室内から聞こえた。ドアを開くと、室内はほとんだ真っ暗だった。
 三人の姿は、その闇に呑まれるよう、建物の中に吸い込まれた。それを見届けると、それまで路上に座り込んでいた男が立ち上がった。痩せこけ、飢えた目をした男だった。三人が消えた家を注視しながら、繁華街のほうへ足早に去っていく。


 瓦礫でできたような家だったが、歩を進めると奥の部屋に老人が座っているのが見えた。ランプの光が弱々しく室内を照らし、老人の皺だらけの顔にさらに濃い陰影を作り出している。ぎろっと眼が動くことがなかったら、死んでいるのかと疑ったかもしれない。



「賢者メトシェラ様ですね」
 エフライムが緊張を漂わせる、かすれた声で言った。老人は否定をしないという形で、それを認める雰囲気を伝えてきた。
「われらは……」と、エフライムが続けようとしたとき、老人は手を挙げて、それを遮った。
「そなたらが来ることはわかっておった……。そなたらの目的も……行き場を探しておるのであろう」
 三人はその言葉に打たれたような感銘を受けた。エフライムは熱を浴びた調子で言った。
「いかにも。かの偉大な預言者、ダニエル様は何千年も先のことまで見通しておられたと聞きます。ならば、その叡智を受け継ぐあなた様は、きっとご存じのはず。我らに約束された、〝もう一つの土地〟のことを」
 メトシェラの顔にさらに深い皺が刻まれ、それは彼らに笑ったような印象を与えた。
「ダニエル様はすべてを見通しておられた。世の行く末、終わりの時……人がやがて星のかなたに旅立ち、出会う生き物と叡智……ダニエル様は、まこと神の如き目をもっておられた。わしが知ることなど、ダニエル様の何万の一にすぎぬ」
「なれど、我らが知りたいのは、そのような何千年も先のことではありませぬ。メトシェラ様、われらはこの命があるうちに、いや、せめて我らの子らの命があるうちに、神のお約束された〝もう一つの土地〟――エルツァレトにたどり着きたい。その場所をお教え願いたいのです」
 メトシェラはエフライムを見ていたが、やがてその視線を少し低いところへ移した。エステルの顔を、まっすぐに見つめてきた。エステルはフードを上げ、意志の強い、輝く瞳を持つ顔をさらして、メトシェラを見つめ返した。
「そなたは……?」
「王位継承者であるこのエフライムの姉、エステルにございます、賢者様」
 メトシェラは満足げにうなずいた。
「そなたらはたどり着くであろう。〝もう一つの土地〟に」
「ま、まことでございますか」
「それはどこに?!」
 エステルとエフライムは競うように声を発した。
「東に向かうが良い……」メトシェラは目を閉じた。「ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ」
「東……」
「そなたらは還るさだめ……」
「還る?」
 エステルは問い返したが、メトシェラは静かになった。
「そこに〝もう一つの土地〟があるのですね?!」
 勢い込むエフライムに、メトシェラが答えることはもうなかった。彼はすでに息をしていなかった。伝えるべきメッセージを伝えた瞬間、果たすべき役割を果たした瞬間に、天に召されてしまったと確信させるほどのタイミングだった。
「エフライム……」
 エステルは弟の二の腕に触れた。
「行きましょう……姉上」
 三人はその場を離れた。
 メトシェラの住まいを出てほどなく、彼らは異変に気付かされた。
 夜陰に混じって聞こえる甲冑の触れる音。そして、何よりも明瞭な殺気。
 繁華街へ取って返そうとする彼らの前に、槍を持った巨漢のシルエットが二つ、立ちふさがった。三人は足を止め、背後を窺った。が、背後もすでにふさがれていた。それどころか、左右の建物の陰からも、スサの兵士たちが次々に出現した。
「きさまら、カナンの民だな」
 槍をまっすぐに向けながら、前方の兵士が断定的に言った。
「ただの旅の者」エフライムが返す。「すぐに立ち去ります」
「ただの旅の者が、なにゆえにメトシェラを訪ねる? カナンの民ではあったが、メトシェラはそのたぐいまれなる知恵ゆえに、王より特別な計らいを受けていた預言者」
「……道をお尋ねしたまで」
「地獄への道か?」兵士の顔に凄惨な笑みが浮かんだ。「イナゴのように目障りな連中だ……殺せ!」
 いっせいに兵士たちは襲いかかってきた。三人は担いでいた荷の中から剣を抜き出し、応戦した。エフライムの剣はひときわ大きく、月明かりの中で異様な冴えた輝きを放った。それが振られると、空間に震動が走るような唸りが生じ、襲いかかってきた兵士を圧倒した。
 が、一人や二人ではない数だ。エステルはエフライムとモルデに守られるような状態で、やや小ぶりな剣をふるい、敵の強襲を辛くも払いのけ続けていたが……
「エステル様!」
 モルデが叫び、突きだしてきた兵士の槍を跳ね上げ、そのまま剣を相手の喉へ突き立てる。危ういところを助けられたエステルも、ひるんだ敵の一人の腿を斬りつけた。
 わずかに開けた活路を三人は駆け抜ける。しかし、敵兵は喚きながら追いかけてくる。繁華街の雑踏をかき分け、時には商店をめちゃくちゃにしながら、彼らは逃げた。
「あッ!?」
 エステルの体は、突如、宙に浮いていた。兵士に協力しようとした市民が、足を引っかけたのだった。前方に叩きつけられるように転がりながら、エステルの視野で城塞都市の風景がぐるぐる回った。
「姉上!」
 エフライムの叫びが鼓膜を震わせる。次の瞬間、エステルが見たのは盾となった弟が、凶刃に貫かれる瞬間だった。背中にまで抜けた剣が、再びすうっと姿を隠すのと同時に、彼の体はぐらっと揺れてゆっくりとエステルの前に倒れた。
「エフライム!」
 エステルは悲鳴のような声を上げ、弟に取りすがった。彼の胸から鮮血がとめどなくあふれていた。
 モルデも剣を弾かれ、同じ場所へ突き飛ばされる。
 兵士の一人が、エステルのフードをめくりあげ、言う。
「こいつ、女か」
「女は生かしておけ。後のお楽しみだ」
 嘲りに満ちた笑みが取り囲んだ。
 ――もはや、これまでか。
 エステルは他の者たちの意見に耳を貸さず、スサの街に入ったことを、心底後悔した。結局、弟たちの足を引っ張ってしまった……それどころか、弟は……
 ――神よ。お助け下さい。
 エステルは瀕死の弟を抱え、天を仰いだ。これほど真剣な願いを抱いたことなど一度もなかった。メトシェラは言った。彼らが約束の地へたどり着けると。

 ならばここで死ぬのは、絶対にありえない。

 焼けるような確信が、死の絶望と裏腹に立ち上がってきた。エステルは自分の胸元の衣服をつかんだ。その下にある宝珠と共に。
「神よ!!」
 エステルの叫びは、満天の星の海を駆けのぼった。


 光がひと筋。
 細い光が地上に立った。まるでそこにだけ、今はない太陽の光を集めたような、そんな強い光が地上に立ち、それがやがて広がって行った。その光は天まで届いた。
 唖然とする兵士たちから、どよめきが湧いた。

 神!?

 エステルは目を疑った。光の中に一人の男の姿が見えた。
 男は地にひざまずいていたが、ゆっくりと立ち上がった。
「貴様! こ、これはいったいなんだ!?」
 兵士の叫びはエステルに向けられたものだった。
「いったい、なにをやらかした。カナンの幻術か!?」
 光が薄くなっていった。現れた男は振り返った。
 エフライムにどことなく似た面差しだった。だが、心優しい弟に比べれば、その表情はあまりにも荒々しく、猛々しいものだった。
「うおおおっ!」
 見境をなくした兵士の一人が、男に斬りかかって行った。が、男が何をしたのか。兵士は振りかぶった剣を下ろす前に後方へふっとばされていた。
 男は開いた手を差し上げ、ゆっくりとそれを握る仕草をした。すると、男の掌には光の横筋が走り、それが握りしめられた瞬間には、光は剣となって、実体化していた。



 信じがたい出来事に、兵士たちはパニックに陥るとともに、理性を欠いた攻撃に出ようとした。
 爆発が生じたようだった。緩慢な時間感覚が訪れ、エステルは不思議にゆるやかになった光景を目の当たりにしていた。が、それはほんの二秒か三秒の出来事だった。
 襲いかかる兵士たちの剣は、あっけもなく折れた。男が持つ剣にとっては、枯れ木の枝に等しかった。剣を持つ腕、あるいは首、上半身と下半身が、ありえないほどの鋭利さで切り離され、魔の風が吹いたかのように一瞬で、その場から戦闘意欲を持つ者が消え去った。
 残されたわずかな兵士も、瞬時に変化したあたりの風景に怖気を立たせ、硬直していた。 賑わいを見せていた繁華街は静まり返り、直後、悲鳴と共に市民も残った兵士も逃げ出して行った。
 猛々しさを全身から発散させるその男の背に、エステルは問いかけた。
「あなたは……神の使い?」
「神?」
 振り返った男は、その言葉を初めて耳にするように考えていた。
「姉上……」
 エフライムが苦しげな声を上げた。今まさに弟が瀕死の重傷なのだという現実が、正気に返ったエステルを絶望させた。
「ああ、エフライム、エフライム……ごめんなさい。愚かなわたしを許して」
「いいのです、姉上……」エフライムは呻き、血を吐いた。「……そこなお方」
 男は近寄り、しゃがみこんだ。
「お名前は……?」
「名?」男は首をかしげた。「この世での名はない」
「では、わたくしがお名前を差し上げたい。名がなくては不便ゆえ」
「ふむ」
「このスサの地にちなみ、〝スサノヲ〟と」
「スサノヲ……気に入った」
「助けてくださって、ありがとう……。どうか……姉上たちを……やくそくの……」
「エフライム様!」モルデが詰め寄る。
 エフライムはまだ喋っていた。だが、もう声は出ていなかった。それを見て、エステルの双眸から決壊したように涙が溢れた。
「エフライム……! ああ、エフライム、しっかりして!」
 呼びかけても閉じられた目が開くことはなく、それから数秒、エフライムの唇は動き続けていたが、やがてそれも止まった。
 弟の名を呼ぶエステルの叫びは、城塞都市の上空、蒼く澄んだ星空に吸い込まれていった。


「行くのか?」
 エステルは、男――スサノヲの背に問いかけた。
 翌朝、スサの街から離れた丘陵地に、彼らはいた。
「われらと共に約束の地へ行きませぬか」
 そのように言うモルデの態度には、スサノヲに対しての畏敬の念が込められていた。
「俺は誰とも約束などしていない」スサノヲは言った。「あんたらが、その約束の地へ行きたいように、俺には俺で、行きたいところがある」
「そうか。残念だ」と、エステル。
「この世界は……」そう言いかけ、スサノヲはふんと笑った。「なんとも脆く、はかない世界だな」
「どういう意味だ」
「命はすぐに絶える。形あるものは消える」
 スサノヲは足で乾いた大地に転がる石を踏んだ。石はいくつにも割れ、砕けた。
「ネの国とはこのようなものか」
「ネ?」
 スサノヲの言葉は謎めいていた。
「俺はこのネの国の片隅にある国に向かう。それが俺のもともとの願いだったが……」スサノヲは振り返った。「俺をこのネの国に呼び寄せたのは、あんたの力のようだ。それは礼を言う」
「それはこちらのほうだ。わたしたちこそ、命を救ってもらい、弟の弔いにまで手を貸してもらって……」
「ありがとうございます」と、モルデも同様に言った。
「では……」
 スサノヲは歩き出した。
 エステルとモルデは、それを見送っていた。彼が朝日の昇るほうへ向かっていくのを。

 その頭上には大きな鳥が一羽、舞っていた。




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ヤオヨロズ第1章 ワの国


     1

 二年後――。
 エステルの姿は日本海を航行する船の甲板上にあった。潮風が彼女の髪をかき乱し続けている。同じように彼女の心はかつてなく高ぶっていた。
「いよいよですな、エステル様」と、ヤイルが隣で言った。
 屈強な中年の男だ。額から左眼にかけ、刀傷が生々しく残っているのは、スサの探索中に受けたものだった。むろん左眼は失明している。
 ああ、とエステルは低く応え、腰に帯びた剣の柄に左手を置いた。弟、エフライムが使っていた形見の剣だった。二人の視野には島国の青くかすんだ姿が、しだいに、しだいに大きくなりつつある。それとともに彼らの期待は否応なく高まり、胸のざわつきが抑えがたいほどだった。
「あれです。あれが目印です」カイが指差す。
 大きな島国の手前にちっぽけな島があった。
「おーい、もう少し東だ!」と、カイは位置を確認して叫ぶ。櫂を漕ぐ者たちが「おお」と言葉を返す。
 彼らが選んだのは、大陸の半島から近いツクシという島ではなく、東に横たわる大きな島国の北岸だった。その後もカイの誘導で、舟は刻一刻と目的地に近づいていく。
 やがて陸地で男が叫んでいるのが目に入った。モルデである。彼が満面の笑顔で手を振っていたが、潮風にかき消され、声は耳には届かなかった。
 船は川を遡上して行く。エステルはそれにつれて見えてくる島国の様子、それにしゃにむに船と一緒に駆けてくるモルデを見ていた。
「エステル様――!!」
 ようやくモルデの声が耳に届くようになる。周囲の眼を忘れ叫び返したい衝動を抑え、エステルは接岸を待った。
「兄さん!」
 船首まで出て行き、弟のカイが叫ぶ。モルデとは四つ下のカイは、また若干、少年っぽさをとどめる若者だった。
 船が接岸するとエステルは真っ先に下船し、桟橋を渡り、陸地を足で踏みしめた。
「エステル様――」モルデが前にひざまずく。
「モルデ、ご苦労」
 労をねぎらう以上のことも口にしたかったし、目もしっかりと合わせたかった。が、エステルはあえて歩みを止めなかった。港近くに小高い場所があり、そこからの景色を眺めたかった。
 ――それにしても、とエステルは思う。
 美しい。
 その想いは、丘の上に出ると、いっそう深いものになった。大陸の広大な風景とはまったく異なる。こぢんまりとはしているが、豊かで、何か神が作った小庭のような景観だ。周囲を取り囲む山々は、いずれも険しくなく、濃い緑に覆われていた。あまり目にしたこともないような鮮やかな赤や黄も山々を彩っている。入り江に流れ込む河川は清らかで、そしてその周辺には背を伸ばす植物たちが見える。

 葦だった。

 水中から何百何千もの細い茎が生え、風に揺られていた。
 葦の原がそこに広がっていた。


 しばし呆然と、エステルはその景色を眺めていた。
 自然と涙があふれ出た。
「エステル様……」そばに来ていたモルデが、遠慮がちな声を発した。
「カイから報告を聞いておる」エステルは流れ落ちる涙さえ意識せず言った。「葦の原と呼ばれる美しい国だと。このワの国は、葦の原の国だと」
「われらが祖国も、かつては葦の原……カヌ・ナーと呼ばれておりました」ヤイルが言った。
 そう。それが「カナン」という呼び名の由来だった。
「われらが探し求めていた〝もう一つの土地〟――もう一つのカナン」
 つぶやくエステルの脳裏に、ここへ至るまでのすべてがよぎって行った。侵略によって国が亡び、神殿も街も焼き払われ、男は殺され、女は犯され、そんな中を命からがら逃げ延び、弟エフライムを喪い、はるか長い大陸の道を、仲間を引き連れ、踏破してきたことを。
 荒涼とした土地を旅する中、多くの者が病で亡くなり、ある者たちは脱落してその土地に根付き、ある者は戦って死んだ。
 大陸の極東に至り、そこから先にもはや土地はないと知った時の絶望感。そして、東海に理想郷があるという、伝説のような話を聞いたときの、一縷(いちる)の望み。
 ホウライと呼ばれる伝説郷は、あくまでも伝説でしかなかった。しかし、情報を集めれば、海を東に渡ったところに、さらに国があることはたしかだった。
 ――ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ。
 メトシェラの言葉だけが、常に心の支えだった。このときもエステルは、藁(わら)をもつかむ心地で、最後の選択に賭けた。
 東海にあるというワの国。そこにもっとも近接した半島までたどり着くと、エステルはモルデとカイの兄弟を核とした先発隊を放った。そして、数日前にカイが戻ってきて報告したのだった。
「ワの国は、葦原の国とも呼ばれております。本当に葦の原が広がる美しい国にございます!」
 今、エステルは自分の眼でその言葉を映像として確認していた。
 感極まってエステルは、弟エフライムの剣を抜いた。そして、足元に深々と突き立てた。振り返る。そこにはモルデら先発隊、そしてたった今下船してきたばかりの大勢の仲間、カナンの民が集まっていた。
「皆の者、よく聞け!」エステルの号令は、全員の肺腑(はいふ)を震わせるものだった。「我らはこの地に、新しいカナンの国を打ち建てる! ここ以外に〝もう一つの土地〟はあり得ぬ。いや、こここそが神のお約束された、もう一つのカナンの地なのだ!!」
 一瞬、間があった。それはエステルの信念が波動となって、全員の心にしみわたる空白だった。しかし、その後、彼らの心から噴き上がってくる熱はすさまじいものだった。
 ――おお!!
 エステルの宣言に応え、彼らは一つの生き物のように声を発した。
「まずはこの地に前線基地を築く! 半島に残してきている仲間を呼び寄せ、ここを拠点に勢力を広げ、やがてこの島国すべてを、我らの支配するところのものとするのだ!」
 再び、おお! という声が上がった。
「さあ、家を作れ!」参謀格のヤイルが命じる。「食べ物も獲ってこい! 今宵は宴ぞ!」
 ヤイルは民を集め、指示を与えはじめた。カナンの民たちは、精気に満ち溢れていた。一人残らず、喜びと希望で眼を輝かせている。役割を与えられた者は、嬉々として駆け出していく。
「エステル様、こちらへ」と、モルデが言った。
 彼は丘陵地の隅に小屋をすでにいくつか作っていた。木造で、屋根は茅で葺(ふ)かれていた。珍しげにエステルは観察しながら中へ入った。切り株を加工した椅子が用意されていたので、そこへ腰かける。
「このワの国では、皆、このような家を作るようです」モルデが解説しながら、エステルの前に座る。「この国は木が豊富です」
「火で攻められたら、ひとたまりもない」と、苦笑する。
「ワの民は、あらゆるところに木を使っています。ああ……ですが」モルデは慌てたように付け加える。「城を築くのなら、考えねばならないでしょう」
「モルデ……」エステルは目を細めた。
 これ以上、待つことは二人ともできなかった。互いに手を差し伸べ、指を絡めた。
「エステル様……」
 二人は自然と顔を近づけ、口づけを交わした。離れていた分だけ、それを埋め合わせるような激しいものだった。
「お前がここへ来ていた間、ずっと神に祈っていた……。お前の無事を」
「私もエステル様が無事にここへ来られることを祈っておりました」
「ワの国のこと、よく調べてくれた」
 二人は顔を寄せ合い、囁くように言葉を交わした。
「私はここへ来て、確信しました。豊かな水の流れる葦原の国。こここそが、我らが探し求めていた土地だと。ただ……」
「ただ?」
「この国の民たちは、あまりにも私たちと違います」
 うっとりとしていたエステルの眼は、それで理性的になった。
「違う、とは」
「この国には、我らが信奉する唯一の神はおわしません」
「それは……」エステルは眉を上げた。「どこでもそうだったではないか。我らと同じような、崇高なる唯一の神を崇める民は、この地上のどこにもいなかった」
「ええ。この国の民も多くの神々を崇めています」モルデは立ち上がり、木造の小屋の中から外を見た。「木の神、山の神、火の神、川の神、太陽の神、月の神……。ですが、どこか、違うような気がするのです」
「違う? 他の国々の、多神を崇める者どもと、どう違うというのだ」
 モルデは言葉を探し、「いや」と首をひねった。「よくはわからないのですが、そんな気がするのです。気にしないでください」
「いずれにせよ、有象無象(うぞうむぞう)の神々など信奉する民には、救いもなければ叡智もない。我らがこのワの国を平定してしまえば、それで良い。聞けば、このワの国にはろくな集権国家もないという話ではないか」
「いや、そのことなのですが……」
 モルデが言いかけたとき、ヤイルとカイが二人そろって小屋にやって来た。人の割り振りが終わったのであろう。
「良い土地だ」と、ヤイルが満足げに言った。「まさに神が、我らのために残してくださった、格別の土地。開墾すれば、良い作物が実るだろう」
「次の便で、馬も運びましょう」と、カイ。
「ちょうどよかった。ヤイルも聞いてくれ。カイもだ」
 真剣な表情のモルデに、楽しい雑談をしている雰囲気ではなくなった。
「じつは、カイをカラ国へ送り返した後、この近くで戦があった」
「えッ?」と、カイは目を丸くした。「兄さん、このワの国にはろくな国はないとかいう話だったじゃないか」
「そうだ」ヤイルも言った。「半島からの玄関口のナの国というのは、古くからの強国だが、それ以外はいずれもちっぽけな村々だと」
「違ったんだ。ここは大陸で聞いたような理想郷ではない。それどころか、我らと同じように大陸から渡ってきた勢力が、バラバラに小さな国を作り、争っている」
「うかうかしておれんということだな」と、エステル。
「はい。中でも東にある〝オロチ〟という国が大きな脅威です」
「オロチ?」
「その国ではクロガネを自国で生産しているようです。もちろん剣も持っています。これをご覧ください」
 モルデは小屋の片隅に立てかけていた剣をエステルに手渡した。彼女は食い入るようにそれを見つめ、柄の握りや刃の鋭さを確かめていた。
「殺された兵が持っていたものです。むろん、我らが所持する剣ほどの強度はなく、切れ味も劣ります。しかし、クロガネを量産できるだけの技術も持っているとなると、これは侮れません」
 彼らカナンの民が拠ったのは、ナの国よりも東にはずれた地域だった。情報収集をし、要らぬ争いを避けるため、力を持つ国から離れた場所に拠点を置こうとしたのだ。しかし、東にも脅威はあったのだ。
「国造りを急がねばなりませんな」ヤイルが言った。「いかような事態にも備えらえるよう」
「……いや」
 エステルは宙を見据えていた。彼女のつぶらな、非常に強い瞳は、ある種のカリスマ性を備えていた。でなければ、男性優位の父系社会のカナンの民の中で、リーダーになることなど、決してかなわなかったろう。
「それでは遅いかもしれん」
「遅いと言われますと?」
「ヤイル、ここまでの旅で我らが幾度、苦い思いをしてきたか、思い出せ。こちらの態勢が整うのを待っていては、この約束の土地を追い出されてしまうかもしれん。我らにはもう、ここよりほかに行く場所はないのだ」
「いかがなされます」
「先手必勝。時間をかけて国造りをする必要などない。すでにあるものを奪えばいいのだ。モルデ、カイ」
 二人の兄弟は、はい、とエステルの前にひざまずいた。
「明日から周辺の探索をしてくれ。まずは、この周辺のどこか、手ごろな小さな国を奪う」


 夜が訪れていた。月明かりが差し込み、虫の鳴き声が耳触り良く、響いている。
 こんな静かな心地よい夜を、エステルはここ何年も迎えたことはなかった。それは隣にモルデがいて、肌の暖かさを感じさせてくれているということがあるにしてもだった。
 その安堵感は、これまでどのような土地にいても味わったことのない、満ち足りたものだった。エステルは確信を深めた。こここそが、約束の地だと……。
 胸の上にあるペンダントの宝珠を無意識に握りしめた。
「……不思議な形だ」耳元でモルデが囁いた。
 彼はエステルの指をほどけさせ、宝珠を掌に載せた。
「なぜ、このような曲がった形をしているのかな」
 エステルは彼のたくましい肩に手をまわしながら言った。「父から聞いたことがある」
「エリエゼル王が? なんと?」
 臥所(ふしど)を共にするときだけは、彼らの間から主従の関係は薄れたが、それでもモルデの態度からエステルへの畏敬が消えることは決してなかった。それがエステルには、少しばかり悲しいことだった。
「この宝珠は、失われた王国の神殿にあったもの。言い伝えによれば、神(ヤー)を象(かたど)ったものだと」
「y(ヤー)を? それで、このような形を? おかしいな」
「なぜ?」
「いや、だって……神は我らを自らに似せてお作りになったはず」
「ああ……そうね」
「だったら、私たちもこの形だということになる」
「似てない?」
「似てない」
 二人はクスクス笑い、キスをし合った。そして、再び睦み合った。
 エステルはやがて眠りについた。モルデのそばで、胎児のような姿勢になって。
 それは宝珠の形に似ていた。


     2

 美しい山野を清流が駆け下ってきている。深い緑の中に、黄色や赤の鮮やかな色彩が、ぽつぽつと生まれ、そして山自体がみるみる大きな一輪の花のように色づいていく。
 秋という季節の変化を、クシナーダはうっとりと見ていた。自然は愛に満ちていて、そして大小さまざまな「意識」に満ちていた。花の意識、樹木の意識、石の意識、川の意識、水の意識、山の意識、そして空の意識……。
 その中をクシナーダは全裸で駆けていく。
 生まれたままの姿で、そのすべての意識を感じながら。
 この世界に充満している喜びの波長。それを目や鼻や耳や、皮膚を通じて、体中で感じられることが、また深い喜びを湧き上がらせるのだった。そして彼女の口からは、喜びの歌が自然とあふれ出る。
 すべては美しく、すべては調和している。
 が、不穏な気配が彼女の足を止めさせた。と同時に、川は真っ赤に染まった。
 川のほとりから、草木が枯れて行った。
 愕然としてクシナーダは悟った。
 これはいつも見る夢だと。もう何年も前から繰り返し繰り返し見続けている夢の中に、また彼女は迷い込んでいた。
 川を赤く染めるのは、鉄穴(かんな)流しによる汚れた土砂だった。その赤い色はますます色を濃くし、やがては血のような真っ赤な色合いに変化した。
 川底から何かが首をもたげてくる。
 クシナーダは悲鳴を上げた。巨大な蛇がどろどろの真っ赤な血にまみれて現れたのだった。口を開き、牙と舌を見せつけ、シャー、と空気を毒々しく震わせる。
 立ちすくむクシナーダの周囲に、一つ、また一つと大蛇(おろち)の首が出現する。川の中から、あるいは地面を割って、あるいは山野を越えて。
 八つの首は威嚇しながら、クシナーダのほうへ迫ってきた。逃げなければ! だが、足が動かない。なんとか踵を返すが、体重が何倍にもなってしまったように、思い通りに動かすことができない。大蛇たちはぐるぐる回り込んできて、彼女を包囲した。
 夢だ、これはいつもの夢だ、とクシナーダは自分に言い聞かせた。恐れることはない。夢はここでいつも覚める――。
 クシナーダは慄然とした。夢は覚めなかったのだ。
 大蛇らはいよいよ獲物にありつける喜悦に踊るように、みるみるクシナーダへの包囲を狭めてきた。蛇の割れた舌先が彼女の身体を、ゾッとする感触で舐める。
 ひときわ大きな頭部が眼前に迫ってきた。真っ赤な眼が冷酷さの中にも、残虐な歓喜を映し出し、輝いている。牙がむき出され、口が彼女をひと呑みにしようと、裂けるほどに大きく開かれた。
 夢の中でありながら、クシナーダは死を覚悟した。
 が、大蛇たちは彼女を呑み込めなかった。
 雷が幾筋も走り、視野は一瞬、真っ白になった。と、ものすごい突風のようなものが渦を巻き、あたりの景色を一変させた。大蛇はいなくなっていたが、暗い空に竜巻が立ち上がっている。
 竜巻は虹色になった。
 虹が竜巻になっているのだった。恐ろしくも荘厳な景色だった。


「!」
 クシナーダは勢いよく跳ね起き、目覚めた。心臓が胸の中で、暴れ狂っているのを感じた。
 ――なんだろう。
 彼女は自分の胸を押さえた。怖い夢を見れば、どきどきするのは当たり前だ。しかし、それだけではなかった。怖いだけではない、なにか体の芯から震える、期待のようなものがあった。
 臥所(ふしど)を抜け出し、クシナーダはそっと家の外へ出た。
 黎明のまだ薄い光が、そっと包み込むように村を満たしていた。何もかもが青白くかすんでいる。昨夜の激しい風雨の名残が、湿った土とびしょ濡れのまま枝を下げている樹木の姿に感じられた。風が吹くと、ざーっと水滴が無数に落ちてくる。
 茅葺の家屋の間を抜けていくと、彼女はそこに杖をついて佇む古老を見つけた。
「アシナヅチ様」と、声をかける。
 里の首長であるアシナヅチは、それでもしばし、反応を示さなかった。耳が遠いのではない。アシナヅチにはよくあることだった。心をどこかに飛ばしていると、戻って来るのに時間がかかる。
「……クシナーダか」
 ややあって、アシナヅチは言い、わずかに振り返った。クシナーダはアシナヅチのそばで、膝を折り、低い姿勢を取った。
「おはようございます」
「おはよう。こんなに朝早くから、いかがした?」
「夢を見ました……」
「またいつもの夢か」
「はい。あ、いえ……少し違っておりました。大蛇に食われるかと思いましたが、虹が大竜巻となって現れました」
「虹が?」
 アシナヅチは口のまわりと顎を覆っている長い白髭をしごいた。考え事をするときの彼の癖だった。
「あれを見よ」と、アシナヅチは東の空に向けて、杖を指し上げた。
 激しい雷雨だった昨夜と異なり、空はすっかり晴れていた。まだ太陽は稜線の下にあり、空がほの明るくなっているだけだ。その上空でひときわ輝くのは、明けの明星だった。しかし、見慣れぬ星がそのそばに、勝るとも劣らぬ輝きを放っていた。
 クシナーダは驚いた。明けの明星が金星であるということは知っていた。太陽の比較的近くを公転する金星は、夜明け、あるいは日没時に、そのそばに必ず位置しており、非常に大きな輝きを放つ。しかし、その金星以上に輝きを放つ星など、見たことがなかった。
「アシナヅチ様……あれは」
「天津甕星(あまつみかほし)……」
「みかほし?」




「あの星はわしの眼には、一昨年(おととし)から見えておった。次第に輝きを増してはおったが、ついに肉眼でもあのように輝きを放つようになった」
「なんの兆(きざ)しでしょうか」
「甕星は天に仇(あだ)なす凶星。おそらく、そなたが見た虹の竜巻と同じものであろう」
 クシナーダは魅入られたように、甕星の凛とした輝きを見つめていた。まるで魂が吸い込まれるような心地がした。自分がその星へ引っ張られているのか、それとも自分がその星を引き寄せているか、空間の感覚がまったく消えてなくなっていた。
 その光は一瞬にしてクシナーダの視野いっぱいに広がり、包み込んできた。
 刃物のような、厳しい光だった。しかし、なぜかクシナーダはその光に身をゆだねることができた。自分が拒絶することもなく、また光によって傷つけられることもなく。
 光の中でクシナーダは、広大な宇宙空間を視ていた。



 宇宙は圧倒的な光芒に満ちていた。宇宙空間は闇などではない。すべてのもの生み出す創造の力に満たされた、母なる海だった。輝きを放つ無数の恒星、あるいは星雲の数々は、その海に育まれた命の輝きそのものであり、すべてが喜びを放ち、そのヒビキが絡み合い、手を取り合い、巡り合い、回りながら、壮大な交響曲を奏でていた。
 初めて見る光景ではない。アシナヅチの導きを受け、クシナーダは幾度もこの体験をしていた。だから、自分たちが暮らす地上が平坦な大地などではなく、球体をした青く美しい星であることも知っていた。
 ――なんという麗しい星だ。
 想いが湧きあがる。
 と、同時に戸惑う。今のは自分の想い?
 ――お母さん。
 激しい恋にも似た思いが募ってくる。いや、十五のクシナーダはこの時代の娘としてはかなり奥手で、まだ恋慕の情さえ経験したことがなかったはずだった。それもそのはず、巫女として特別な教育を受けてきた彼女は、ある意味で一般的な男性への恋愛感情をはるかに凌駕するものを、すでに得ていた。それは大自然への深い敬意であり、同時に大自然との交感の中でしか得られない、特別な悦びだった。
 ――お母さん。
 その想いは、今、クシナーダが一体化している甕星の意識が発しているものだった。
 あまりにも〝個人的〟で、あまりにも原初的な、熾烈な恋慕の情の塊に触れ、クシナーダは全身がしびれる心地がした。生々しく、だからこそ、力にあふれた波動だった。
 光はクシナーダを包み込んだまま、青い地球へ到達した。その瞬間にクシナーダは二つのことを同時に味わった、
 それは光と一体化した自分が地球そのものになったこと。
 もう一つは地球そのものになった自分が、その光を受け入れたことだった。
 その衝撃は、これまでのどのような自然との交感よりも鮮烈で、自分のすべてを燃焼させるほどの狂おしい火が体の芯から突きあがってきた。
 そこでクシナーダは、現実に返った。垂れ下がるような長い眉毛の下からアシナヅチの眼が見つめているのに気づき、少なからず狼狽する。
「甕星のヒビキに共鳴したか」
 クシナーダはうなずいた。そのとき風が吹いた。
 ――ハハハ。
 その風に紛れて、女の笑い声が聴こえた。二人が驚いて見まわすと、桜の大樹の枝に腰かけた女の姿が頭上にあった。鮮やかな青と緋に彩られた衣をまとった、若い女だった。満面の笑みを浮かべ、口の端が釣り針でひっかけられたように、にっと曲線を描いている。
「そなたは……」と、アシナヅチが数歩、歩み寄る。
「ウズメ様……」
 クシナーダは畏敬の念に打たれながら、アシナヅチにしたような礼の姿勢を再び取った。
「時が来たのさ」
 耳というよりも、胸を貫いて刺してくるようなヒビキの声だった。いったいどこから発声しているのかと疑いたくなるような、ありえない明るさと強さを持っていた。



「甕星はやって来るよ!」
「甕星とは何者?」と、アシナヅチ。
「すぐわかる」
 そう言って、ウズメはまた笑った。顔だけではなく、声をあげて笑った。おかしくて仕方ないように。
「――ていうか、あんた、知ってるし」と、クシナーダを指差す。
「え? わたくしが?」
「そう、知ってる」
 そう言い放ち、ウズメは木の枝の上で、すくっと立ち上がった。まるで体重がないような動きだった。
「楽しい♪ 嬉しい♪」
 ざっと木の枝を揺らして鳴らして、つむじ風が通り抜けた。ざーっと振り落されてきた水滴に思わず目をつぶった二人が、再び瞼を開くまでのその一瞬に、ウズメの姿は消えていた。
「アシナヅチ様……」
 クシナーダは戸惑いながら、古老を振り返った。もちろん何がしかの答えを求めてのことだった。だが、アシナヅチは沈黙を守ったままだった。彼自身、はっきりとした言葉を持たないようだった。


 冷たい水と砂の感触が、意識が戻るとすぐに感じられた。視野を小蟹が横ばいしていく。
 スサノヲはかすかに呻き、起き上がった。ずぶ濡れた衣類が重かった。砂を払い落しながら、立ち上がる。
 波が勢いよく寄せてきて、彼の足もとの砂をさらった。
 見渡せる限りの砂浜だった。砂浜に沿って、ずっと雑木林が続いている。
 ――ここは、どこだ。
 そして、なぜ自分がこんな場所にいるのか、記憶をたどった。
 彼は昨日、カラ国を出港する船に乗った。ナの国の商船だった。ナの国とは、ワの国の一部である。彼はそのワの国へ渡るために船に乗ったのだ。
 が、出港してしばらくして、天候が急変した。カラ国の珍品を満載した船は、荒れ狂う風雨の中で翻弄され、流され、そして――。
 ひときわ高い波に頭から呑まれたのが、スサノオの最後の記憶だった。
 船は難破したらしい。
 スサノヲは砂浜を歩き出した。どこだかわからないが、運よく彼は陸地に流されたようだった。
 また遠回りをしてしまったかと、臍(ほぞ)をかむ。
 カラ国に到達するまでも、相当に彷徨っている。大陸の中央を横断する商人の道があると聞いたのは後の話で、最初からその道を進んでいれば、数カ月は早くに到着できたはずだった。
 好奇心もあった。このネの世界のありようを知ろうと思い、気の向くままに歩き、出会う人やモノ、そして多くの国々を見ておこうとしたのだ。
 その旅の過程で、彼は知った。この世界の混沌と、はかなさを。
 争いのない国などなかった。一国の中でさえ、人は己の欲を満たすことに腐心し、他人を傷つけ、陥れること、場合によっては殺すことさえ平気だった。ましてや国と国は、より肥沃な土地や利便性の高い土地を巡って、常に戦争を行っていた。
 その一方で、もの静かに暮らす人々もいた。山野に溶け込むようにして、その日の生活を日の出と日没に合わせて生きる人々も。
 旅のスサノヲに親切に宿を提供してくれた者も、数えきれぬほどいた。
 しかし、善良な人々ほど、権力を持った抑圧者たちの被害者でもあった。その被害から逃れるためには、隠遁者となるしかなかった。
 ただ、どのような立場の人間にも確実に平等な出来事もあった。
 それは「死」が訪れるということだった。決して長くはない、はかない人生の繰り返し。
 本当に短い、ほんのわずかな時の栄華や幸福のため、人はこのネの世界を生きているのだった。
 スサノヲの眼から見れば、それは本当にはかなくもろい世界だった。
 ネの国。それは物質的な、有限の世界だった。そして、その中で呼吸をしている自分もまた……。
 少し歩くと先に岩場があった。そこへ上がると、どうやら山間(やまあい)に川があり、それに沿って道が続いているらしいのが確認できた。といっても、もちろんけもの道だ。
 とりあえず何がしかの集落でも、人のいる場所へ向かう必要があると、彼は判断した。
 そのとき彼は、視野の端に白いものを見た。
 岩と岩の間に挟まれるようにして、子供が横たわっていた。スサノヲは一段岩を飛び下り、子供のそばにしゃがみこんだ。年のころは六、七歳だろう。その顔と身なりに見覚えがあった。ナの国の商船で一緒だった子供だ。
 たしか親と一緒に乗り込んでいたはずだが……。
 周囲を見まわすが、他に打ち上げられた者はいないようだった。
 スサノヲは子供が息をしているのを確認した。

 はかない命。

 放っておいても、数十年で消滅する命。スサノヲは一度、それを捨て置こうと考え、その場を離れかけた。
 が、足を止めた。
 スサノヲは引き返してきて、その子供の胴に手をかけた。ひょいと軽々と抱き上げる。けもの道を歩き出した。
 そして、思った。
 ――腹が減った、と。


     3

 スサノヲはすぐに後悔するところとなった。まいったな、と何度目かの困惑を胸に感じる。
 子供を前に。
 その子は今、河原の岩の上で座り込んでいる。
 スサノヲはといえば、熾火の上で獲ってきた川魚を焼いている。自分が空腹だったということもあるが、子供に食わせなければならならなかった。
 人は脆く、食べなければ死んでしまう生き物だ。
 スサノヲ自身、この地上で飲まず食わずでいられた時間は長くない。自分がこの地上のものになったのだということを教えてくれたのは、喉の渇きや空腹だった。
 身体の機能を維持するために、水や他の生命――植物であろうが動物であろうが――を体内に取り込まねばらないというのは、おそろしく面倒な作業だった。しかし、避けられない。自分だけでもそうなのに、子供をしょい込んでしまった。
「ほら、焼けたぞ」
 スサノヲは熾火の上から、じりじりいっている火傷しそうな魚を取り出した。葉に乗せ、子供のいる岩の上に置く。しかし、子供は膝を抱え込んだままだった。



 人は脆い。
 肉体だけではなく、心までもが脆い。
 この脆い人間の、しかも子供を助けてしまった。ほんの気まぐれに過ぎない。カラ国を出港する前、両親のそばで無邪気に騒いでいた子供の顔を思い出し、憐れに思ったということもある。が、一度助けてしまうと、今はもっと重大な問題になってしまっていることに、スサノヲは気づいていた。
 それは、見放すことができない、ということだった。一度助けてしまったが最後、子供を安心のできる環境に届けてやるまで責任が生じてしまっていた。
 どこか集落を見つけたら、子供はそこで引き渡してしまえばよいと、最初は安直に考えていた。ところが大きな河川に沿って存在していたであろういくつかの集落は、戦乱の跡地となっていた。誰も生き残っておらず、飼い主を失った犬がうろついているだけだった。
 どこだかわからないが、この地も平穏ではないのだ。
 結果、スサノヲは随分と川を遡らなければならなかった。人は水のあるところで生活をする。どの国でもそれは基本的にある。どこか無事な集落を見つけるまでは、子供の面倒を見なければならない。
「食わねば歩けない。食わないなら置いていく」スサノヲは新しい魚を熾火の上から取り、熱々の身に噛り付いた。「お前の親は、もしかすると俺たちのように生きているかもしれない。ここがカラ国なのかワの国なのかわからないが……どうする? お前はこれを食って歩くか、それとも食わずに座っているか。どちらでも好きにするがいい」
 親が生きている可能性など、スサノヲは信じていなかった。が、今はこの子供を生かすことを考えなければならなかった。
 子供はゆっくりと手を伸ばし、魚に噛り付いた。
 それを見て、スサノヲは尋ねた。「お前、名前は?」
「……スクナ」
「俺はスサノヲという」
 スクナは黙って、魚を食べていた。
「お前、女の子だな」
 食べるのがちょっと止まった。男の子のような身なりをしていたが、海岸で担ぎ上げたときに、スサノヲは気づいていた。
「お父ちゃんが、そうしていろって……。男の子に見せていたほうが、連れて歩きやすいからって」
「男の子のほうが安全か。お前はもともとワの国の者なのだろう。お前の親はそうまでして、なぜカラ国へお前を連れて行った?」
 スクナは答えなかった。
「まあ、いい。答えたくなければな」
 スクナはスサノヲをおずおずと見た。「ここはワの国だよ」
「なぜ、そう言える」
 スクナは近くの茂みを指差した。葉がぎざぎざになっている小さな樹木があった。青い実をつけている。
「あの葉は、かぶれや火傷に効くの。あれはワの国にしかない。寒くなったら、実が赤くなる」
「ほう」スサノヲは感心した。「お前、物知りだな」
「お父ちゃんに教えてもらった……」
 そう言いながら、少女の目はまた赤くなってきた。両親の命が絶望的であることは、彼女が一番よく理解していただろう。
「ほらっ。もっと食え」
 スサノヲは魚を取ってやった。スクナは目をこすり、がつがつと食べた。悲しみがあっても生きようとする健気な意志が、その様子からうかがえた。二匹の魚を平らげると、少女は山の斜面から川のほうに突き出している一本の木を見上げた。
「あれ……採(と)れないかな」
 高い木の枝の先のほうに、何か果実のようなものが生っていた。ただ、その樹木の実ではなく、樹木に巻き付いている蔓性の植物のもののようだった。赤紫色の細長い果実がぱっくり割れているのが、いくつか群がるように生っている。
 木に登って、枝の先のほうまで行かないと採れそうになかったが、枝は細い。大人の体重にはとても耐えられそうにないし、飛びあがったところでとても届くような高さではない。
「無理かな」と、少女は遠慮がちに言う。
「あれ、うまいのか」
「おいしい」
「そうか」スサノヲは立ち上がり、果実の下まで行った。
 道具も何もなかった。スサノヲは丸腰なのだ。スサで生成した剣も、嵐で船が難破した時に失ってしまっていた。おそらくは今頃、海の底だろう。地上になじんでしまった彼に剣を再度生成する力はなかったし、ここで便利な道具を作り出すことなど、もちろんできなかった。
 スクナは眼を疑ったことだろう。スサノヲの身体は低く縮んだと思ったら、次の瞬間には宙へ跳ねあがっていた。優に身の丈の三倍は跳躍し、楽々と果実をもぎ取っていた。
「すごい……」
 賛嘆の眼差しのスクナの鼻先にスサノヲは果実を突きだした。少女は驚きながらも喜んで、その果実を手にした。宝物を得たような表情がちらっとよぎる。外側の皮のような部分が二つに割れ、その裂け目に白い果肉が見えている。彼女はそこへ口を突っ込むようにして食べ始めた。
「おいしい……」泣きそうなくらいうれしそうな表情だ。いや、泣いていた。「これはアケビ……いつもお父ちゃんが秋に採って来てくれた……おいしい」
「そうか。そんなにうまいか」
 スクナは無言で、アケビを一つ、スサノヲに差し出した。本当に見たこともない、ちょっと気味悪い外観の果実だった。
「カラ国にもアケビはあるよ」
「そうなのか?」不信感でいっぱいになりながら、スサノヲは見よう見まねでかぶりついた。ぬるっとした果肉が、口いっぱいに広がった。
 そのとたん、衝撃を受けた。甘く、とろけるようなうまさだった。
「うまい……甘くてうまい。なんだ、これは」
 呑み下し、また口に含んだ。
「あ! ダメだよ、種を食べちゃ。糞詰まりになっちゃうよ」
 ぶーっと、スサノヲは種を吐き出した。「ふ、糞詰まり?」
「この白いところだけを食べるんだよ。本当に知らないんだね」
「先に言え」
 むっとしながらスサノヲは睨みつけた。まだ涙で濡れていたが、スクナの顔がくしゃくしゃになって、笑っていた。
 ふっと、スサノヲは笑った。そして少女の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。そして、そんな仕草をしてしまった自分に戸惑った。

 ――気ヲツケロ。

 奇妙な声が聞こえ、はっとさせられる。スサノヲは旅の途中で、人語の真似をする奇妙な鳥を見たことがあった。ちょうどそのような声に聞こえた。
「どうしたの?」
 周囲を見まわすスサノヲのことを怪訝に見るスクナ。少女には聞き取れなかったようだ。
 スサノヲは先ほどのアケビが生っていた木の枝に、大きな黒いカラスが止まっているのを見た。まるで人間のような思考力がある眼をしたカラスだった。一目で普通の野鳥ではないとわかった。
「お前か……。スサからずっと俺のことをつけまわしていただろう」




 ――ツケ回シテイタノデハナイ。案内シテヤッテイタノダ。
 カラスを通じて思念が飛んでくる。が、カラスなど媒体に過ぎない。どこかに本体が存在するように思えた。
 ――ヨウヤク辿り着イタナ。ワザワザ遠回リバカリシオッテ。
「よけいなお世話だ」
 スクナは唖然として、スサノヲがカラスと話すのを見ていた。むろん、カラスからの声は聞こえておらず、ただ一方的にスサノヲが語りかけているように見えたろう。
「いつ焼き鳥にしてやろうかと思っていた。なんなら、これから焼いてやろうか」
 ――ハハハ。ソンナ暇アルマイ。
「どういう意味だ」
 ――スグ分カル。
 ずん、という響きが、どこか深いところで生じた。そのとたん、大地が異様に鳴動し、いっせいに木々が悲鳴のようなざわめきを発した。ゆるやかだった川面もにわかに波立ち、河原の岩という岩が騒ぎ立てた。
 地震だった。
 スクナが短い叫びを上げ、慌てて岩の上から転げ落ちそうになる。スサノヲは危うくそれを受け止め、少女の頭を抱きかかえ、河原に伏せた。さすがに立っていられない。上下左右にむちゃくちゃに搖動する地面の上に、周囲の木々から葉や木の実が無数に落ちてくる。
 山々が鳴動し、メキメキ音を立てて老木が倒れた。大木でさえ、今にも折れそうなほどたわんでいるのが見える。川の水が、大蛇のようにうねった。
 さすがに肝が冷える瞬間だった。
 しばらくすると、暴れていた地面は沈静化した。しかし、まだ大地には余韻のような震動が、ずっと残っているように感じられた。
「す、すごい地震(なえ)だった……」
 腕の中で、スクナが身じろぎをし、言った。スサノヲはアケビの生っていた木の枝を見上げた。すでにカラスはいなかった。
「この頃、地震がとても多い。巫女様は前に言っていた。前触れだと。だから、地震がとても多いんだと」
「巫女様?」スサノヲはスクナから離れ、尋ねた。「前触れというのは、なんのことだ」
「ワの国には巫女様がたくさんいる。みんな、これは大きな前触れだと……」
 スクナの眼が、ある一点で止まった。その視線を追いかけると、川の対岸に一人の娘が佇んでいるが見えた。
 ススキが無数に立ち上がっている中に、長い黒髪を結った美しい娘がいた。臙脂(えんじ)の衣を身にまとい、手には竹で編んだ籠を持っている。つぶらな瞳を見張って、呆然とスサノヲらを見ていた。唇が動く。みかほし……なにか、そんなふうに言ったように聞こえた。
「あの人……巫女様だ」と、スクナが言った。
「そうなのか」
「ほら、勾玉の首飾りをしてる」
 娘の胸元には大きな翡翠の勾玉が下げられているのが見えた。
「ここはワの国か」スサノヲは大きな声で問いかけた。
 娘はうなずいた。「はい。ワの国です」
 その声のヒビキのあまりの心地よさに、スサノヲは戸惑った。
「ワの国のどこだ」
「ワの国のナカの国にございます」
「ナカの国……」(※現・中国地方)
「東の国と西の国の間の国でございます。ここはナカの国の中のトリカミの里」
「真ん中ということか」スサノヲは振り返った。
「トリカミなら知ってる」スクナは意を察して答えた。「たくさんの巫女様の中でも、一番古くてえらい巫女様の里だ」
「ほう。――ならば、知っているか」スサノヲは娘に問いかけた。
 娘は首をかしげる。
「このワの国には、ヨミの国に至る道、ヨモツヒラサカがあると聞く」
「ヨミの国……」娘の顔色が変わった。
「知っているのだな」
 言下にスサノヲは跳んだ。川幅は彼の運動能力をもってしても、ひとっ飛びにできるようなものではなかったが、途中の岩や中州を飛び渡ることで、水に濡れることなど一度もなかった。ほんの瞬(まばた)きの間に目の前に近づいた男を、しかし、娘はきょとんとして見、次には「すごい」と笑って褒めた。手でも叩きそうな表情だ。
 いきなり調子を外され、スサノヲは気を取り直さねばならなかった。
「知っているのなら教えてもらおうか。その場所を」
 娘はまじまじとスサノヲを見つめ、顔を近づけてきた。逆にスサノヲは引かねばならなかった。かと思うと、急に娘は大きく何度もうずいた。自分ひとりで納得するかのように。そうしながら、周囲に散らばっていた鮮やかな色の木の実を拾い、籠に集め始める。
「な……」
 うまく言葉が出なかった。警戒するとか怯えるとか、こちらが想定するような反応を、娘はいっさい示さなかった。どうやら拾っているのは、これまで収穫した木の実らしい。先の地震でまき散らしてしまったのだろう。
 それにしてはこの娘の気配をまったく感じなかった、ということをスサノヲは不審に思った。あれだけの大きな揺れだ、普通の娘なら悲鳴の一つや二つ上げてもおかしくないのに、この娘はどうしていたのだろう……。
「一つ、いかがですか」娘は鮮やかな橙色の果実を差し出した。「お食事をなさっていたのでしょう?」





「…………」
 うまく返事ができず、スサノヲは思わず娘が差しだす果実を手に取っていた。
「おいしいですよ」と、娘が無邪気に言う。
 柿だった。スサノヲはそれを大陸でも見たことがあった。いかにもうまそうに見えるその果実は、しかし、口に入れると、とてつもなく渋かった。噛り付く気にもならず、手にしたまま凍り付いていた。
「うん。おいしい」
 スサノヲが躊躇しているのを見てなのか、それとも自分が食べたいだけだったのか、娘はその同じ果実に噛り付き、頬張っていた。それを見て、スサノヲも口に入れてみる気になった。先ほどのアケビにも劣らぬ衝撃だった。大陸の柿とは別物だった。
「うまい……。こんな果実があるとは」
「あなた、お名前は? みかほし様?」
「みかほし? いや、俺はスサノヲ」
「スサノヲ?」娘は目を丸くし、その言葉を胸に落とし込むように、何度か小さくうなずいた。そして、振り返って言った。「わたくしはクシナーダと申します」
 クシナーダ、という言葉のヒビキは、スサノヲに少なからぬ衝撃を与えた。初めて聞いたような気がせず、なぜか心の琴線に強く触れるものがあった。その理由を探ろうとするのだが、どうしても自分の中には答えは見いだせなかった。
「いいヒビキだ……クシナーダ」
「知っていますよ」
「え?」
「ヨモツヒラサカの場所を」
「やはり知っているのか。教えてくれ。どこにある、それは」
 興奮し、娘の両肩をつかんだ。が、彼女は怯えることもなく、まっすぐにスサノヲの眼を見つめ返して言った。
「ヨミの国はさまよえる死者の国。なぜそのような場所に?」
「そんなことはどうだっていい」スサノヲのほうが、やや狼狽せずにはおれなかった。「いいから、教えてくれ」
「理由も知らされず、簡単に教えられるようなところではございません。そこらへんの原っぱに散歩に行くのとはわけが違います」
 きっぱりと言うクシナーダは、スサノヲの手を払いのけた。か弱い小娘だと思っていたが、意外に毅然としたところがあった。
「ヨミへ行けば、生きて帰ってこられないかもしれないのですよ」
「それは俺であって、あんたじゃない」
「では、あの子はなんなのです」クシナーダが指差したのはスクナだった。「あの子は、あなたのなんなのです。あなたの子ですか」
「い、いや」どうも調子がくるっているのを感じながらスサノヲは言った。「ただの旅の連れだ。船が難破して、近くに打ち上げられた」
「どうして放っておかないのですか」
 言葉に窮した。
「あなたはあの子を助けた。そういうことでしょう」
「まあ、そうなる……」
「あなたがあの子が死ぬのを放っておけないのと同じように、わたくしもあなたが死ぬかもしれないような行いをするのを放ってはおけません」
 これはスサノヲの分が悪かった。なぜこのようなことになってしまっているのか……ともかくクシナーダのほうに明らかに理があった。そしてそのような事態を招いてしまったのは、ひとえにスクナを助けるという行いをしてしまったからだと、スサノヲは気づかされた。
「頼む。俺はどうしてもヨミの国へ行かねばならないんだ」
 戦術を変えることにした。優しそうな娘だ。懇願するという手段なら落ちるかもしれない――と思ったのは、まことに浅はかだった。
「いずれ死ねば、皆、そこへ行けます。焦ることはありません」
 がん、と大きな岩で打ちつけられたようだった。
 クシナーダは、話は終わったとばかり、背を向けて歩き出した。慌てなければならないのはスサノヲのほうだった。
「スクナ……! 火を消して、こっちへ……」と言いかけ、スクナには川を渡るのは難儀だと気づき、一度戻った。焚火に水をかけ、消火すると、スクナを背負い、川を飛び渡る。その頃には、クシナーダの姿はススキの影に見えなくなりつつあった。
 クシナーダは一度振り返った。そして、腰を折り、頭を低くして、礼の姿勢を取った。誰に向かっての礼だったのか……スサノヲには、彼女があのアケビが生っていた木のあたりに向かって会釈したように見えた。
 しかし、そこにはもちろん、誰もいなかった。


 三人が去ると、アケビが生っていた木の枝に、いつの間にか人影が二つ出現していた。細い枝の上に、肩幅の広い異形の男と、彼の身体に蔓がまきつくように寄り添って女が、二人もそろって立っているのは、体重を消せる術がない限りあり得ない光景だった。





「相も変わらず騒々しい男じゃ」と、異形の男が言った。鳥類を想わせる尖った鼻の面をかぶっていた。「山を鳴らせおった」
 くすくす、女が笑った。「面白い。楽しい」
「ウズメ。そなたはなんでもそうやって面白がる」
「いけませぬか、サルタヒコ様」
「…………」
 笑い声をあげ、ウズメは枝から飛び降りた。そしてスサノヲたちの後を辿って歩き出す。
 同時に黒い大きなカラスが枝から飛び立っていった。


     4

 不思議な娘だった。
 クシナーダは歌いながら歩いているが、まったく気ままで奇矯に見えた。やることがおかしいのだ。あちこちで草花に話しかけ、急に笑ったりもした。誰もいないのに、誰かと会話している。
「おかしな娘だ……」
 スサノヲがつぶやくと、隣でスクナが怪訝そうに見上げ、「スサノヲもだよ。カラスと話してたじゃない」と言った。
 言われてみるとそうだった。あのカラスの声は、スクナには聞き取れなかった。それはスサノヲが本来異界の存在であり、あのカラスの本体も異界のものだからだ。
「巫女様は普通の人間が見えないものが見えるんだ。妖精とか神様とか」
「そうなのか?」
 とすれば、クシナーダは人間でありながら、異界に通じることができるのだろうか。
 スサノヲは旅の途中で、異能を身に着けている人間たちに遭遇することがあった。精神的な力で体を宙に浮かせるとか、あるいは人の心を読んだり、遠くのものを見通したり、先に起きることを予知したりする能力を持つ者たちだった。彼らはある種の苦行を積み重ねることで、そうした異能を発揮するようになっていた。
 彼らの多くは、当たり前の生活から逸脱し、エキセントリックな個性を持っていた。日常を捨て、人間らしさを代償とすることでしか、そうした特殊な〝力〟を手に入れることはできないのかもしれない。だが、クシナーダはそんな連中のぎらぎらと何かに執着する雰囲気とは、まったくかけ離れていた。自由奔放であり、のびのびと、すこやかだった。彼女自身が妖精であるかのようだ。あるいは、もしかすると――
「ただのおかしな娘なのか?」クシナーダはいきなり振り返り、言った。「そう思ってらっしゃるのでしょう」
 図星過ぎて返答できなかった。そんなスサノヲを見て、クシナーダはくすくす笑った。
「もう少しです」と言って、また歩いて行く。
 ――空気が変わった?
 いわくありげな巨岩のそばを通過してすぐ、スサノヲはふっと自分を取り巻く空気が、いきなり清々しいものに変わったのを感じた。吸い込む胸の中まで清らかになる気がする。
 ――なんだ、これは。
 そう思ったとき、クシナーダが「ほら、もう見えてきましたよ」と片手を差し上げた。
 彼女の指し示す方向に集落があった。茅葺の屋根がいくつも見えた。歩き進めて高台へ登っていくと、集落の全容がだんだんと明らかになった。
 想像以上に大きな里だった。小高い丘の台地の上に、環状に広がっている。人が歩いてできた道が、三重円になっている。そして三重円の環状道に沿って、住居である茅葺屋根の建物が散らばっている。
 集落の中央には、大きな柱がそそり立っていた。見上げると、中天に差し掛かった太陽の光が柱のてっぺんの向こうにあった。大きな鳥が周辺を舞っている。空は急速に曇ってきており、黒い塊のような雲が太陽の光を呑み込んでいくところだった。
 集落で飼われているものだろう。犬が二匹、吠えながら走って来て、クシナーダの周囲に尻尾を振りながらまとわりついた。続いて、柱の周辺にいた子供たちが、わーっという歓声とともに走ってくる。クシナーダはそれをしゃがみこんで迎えた。




「お帰りなさい、クシナーダ姉ちゃん」
「さっきの地震(なえ)、大丈夫だった?」と、クシナーダが優しく言う。
「うん! アシナヅチ様が起きる前に教えてくれたから」
「誰も怪我してないよ!」
「でも、家の中、めちゃくちゃ」
「一つ、倒れちゃった。あ、二つ!」
「今、みんなで直してる」
「わあ、柿だあ。ねえねえ、これすぐに食べられる柿?」
「ええ、大丈夫よ。アシナヅチ様のところへ先に持ちしてね」
「はーい!」
「この人は?」
「旅のお方よ。お迎えの宴をしましょうね」
「はーい!」
「ねえねえ、お客人、どこから来たの?」
「ナの国? キビの国? それとも異国(とつくに)?」
 いきなり子供たちの好奇心に輝いた瞳に取り巻かれ、スサノヲは「あ、ああ、とつくにだが……」と答えた。わーっと、子供たちはまた盛り上がる。
「異国だってえ!」
「異国のどこ? カラ国? バーラタ?」
「ねえねえ、バーラタには山みたいにでっかい生き物がいるって、ほんとう?」
「あ、いや、それは……」
 象のことだろうと思ったが、山ほどではない、と答えようとしたら、すでに子供たちの間では言い争いが始まっていた。
「そんな生き物、いるわけねえじゃん!」
「いるよ!」
「いないよ!」
 男の子と女の子が言い争いをはじめ、それぞれに味方するグループに分かれた。それもスサノヲを間に挟むように。左右からの甲高い子供の声に鼓膜が痛いほどだった。
「やーめーろっ!!」ひときわ大きな声で割って入ってきたのは、クシナーダよりも少し若いくらいの少年だった。「お客人が困ってるじゃんか! アシナヅチ様だって言ってたぞ。熊の何倍も大きな、鼻の長い生き物がいるって」
 そうそう、それそれ、と思う一方で、スサノヲは不審にも思った。この島国の住人が、なにゆえに大陸の巨大生物のことを知っているのか……。いや、向こうへ渡って帰ってきた人間がいるのかもしれないし、もしかしたら伝聞としてはここまで知れているのかもしれない。
「オシヲ、アシナヅチ様をお呼びして」クシナーダが言った。
「わかった」声の大きな少年は、踵を返した。
 オシヲは柱の向こう側の小屋へ向かい、それとすれ違いに男が一人やって来た。
「クシナーダ、誰だ、そいつらは」
 血気盛んで、腕っぷしにも自信がありそうな面構えだった。
「イタケル、こちらはみかほし様とスクナです」
「スサノヲ」と、訂正を入れた。
「あ、そうです。この世でのお名前はスサノヲ様」
 クシナーダはそんなことを平然と言い、スサノヲを驚かせた。
「船が難破されたとかで、難儀されておられました」
 説明を聞き、ふうん、とイタケルは眉を上げた。
「スサノヲ――またふざけた名前を名乗りやがって。最近は大陸から次々とわけのわからん奴らがやって来て、このワの国を引っ掻き回してばかりだ。おめーも、そんな連中の一人か」
 あながち的外れな推測ではなかった。
「そうかもな」
「ほう。おめーもこの国に取りつく疫病神か」
「イタケル……」クシナーダがいさめようとする。
「疫病神というのなら、そうかもな」スサノヲは言った。「それも最強の疫病神かもしれん」
 イタケルの眼が剣呑さを鋭く増した。「なら、すぐに出て行ってもらおうか」
「そうは行かない」
「なんだと?」
「お前には関係ない。祟られたくなかったら黙っていろ」
「祟るだと?」
「俺は疫病神なのだろう? 祟るかもしれんぞ」
「面白え。祟ってみろ」とは言いながら、イタケルの表情はこわばり、少しばかり青ざめていた。
「俺の祟りはわかりやすい」






「おやめなさい」
 クシナーダのふわっとした声が、握り固めた拳を相手の顔面に叩き込んでやろうというスサノヲの意欲を挫いた。
「イタケル、失礼ですよ。スサノヲ様も、争い事を起こしては、あなたがお困りになるのでは?」
 その通りだった。スサノヲはヨモツヒラサカの場所を知りたくてついてきたのだ。
「クシナーダ、こんな流れ者、むやみに信用するな」と、イタケル。
「あら、悪い人ではありませんわ。現にこの子を助けて連れてきてくださったのですから」
 クシナーダはそっとスクナの肩に手を置いた。
「坊主、どこの子だ」
 イタケルは膝を折り、スクナと同じ目線になった。スクナは少し後ろへ身を引く。
「……ナの国」
「この子は女の子だ」と、スサノヲ。
「そうなのか?」
 イタケルは、顔をよく見るためにスクナの髪をかきあげようと手を伸ばした。スクナはスサノヲの背後に回って隠れた。すっかりスサノヲは庇護者にならされてしまっていた。
「この子の面倒をこの里で見てやってくれないか。両親も一緒に船に乗っていたんだが、行方が分からない」
「それはかまわないと思いますが……あ、アシナヅチ様」
 クシナーダが礼の姿勢を取って迎えたのは、杖をついた白髪白髭の老人だった。先ほどの声の大きな少年、オシヲとやって来る。ほかの里人たちは――子供たちに至るまで――、老人に多大な敬意を示した。里の首長だとはっきりとわかる。
「アシナヅチ様、こちらはスサノヲ様。そしてスクナ……」
 これも白くなった濃い眉毛の下で、アシナヅチの眼がスサノヲを静かに見つめた。
「どこからまいられた」
「カラ国から」と、スサノヲは答えた。
「その前は?」
「大陸の西のほうだ」
「その前は?」
「…………」
 ――こいつ、視(み)えているのか?
 そんな疑念がよぎった瞬間、里人たちに混乱が生じた。悲鳴が上がり、走り回る人影が交錯した。
「なんだ?」イタケルがいち早く反応した。
 剣を持った男たちが十数名、里に乱入してきたのだ。しかし、彼らは襲ってきたという印象ではなかった。むしろ、何かから逃げ回っているような必死な形相をして、喚き散らしながら、剣をふりまわし、里の中へなだれ込んできたのだった。血を流し、傷ついている者もいた。
「オロチのやつらだ」
 イタケルが猛然と走り出した。そこらへんにあった棒切れを手にし、対抗しようとする。が、彼が暴漢たちのところへ到着する前に、暴漢たちの背後におよそ倍はあろうかという軍勢が出現した。そのうちの半数が前面に出て、弓矢をつがえた。
「放て!」
 いっせいに矢が射かけられた。ざあっと降り注ぐ矢は暴漢たちの背後から急襲したが、そのうちの何本かは里人を傷つけた。一本はイタケルの頭部をかすめたものもあった。
 クシナーダが衣を翻し、走りだした。傷ついた里人のところへ助けに向かったのだ。
「かかれ!!」
 号令と共に、整然と隊列を保っていた軍勢は、一気に押し寄せた。見るからに鍛えられた剣を抜き、生き残った者を次々に血祭りにあげて行った。統制され、訓練された兵士たちだった。
 武装も異なる。兵士たちは金属製の甲冑を身に着けていて、盾さえ用意していた。だが、暴漢たちは皮の衣を身にまとい、できの悪そうな剣くらいしか持ち合わせておらず、剣戟では折れることすらあった。
 混乱した現場から里人が逃げ出していく。しかし、矢で脚を射抜かれた老人は身動きができなかった。クシナーダが駆け寄る。
 そのすぐそばで、今まさに甲冑の兵士が敵を切り殺すところだった。返り血を浴びた兵士はぎらつく眼を、クシナーダと老人に向けた。
「お前らもオロチかぁ!!」
 剣をクシナーダに向けた瞬間、その兵士は吹っ飛んでいた。走り込んできたスサノヲの掌底が、わき腹を強打したのだ。
 それに気づいた数名が、スサノヲに対して反射的な敵意を向けた。左右、そして正面から取り囲む。傷ついた老人とクシナーダが動けないため、スサノヲはその場からは離れられなかった。考えるより早く、すっと身を低くした彼の右脚が地の上を弧を描いて一閃した。正面の兵士がそれで足元をすくわれて倒される。同時に彼は兵士の剣を奪い、回転することで視野に入った左右の兵士の一人の剣を弾き返し、もう一人は胴を蹴り飛ばしていた。
「やめろぉ!!」イタケルが叫んだ。彼は殺された暴漢の剣の一つを奪い、スサノヲのそばに駆け込んできた。「なんなんだ、てめーらは!?」
 そのときにはすでに、最初の暴漢たちは全滅していた。ほんのわずかな時間の出来事であり、後から攻め込んできた軍勢にはただ一人の負傷者もなかった。スサノヲに弾き飛ばされた者以外は、すべて地を踏みしめて立っている。
「ここはオロチ国の領土か」
 一人の背高い男が、前に進み出てきた。隊長格と思われる男は顔面に刀傷を持つ隻眼の男だった。
 里人の大半は、周辺の小屋に逃げ込んでいた。だが、腰を抜かしたようにその場に釘付けになっている者もいる。
「答えよ」
 いつの間にか、アシナヅチが前へ進み出ていた。「ここはワの民の村、トリカミの里じゃ」
「ワの民? オロチ国ではないのだな」
「そっちこそ何者だ?!」イタケルが憤りをみなぎらせて言った。「このような傍若無人、許さんぞ!」
「われらは神の民、カナン」
「か、神の民だと?」
 あッ、と軍勢の中で声をが上がった。
「どうした、モルデ」隊長格が振り返る。
 最初にスサノヲが掌底で突き飛ばした兵士を助け起こそうとしている一人が、驚きの眼でスサノヲを見ていた。
「あなたは……スサノヲ様」
 スサの街で、エステル、エフライムと一緒だったモルデだった。彼はスサノヲのことを半ば気にしながら、「カイ、大丈夫か」と倒された弟兵士を気遣いながら立ち上がった。
「モルデ、知っているのか」
「ヤイル、この方こそ、スサでエステル様と私をお助け下さったお方」
「エ、エフライム様に似ている……」
 ヤイルははたと気づいたように、スサノヲの顔をまじまじと見つめた。
 暗雲がにわかに濃くなった。
 そのとき馬に乗った人物が、数名の取り巻きを従えて里に入ってきた。甲冑に身を包み、腰には大ぶりな剣を帯びていた。
「エステル様……」と、モルデ。
 馬上の人物はエステルだった。
 軍神――それも女性の軍神といった言葉がふさわしかった。カナンの兵士たちはエステルの入場に、皆、腰を落とした。
 馬を停め、エステルは周囲の状況を確認していた。そして……
「お前は……」
 鞍から飛び降りた。そしてモルデと目を合わせた。
「エステル様、スサノヲ様です」
「まことか……。こんなところで会おうとは……」
「奇遇だな」スサノヲは周囲の惨状をあえて見ながら言った。「ずいぶん派手なご登場じゃないか。会う場所では、かならず流血があるな」
 エステルは言葉に詰まった。「……こんなところで、そなたは何をしている」
「俺はただ目的の地に辿りついただけだ」
「では、そなたが言っていた〝ネの片隅〟というのもここだったのか。なんという偶然だ……」
「そうやって侵略しているところを見ると、あんたらが言っていた〝約束の地〟というのもここらしいな。このワの国を征服しようとしているのか」
 征服という言葉に、その場に残っていたワの民たちに動揺が走った。
「なんだとぉ?」イタケルが気色ばんだ。
「当たり前だ」エステルは傲然と言い放った。



「この葦原の国、ワの国は、われらのために神がお約束された〝もう一つ土地〟だからな。われらにはここを支配する権利がある」
「ふざけやがって……」
 エステルはイタケルの怒りなど歯牙にもかけず、柱の立つ広場の中央、高台へ登って行った。そしてあたりを俯瞰(ふかん)した。
 雷雲がいつの間にか立ち込めていた。遠雷が響く。
「ここは良いところだ。実りが多く、清らかな水が流れる土地。このような土地が、この地上にあろうとは……。こここそが、神のお約束されたカナンの地なのだ。ここにわれらはかつての栄華を極めた王国を再建する」
 エステルは腰に帯びていた長剣を抜き出した。そして、それを大地に突き立てた。あたかもその行いに呼応するように、すぐ近くで雷光が輝き、大空全体を轟き震わせた。
「われらはこの国を貰い受けに来た。死にたくなければ国を譲れ。神の名のもと、この国の正統なる所有権はわれらにある!」
「お前らの言う神ってのは、いったいどの神じゃ!」イタケルが噛みつくように言った。「山の神か、川の神か、それとも雷の神か!」
「神は一つしかおわせぬ! どれもこれもない!」
「他は否定するか」と、アシナヅチが言った。
「当り前であろう」
「それではやがてわが身を滅ぼす」
「なに?」
 アシナヅチはスクナを連れ、そばまでやって来ていた。彼はオシヲほかの残っていた者に負傷している里人を運ばせ、治療するように指示した。クシナーダのそばにいた老人も運ばれていく。
「そなたらは大陸のはるかか西のかなたからやって来たのであろう。国を奪われ、長く虜囚の憂き目に遭い、もはや帰るべき土地も多くの異民族に占拠されておる……」アシナヅチは瞑目していた。が、彼は何かを視ているようだった。「列強の国々が支配を繰り返す中、そなたらは故郷の土地で、その〝神の王国〟を再建することをあきらめ、別な土地を求めてここまで来た。そうであろう」
 エステルたちはしばし絶句していた。アシナヅチの言葉がことごとく的中していたからだ。
「そなたらは根本的な考え違いをしておる」
「なんだと?」
「国や土地を得るためには、奪い取らねばならぬ。そう思うておるのであろう? 目には目を歯には歯を」
「…………」
「この国の土地は誰のものでもない。皆このワの島国で共に生きる。ただ、それだけのことじゃ。この島国は、はるかな昔より、多くの民が流れ着き、そしていつの間にか一つになって暮らしてきた。南方より黒潮に乗って来た者、凍てついた雪と氷の大地より下ってきた者、稲を持って渡来してきた者、そしてわれらのように古(いにしえ)よりここで暮らす者……。ここで生きれば、皆、共にワとなる。この国がワの国と呼ばれるのはそれゆえ。それゆえに――」
「ゆえに?」
「そなたらもここで共に生きるがよい。ただ、それで良い」
 アシナヅチの論法は、エステルのこれまでの理解を完全に超えたものだった。どう反応したらよいのか迷った挙句、彼女は笑った。
「ふ……ははは。ワの民というのは、つまり争わぬということか」
「さよう。そなたらと争う理由がない」
「理由はあるぜ!」イタケルが言った。「こいつらは里の人たちを傷つけやがった!」
 アシナヅチは杖を持つ手で、イタケルを制した。
「その若者が言うことには理がある。悔しければ戦ってみよ。そのほうが現実が骨身にしみるだろう」
 エステルは地に刺した剣を抜き、そしてそれをイタケルやアシナヅチに向けた。
「やめろ」スサノヲが言った。「エステル、見ての通りだ。この小さな村には、ろくな武器もない。あるのなら、とっくに持ち出してきているだろう。平和に暮らしている人々から土地を奪わずとも、お前の目的は達せられるのではないか」
「そうも行かぬ」
「なぜ?」
「この地は戦略上、重要な場所だ。東のオロチ国と対峙していくためには、ここを抑えておいたほうが良い。東西だけではなく南北にも通じる道がある。そのために今日は、この近くのオロチの重要拠点を叩き潰したのだ」
「どうあってもここを取るつもりか」
「取ると言ったら?」
 スサノヲはスクナが自分を見つめているのに気付いた。それは救いを求める者の眼だった。クシナーダもじっと見つめていたが、彼女の眼差しは色が違っていた。救いを求めるのでもなく、ただスサノヲの為すことを追いかけようとするものだった。
「――ならば、仕方ない」
 スサノヲの姿はその場から消えた。人々は眼を疑ったであろう。彼はろくな助走もなく、ひとっ跳びにエステルの立つ場所まで飛びあがっていた。
 そして、すでに彼女の喉元へ剣を突き付けていた。
「エステル様!」
 兵士たちに動揺が走った。
「兵に引くように命じろ」と、スサノヲは言った。
 エステルは青ざめていた。スサノヲの常人ならざる速度は、スサの地で一瞥したものだったが、まざまざと自分の身でその恐ろしさを味わわされていた。
「私を殺したところで、カナンの理想は潰えない。ヤイルやモルデがかならずこの国を制圧するだろう」
「それは不可能だ」
「なぜ、そう言える」
「お前は知っている。俺がたった一人でも、お前の仲間を全滅させられるのを」
 それは掛け値なしの真実だった。
「俺を敵に回さないほうがいい。でないと、神の王国どころではなくなるぞ」
 再び雷光と轟が生じ、二人の横顔を染めた。
「……いいだろう」エステルの顔が笑みを浮かべた。ゆっくりと自分の剣を鞘に収める。
 それを見て、スサノヲも剣を引いた。
「皆の者! 剣を収めよ!」
 エステルの命令で、兵士たちは安堵した。
「そなたにはスサでの礼もできていない。そなたがそこまでご執心なら、この里には手を出さずにおく」
「感謝する」
「あのときの剣はどうした?」エステルはスサノヲの手元や腰回りを見て言った。
「ああ、舟が難破して、一緒に海の中だ」
「ならば、これを使え」と、エステルは自分の剣をベルトごと外した。「わが一族に伝わる霊剣だ。弟の形見だがな」
「エ、エステル様、それは――」と、ヤイルが近寄ってくる。
「よい――。さあ、これを使え」
「いいのか?」
「スサで一度、今日で二度、命拾いをさせてもらった。弟も喜ぶだろう。それに、その剣、私には少しばかり重くてな」と、苦笑する。
「ならば、遠慮なく」スサノヲは長剣を受け取った。
「だが、覚えておくがよい」その言葉はスサノヲだけに向けられたものではなかった。アシナヅチ他、ワの民にも発せられたものだった。「われらはこの島国に、カナンの王国を築く! 邪魔するものは容赦なく滅ぼす! 肝に銘じておくのだな!」
 エステルは高台を降りて行った。馬に飛び乗ると、号令した。
「行くぞ!」
 カナンの軍勢は整然と里を出て行った。一度、モルデが振り返るのが目についた。
 雨が降り始めた。最初はパラパラッとだったが、すぐに切って落とされたような豪雨になった。アシナヅチの命で、殺された者たちが運ばれていく。どこかで弔われるようだ。
 びしょ濡れになって、スクナとクシナーダが待っていた。
 スサノヲは二人のところへ降りて行った。


     5

 人の気配がして、近づいて来るのがわかった。ばさっと近くの岩場に、衣類が放り投げられた。
「着替えを持ってきてやった」イタケルだった。
「ありがとう」
「クシナーダに言われたからな」言い訳じみた言葉を口にし、彼は自分も着ているものを脱ぎ捨て、湯溜まりに飛び込んできた。
 渓流沿いに湧いている温泉の溜まり場で、スサノヲは湯船に身体を沈めていた。川から引きこむ水量が調整されていて、程よい温度だった。これまでの旅で、一度も味わったことのないような湯浴みだった。身体の芯からほどけていくような心地よさである。
 雷雨は、今は去っていた。ザーッという渓流の響きが、夕暮れの渓谷を満たしている。
「俺はお前のことを信用したわけじゃないぞ。ほかの連中は、里を救ってくれたみたいに思ってるが」イタケルは乱暴に顔を洗った。「今日、お前が里に来る直前に地震(なえ)があった。そしたらあいつらがやって来た。あのカナンとかいう連中が。俺にはお前が災厄を連れてやって来たようにしか思えねえ」
 スサノヲは無言だった。イタケルの言葉は、さして間違っていないように思えた。これまでの旅の途上でも、似たようなことは幾度もあったからだ。
「災厄というのはもっとほかにもあるのだろう?」スサノヲは言った。「〝オロチ〟とか言っていたが」
「ああ。オロチはここ何年かででかくなった国だ。最初はもっとずっと東のほうにできた、小さな国だった。大陸を追われてきた連中だ。だが、クロガネを作り始め、たちまち周辺の国々を侵略し、まとめ上げていった」
 大陸から鉄器製造の技術を持った集団が渡来し、勢力を拡大しているということらしかった。
「クロガネはすげえ。うちの里でもクワやスキに少し使うようになったが、まだほんの少しばかりだ。石や木で作った武器なんかじゃ、とても太刀打ちできねえ」
「この里では作れないのか」
「アシナヅチが許してくれない……」悔しげに言った。「作り方はだいたいわかっているんだ。里の中にも知っている人間がいる」
 製鉄の技術は大陸ではすでに広く知れ渡っている。この世界の果ての島国には、まだ到達したばかりという状態らしかった。
「オロチ国はこの周辺に手を伸ばしているのだろう? エステルが近くの拠点を叩いたと言っていたが」と、スサノヲは尋ねた。
「ああ」
「ならば、なぜここはオロチの支配下に入っていない?」
「ここは……特別なんだ」
「特別?」
「ああ、特別だ」イタケルはそっぽを向いていた。喋る意志はないという表明のようだった。
 スサノヲは湯船から出た。手拭いで身体を拭いていると、湯船の中からイタケルが言った。
「あのカナンの連中とは、どういう関係なんだ」
「カナンのエステルとは、ずっと西のほうの街で出会った。そのときあのお姫様の弟が殺され、俺は彼らを助けた」
「なるほど。それであいつらは、あんたの頼みで、この里から手を引いてくれたってわけか」
「そういうことだ」
「あんた、いったい何者だ。どこから来た?」
「逆に訊きたいが……」スサノヲはイタケルを見た。「お前は自分が何者なのか、答えられるのか」
「え? お、俺か? 俺はこのトリカミのイタケルよ。いずれワの島国を一色(ひといろ)に染め上げる男よ」
「国を一色に……」スサノヲは空を仰いだ。「なかなか野心的だな。つまりそれはエステルやオロチと同じことをやろうとしているということだな」
「あたりめーだ。いつまでもいつまでも、やられてばかりじゃねえ。俺はあのオロチの奴らを、いつか滅ぼしてやる……」イタケルの眼に剣呑な光がぎらついた。口の端から、憎しみがこぼれ出ていた。
「オロチに恨みがあるのか」
「オロチには何人も殺された……」
 スサノヲは新しい衣を身に着け終えた。ほかの里人が身に着けていたようなシンプルな麻の貫頭衣ではなく、おそらく大陸から渡来したものだろう。金糸の刺繍があった。
「このところ、ワの国は争いばかりだ。どこでもかしこでも戦(いくさ)ばかりやって、悲しい思いをしている人間が大勢いる」
「それでお前は、自分が支配者になって、争いをなくしたいと?」
「その通りだ。なあ、あんた――」イタケルの口調は、だんだん馴れなれしくなってきた。「その剣、一本、俺にくれないか」
 スサノヲはカナンの兵士から奪い取った剣とエステルから与えられた剣の二本を持っていた。エステルから与えられた剣を手にし、もう一本は、そのままイタケルの衣類のそばに置いた。そして、その場から離れた。
「すまねえ! ありがとうよ! 恩に着る!」
 背後に聞くイタケルの声には、本当に感謝があふれていた。それだけ、これまでに悔しい思いを繰り返してきたという証明だろう。

 クロガネ。

 この島国は今、その力によって翻弄されているのだった。
 この、おそらくはもとは静かで平和だった国が。


 里の中心に戻っていくにつれ、あるリズムを持ったヒビキが大きく聴こえるようになった。鐘の音、太鼓の音、そして笛の調べ。
 スサノヲは目を奪われた。夕闇が濃くなりつつある時刻、四方に炊かれた篝火(かがりび)の中、人々が里の中心に聳える大きな柱のまわりを取り囲み、ゆっくりとある所作を繰り返していた。ひざまずいて両手を空へ捧げ上げるような動作を繰り返し、そして立ち上がる。ゆっくりと柱を中心に、所作を変えながら弧を描いて歩を進める。
 里の中心が打ち立てられた柱であるのは明白だった。三重円の環状路が出来上がっていたのは、このためだったのかもしれない。里人たちはこぞって外に出て、三重の円になって柱のまわりを回っている。ある時は反転して逆回転になり、ゆったりとした動きから、にわかに打ち寄せる波のように足早に回ったりもする。
 不思議な踊りだった。単調なようでして、強弱もリズムもある。難しい所作は何もない。
 中心には八人の乙女たちがいた。彼女らは柱のすぐそばで同じように舞っている。
 その中の一人にクシナーダがいた。

 神々(こうごう)しかった。




 自分がそのような感想を抱くことに、スサノヲは激しい動揺を覚えた。ほかの乙女たちともクシナーダは格段に違っていた。一人だけ目に見えるがごとくオーラを放ち、彼女の周囲には違った空気が流れていた。ものみな浄化するような、澄んだ清流のごとき〝気〟だ。
 それは舞いと共に周辺に広がっていく。柱に一番近い円へ、その外側へ、さらにその外側へ。その波動は、スサノヲの立っている場所にも届き、彼はみずからが洗い清められるのを感じた。
 息を呑んだ。
 いまだ曇天であったはずの空が割れ、星空が顔を見せた。最初は月光かと思われたが、空に月はない。そうではなく、柱の上空から光の粉が降って来るのだ。
「なんだ、これは……」思わずつぶやいた。
「巫女様が亡くなった人を霊(たま)送りしてるんだよ」
 いつの間にか、スクナがそばに来ていた。顔や身体をきれいにして、着替えを済ませているため、少女らしくなっていた。
「霊送り?」
「あたしも初めて見た。あたしの国の巫女様は、ここまですごいことはできなかった」
 空から降りて来る光はどんどん強くなった。錯覚ではない。はっきりと肉眼で見えるような神々しい光は、白というのか白金のような輝きを帯びて、柱を中心にふわっと広がって行った。
 ぽつ、ぽつ、と新たに地上から光が出現した。それは里人数人が役目として抱え持っていたようだ。彼らの手を離れた光は鈍い光で、まるで自信なさそうな浮揚の仕方をした。
 降りてきている光の中から、もっと明瞭な光の珠が出現し、その鈍い光たちを迎えた。
 ――人?
 そう。目を凝らすと、なぜかその光はいずれも人の形にも見えた。
 天から降りてきた光は人形(ひとがた)となり、そして鈍い光もまた人形となった。鈍い光はさきほどカナンの兵たちによって殺害された者たちだとわかる。それを迎えに来たのが、まばゆい光たちなのだった。
 クシナーダが鈴を鳴らした。

 シャンシャンシャン!

 里人たちが地から天へ送るようなしぐさを繰り返す。
 それからは素早かった。鈍かった光たちはたちまち輝きを増し、迎えに来たまばゆい光たちと一体となり、柱の上空へと駆け上って行った。
 そして、不思議な光は消えた。
 スサノヲは唖然としていた。多くの国、民族を見てきたが、このような鎮魂の儀式を執り行っている民にはお目にかかったことがなかった。しかもただの形式的な儀式ではなく、圧倒的な霊的リアリティを持っていた。
 まるで魔術だ。しかし、魔術というには、この場の雰囲気はあまりにも神聖で清らかだった。
 里人たちが役目を終え、散開し始める。クシナーダが柱の立つ高台から降りてくる。
「湯浴みはいかがでしたか」と、笑顔で言う。
「ああ、いい湯だった」
「お似合いですよ」とも笑う。着替えのことを言っているのだ。
「こんないい服を、いいのか」
「それはアシナヅチ様がお若い時、大陸の……ええと、なんとかという皇帝から頂いたものだそうです」
「ということは、アシナヅチもずいぶんと高貴なお方なのだな」
「アシナヅチ様のお力は知れ渡っておりますから。さあさ、こちらへ」
 篝火が集められ、宴が用意された。里人たちは共同作業に長けていて、なんでも自然に連携できるようだった。子供から老人まで、自分ができることは率先してやっている。基本的に年寄りは敬われ、大切にされていた。しかし、元気な者は老人でもよく動いた。
 クシナーダはそんな中でも、よくくるくると動いた。ほかの里人は、若くともクシナーダに格別の崇敬をやはり抱いているようだった。この点は一緒に舞っていた他の乙女たちも同じで、彼女たちも「クシナーダ様」と呼んでいる。同じような巫女としても、すでに備わった格の違いは、権威としてではなく静かな物腰の中に自然体でにじみ出るようだ。だが、クシナーダ自身にはお高く留まったところはまったくなく、自分にできることはなんでもやっていて、焚火に入れる薪を大量に抱えて歩いてきて、他の者を逆に慌てさせたりしていた。
 その頃にはイタケルも戻って来ていて準備を手伝っていた。
「スサノヲ様、さあ、こちらへ」
「どうぞどうぞ!」
 乙女たちがスサノヲを席に案内した。異国から到来した若い男に、好奇心で輝く眼を隠そうともしない。
 やがてあたりには根菜やキジ肉を入れた鍋や焼けた魚の食欲をそそる香りが立ち込めはじめ、どこが始まりなのか分からないような流れで宴になっていた。
 酒がふるまわれ、笑い声も弾けた。
「さあ、どうぞ。召し上がってくださいな」クシナーダが鍋の中身をよそった土器とお酒の入った竹のコップを持ってきた。「ミツハ、スクナにも」
 もう一人、ミツハと呼ばれた娘がスクナにも食事を運んでくる。
「さっきはありがとうね」と、ミツハがスクナに言った。
 なんのことかと見ていると、クシナーダが説明した。「さきほど、怪我をした者のために、薬草を集めてきたりしてくれたのです。おかげできっと、傷の治りも早いでしょう」
 ああ、とスサノヲは納得した。
「この子はすごく賢い子です」ミツハが感嘆する。「本当になんでもよく知っています」
「坊主……じゃなかった。女の子だったな」イタケルがそばに腰を下ろして言った。「おめー、ナの国の人間なんだよな。どうする? 落ち着いたらナの国へ戻るか?」
 スクナは食べようとした鍋の器を膝の上に置いた。
「どうした? 戻るなら、俺が送ってってやるぞ」
「戻っても……誰もいない」
「先ほどちょっとこの子から聞いたのですが」クシナーダが言った。「ご両親と三人で、しばらく大陸を旅されていたようです。ワの国に戻るのも三年ぶりとか。ナの国に戻っても、頼れる人がいないのでしょう」
「なら、ここで暮らすか? おめー、頭がいいし、役に立つ。みんな、喜ぶぜ」
「ほんとう……?」スクナはイタケルやクシナーダの顔を見た。
「もちろんですよ。ここでお暮しなさいな」
 スクナはスサノヲのことも見、そして表情を明るくした。
「よかったな、スクナ」と、スサノヲは言った。
 歌声が湧いた。男たちが歌い、女たちが踊る。先ほどまでの神聖な雰囲気とは違い、ぐっと砕けた調子で、男と女の恋歌が物語調に語られる。引き裂かれた男女の悲しい物語だったが、どこかユーモラスだ。ひょうきんな動きの男が踊りに加わり、笑い声がどっと弾ける。
 陽気な民だった。

゚・*:.。..。.:*・゚遠く離れてしまった
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚空のかなたに昇って

゚・*:.。..。.:*・゚二人隔てる天の川
゚・*:.。..。.:*・゚涙が流れを深くする
゚・*:.。..。.:*・゚想いの笹船流す日々

゚・*:.。..。.:*・゚一年(ひととせ)に一夜だけ
゚・*:.。..。.:*・゚川を渡るほうき星
゚・*:.。..。.:*・゚たった一夜の逢瀬の時……

「古くから伝わる歌です」クシナーダが説明する。「天の川をはさんで輝く二つの星の物語です」
「天の川……」
 空を仰ぐ。気が付くと、上空はすっかり晴れていた。そこには空を渡る、大きな星々の流れが広がっていた。
「引き離される悲しみは、恋だけではありません。天と地に引き離される、死の別れもあります。だから、いつも霊送りをした後は、こうやってこの歌を歌って宴をするのです。今日はスサノヲ様の歓迎もありますが」
「霊送りと言っても、送ったのはあのオロチとかの連中の魂だろう」
「そうですね。さいわい里人には亡くなった人はいませんから」
「オロチの連中の霊送りなんて、してやらなくていいんだよ」イタケルはぶすっとしている。
 なるほど、それで湯浴みで時間をつぶしていたのかと思えた。
「あら、亡くなれば、みな、同じです。帰るところも同じ」
「身内が亡くなっても、こんなふうに騒ぐのか」と、スサノヲは訊いた。
「はい。もちろん泣きもしますよ。でも、わたくしたちは知っているのです」
「知っている? なにを?」
「この地の者と天の者は、本当は離ればなれになるのではありません。この歌の隔てられた男女のように、悲しくもあり寂しくもありますが、いつでも想えば通じ、本当は会うこともできます。わたくしたちは皆、さきほど見た、あのような光です。それはオロチの者とて、例外ではありません」
「俺は嫌だね」イタケルは酒をがぶりと呑む。「死んであいつらと同じところなんか行きたくねえ」
「イタケル……」
「クシナーダはなぜ奴らを許せる? アワジは奴らに殺されたんだぞ。イヨもオキも。ツクシ、サデヨリ、イキ、サド――みんな」
 そのとき初めて、クシナーダの表情は深く陰ったのをスサノヲは見た。悲しみ、憂悶。そんな色がありありと浮かんでいた。巫女として精神性の非常に高いところに上り詰めたであろう、そんな彼女でさえ、やはり人間的な葛藤は残しているのだ。
「アワジはクシナーダの実の姉だ」イタケルはスサノヲにも分かるように言った。「守ろうとしたクシナーダの両親もその時に殺された。俺は絶対に奴らを許さねえ」
「オロチはなぜそんなことを?」スサノヲは訊いた。
「わたくしたちはこのワの島国でも、もっとも古くからの民です。わたくしたちは特別な役目を持って、このトリカミの地を守っております」
「お、おい、クシナーダ」イタケルが慌てた。
「いいのです、イタケル。すぐにお耳にも入りましょう。それに、この方には知っておいてもらいたいのです」
「特別な役目というのは?」
「それはスサノヲ様、あなたがこの地を訪れた目的にも関わっています」
 そのとき笑いで湧いていた宴の席が静まった。首長のアシナヅチが、近くの家屋から出てきたところだった。アシナヅチは身振りで他の者に宴を続けるように示し、再び歌声が響きはじめる。
 クシナーダは立ち上がって席を空けようとしたが、アシナヅチはそれも手で制して、自分はスサノヲの隣ではなく、顔を見やすい場所へ腰かけた。
「まずは礼を言わねばならん。そなたがいなければ、あのカナンという者どもに、このトリカミは支配されてしまっただろう」
 ありがとう、とアシナヅチは頭を下げた。
「いや……」
「クシナーダから聞いておる。そなたはヨミの国へ行きたいのだそうだな」
 ぶーっと、イタケルが口にした酒を吹き出した。「な、なんだってぇ?」
 信じがたいという眼差しを向けてくる。正気を疑うと言わんばかりだ。
「ああ。ヨミへ至る道、ヨモツヒラサカをクシナーダは知っていると言っていた。教えてもらいたい」
「その身のままでヨミへ行けば、もはや生きて戻れぬやもしれん」
「覚悟の上だ」
「なぜ、ヨミへ行きたがる?」
「…………」
「愛する者がそこにおるのか」
 スサノヲは少なからず動揺した。
「まあ、驚くようなことではない。古来、ヨミへ下った者は多くいる。その動機はほとんど同じ一つの理由じゃ」
「じつはスサノヲ様」クシナーダが言った。「わたくしたちがこの地を守っているのは、そのヨモツヒラサカにも関わっているのです」
「どういうことだ」
「この地には神聖なる岩戸があるのじゃ。我らは代々、長きにわたりそれを守ってきた」
 アシナヅチとクシナーダは意を一つにしていた。そのことについてスサノヲに語るというのは、すでに彼らの間では取り決められていたものだったようだ。
「その岩戸は天にもヨミにも通じておる。定められた時、それを開けば、ヨミへ至ることができる」
「つまり……それがヨモツヒラサカ」
「そういうことじゃ。ただし、開けることはわれらにしかできぬ。その場所を知ったところで、そなたが単独で扉を開けることはできぬ。いかに天界より下った者であってもな」
「!」
「まあ、そう驚くでない。そなたがやって来ることは、以前よりわかっておった」
「て、天界より下った?」
 驚いているのはイタケルとスクナだった。クシナーダにとっては周知の事実だったようだし、近くに同席していたミツハという巫女も、なんらかの事前の知識があったに違いなく、さして驚いてはいなかった。
「魂は、人を介し、母の胎(はら)を通じてこの地に生まれる……。しかし、ごくまれにそなたのような存在が、地に現れることがある。そう、何千年かに一度のことではあろうが」
「驚いたな……」スサノヲは動揺を静めながら、苦笑を浮かべた。「とんでもない爺さんだ」
「伊達に長生きはしておらぬゆえにな。それにわしの眼には過去未来、あるいは遠くのあの輝く星の様子でさえ映る」アシナヅチは杖を持ち上げ、天を示した。「星々の多くはまあるい玉の形をしておる。わしらが住むこの星も、あれらと同様。海よりさらに大きな、果てのない世界の中に、われらの星がある。われらはこの星の片隅で、命を与えられて、束の間の時を過ごしておる」
 心底、驚嘆すべき老人だった。スサノヲは多少の通力を得た人間には出会ってきていた。しかし、アシナヅチのように正確な世界観を持つ人間には、まったく出会ったことがなかった。彼はこの時代の人類が持つ認識を、はるかに超えた知恵を持っていた。
「この星の寿命から見たら、人の命などはかないもの。それはカゲロウほどの長さもあるまい。しかしな、人の命のつながり、想いのつながりは、この星空にも匹敵する。なかなか馬鹿にはできぬものじゃ。人はやがて星の海へも旅立つ時が来る。しかし、その前に荒々しい時代に終止符を打ち、真のワとならねばならぬ……。そなたがここへ遣わされたのは、そのためかもしれぬな」
 イタケルもスクナも、息を呑むように会話を聞いていた。スサノヲは酒を呑んだ。
「――そんな遠い未来のことはどうでもいい。それはあんたらだって同じじゃないのか。未来がどうであれ、今ここにある問題を片づけることが大事だ。そうじゃないか」
「いかにも」
「あんたらは岩戸を守る民で、それはオロチの連中のやっていることとも関係しているのだな?」
「このトリカミの岩戸を守るわしら、そして何よりも巫女は、このワの国の中でももっとも貴ばれておる。それは古くからこのワの国に住む民なら、皆、知っておる」
「オロチの奴らはこの島国全体を支配しようとしている。次々にいろんな土地を奪い取って支配を広げるやり方に反発する者も多い」イタケルが鋭い目を焚火の炎に向けて言った。「だから、ワの民全部にとって大事なこのトリカミの巫女を、毎年一人ずつ略奪し、見せしめに殺した……」
 彼の記憶の中では、これまで奪われていった巫女たち、その死の様がよみがえっているのだろう。
「オロチがここを直接支配せず、放っておくのは、ここが特別な聖地だからです。ここを略奪したら、ワの民すべての反感を買い、支配するのは難しくなります。そのかわり、わたくしたちは人質として残されているのです」
「つまりあんた――クシナーダも狙われているということか」
「きっとこの冬のうちに今度はわたくしが連れて行かれるでしょう」
 覚悟を決めているかのような、あきらめのような静かな様子だった。
「そこでじゃ。スサノヲよ、交換条件じゃ」
「交換条件?」
「この地を守ってもらいたい」
「このトリカミの地をか」
「むろんそれもあるが、違う。このワの国を守ってもらいたい」
「な……」
「約束してもらえるかのぉ」アシナヅチはにっと笑った。「さすれば、ヨミへの岩戸を開こう」
「ずいぶんと足元を見た条件だな」
「おや、そなたならできよう」
 ワの国を守るというのは身一つに課せられるには、あまりにも広大な要求だ。いかにスサノヲでも。
 大陸に比べれば島国は小さなものだ。とはいえ、決して狭くはないだろう。その端々まで守るという約定は、ほとんど実行不可能なものに思えた。
「そもそも、そなたには選択権などない」
「なに?」
「もうこのトリカミには岩戸を開けるほどの霊力を持つ巫女はクシナーダしかおらん。この娘(こ)が連れて行かれたなら、もはやそなたがヨミへ行くことはかなわなくなる」
「それなら、なぜ約束などと……」
「そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を」
 アシナヅチはにたにた笑っていた。恐ろしく根深い魂胆を秘めた、悪戯好きの老人といった感じだった。老人には、スサノヲがワの国全体を守るなど現実的には難しいとわかっているはずだった。彼の言葉の意味には、もっと深いものが隠されているような気がした。
 スサノヲはその深いところにあるものに対して答えを告げた。
「わかった。約束しよう」
「この約束を守るためには、そなたはかりにヨミへ行っても、かならず生きて帰ってこなければならん」
「もとより死にに行くつもりなどない」
「よかろう。それならば、そなたはふた月ほど待たねばならぬ」
「ふた月?」
「ちょうど今日は朔の日じゃ」
 新月ということだ。
「この次、さらにその次の朔の日。月がなくなる日の夜が、もっとも昼が短い季節の朔の日じゃ。その日でなければ、ヨミへ通じるヨモツヒラサカは開かれぬ」よっこらしょ、とアシナヅチは立ち上がった。「それまで、この地でゆるりと過ごされることじゃ」
 そう言って、彼は背を向けて自分の家屋へ戻って行った。
 燃え上がる焚火の中で、何かが爆ぜた。その音で正気に返ったように、スクナがスサノヲの腕に触れてきた。スサノヲは少女の頭に手を置いた。
 見るとクシナーダは珍しく硬い表情の横顔を見せていた。焚火の炎はその大きな瞳と頬を、あかあかと照らしていた。




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ヤオヨロズ第2章 巫女たち


     1

 ――国を譲れ!
 谷あいにエステルの声が響いた。
 ――この地は神がお約束された、われらが支配する土地! 国を譲れば神の民であるわれらの下で、そなたらも繁栄が約束されるだろう! しかし、拒むなら神の裁きが下されよう! さあ、いかがする!
 沈黙を守る砦と集落に、馬上のエスエルが号令をかけた。カナンの軍はいっせいに弓を放った。火矢である。火は集落の家屋、そしてみるみる小山に広がっていった。
 カナン軍は三方に分かれて待機していた。砦の南の正面、北の背後、そして東側にある山の中で。西側は川である。
 焼け出された村人が外に飛び出してきた。そこへ容赦なく、第二の矢が射かけられる。火の手が迫る砦からも決死の覚悟で国の兵士たちが飛び出してくる。三の矢が冷酷に放たれ、戦力を確実にそぎ落としたうえで、カナン軍は突撃をかけた。
 カヤの国はナカの国を南北に結ぶ要衝だった。豊かな河川とその周辺に広がる平野部に農耕で使用できる土地を持ち、また河川は物質の運送にも使用できる。その砦も川に沿って築かれており、自然の小山を利用した、ちょっとした要塞であるが、周囲からはやや孤立したような地形をしていた。つまり焼き討ちをかけても、焼かれるのは砦とその周辺にある集落だけに留まる可能性が高かった。
 ひと山焼き尽くす結果になったとしても、豊かな土地はまるまる手に入る。おまけに焼け出されてくる兵を叩けばよいのだから、カナン軍の戦力の損耗は最小限。
 きわめて冷徹な戦略だった。
 まともに攻めたなら、落とすためには犠牲も多く払わねばならなかっただろうが……。
「楽勝ですな」と、ヤイルが馬を並べて言った。
 エステルは黙ってうなずいた。彼女の眼は見つめ続けていた。圧倒的な戦力差の前に滅びる国の様子を。自軍の兵士たちによって無残に殺される敵の民たちの姿を。
「女子供は生かしてやれ。命乞いをする者にもだ。憐れみをかけてやることで、民は使えるようになる」
「はい」
 カナンの戦略は巧妙で、ここまで実にうまく機能していた。エステルはかならず取ろうとする国に対して、事前に恭順の意思の有無を確認してきた。自らの戦力の優位性と高度な文化を示すことで、ワの民をできるだけ味方に付けた。
 ここでエステルたちにとって、きわめて都合の良い情勢があった。それは東のオロチ国が勢力を拡大し続け、危機感を持つ国々が多かったという現実だ。
 神の使者として、暴虐なオロチどもから民を救う。そのような触れこみに、藁をもすがる思いで同調する首長も少なくなかったのだ。結果、カナンは極めて短期間で勢力を増長させ、少なくともナカの国の西側の広範で、強力な基盤を作ることに成功した。

  ※九州はツクシ、中国地方はナカの国、四国はイヨなどと呼称される。

 あくまでも恭順しないものに対しては、武力を持って制圧行動に出た。しかし、手加減も心得ていた。あくまでも抵抗し続けるなら、徹底的に滅ぼしたが、そうでなければ生かしてやる道を残した。
 それはモルデの進言によるものだった。
「いかに半島から同胞を呼び寄せたところで、われらの数には限りがあります。この地の民はできるだけ恭順させ、われらの国家の支配下に組み込むようにしなければなりません。文化的に遅れた彼らをわれらの優れた信仰と文化で魅了するのです」
 武力で圧倒的できることを証明したうえで、文化的に高度なものを示せば、野蛮な民たちは尻尾を振る。むしろ喜んでそれを受け入れて生きようとする。
 そのような読みはまさに図に当たっていた。そのおかげで、ワの各地から招集した兵を訓練し、使うこともできた。
 半島からは今も次々に、カナンの民が移送され続けている。
 エステルはそうしたカナンの民の中でもリーダー格に当たる者を各地に手勢と共に送り込み、司政官として機能させた。生活を豊かにするための様々な利器と共に。ワの民は戸惑いながらもそれを享受し、支配を受けて入れて行った。
 こうして傘下に入った国々には、先にオロチ国の支配下にあったところも多かった。寝返った理由の多くは、オロチ国の支配が恐ろしく強圧的なもので、人々を苦しめていたからだ。オロチは鉄産地を中心に各地に拠点を広げ、その周辺の国々を力で従わせていた。クロガネ作りのために必要な資源や労働力を供出させ、作物も献上させている。そのために疲弊している国も少なくなかったのだ。
 オロチの打倒。
 それはエステルたちがこの国に根付くための大きな旗印ともなっていた。
 そうした戦略を練ることもできたのも、モルデを筆頭とする先発部隊の入念な諜報活動の賜物だったのだ。
「川に逃げたぞ!」という声が上がった。
 見れば小山の砦を脱出したとみられる数名が、小舟で川を下っていた。エステルの本隊がもっとも近く、親衛隊の兵士たちが弓をつがえるなど動く気配を見せた。
 小舟に見える人影は、女性ばかりだった。三人いる。そのうちの一人、もっとも若い娘は白い衣と勾玉を身に着けた巫女だった。燃える砦を見つめ、彼女は喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
「お父様! お母様!」




 今にも船から飛び出しかねないのを、他の二人の女性が懸命に押さえている。
 彼女らからもエステル隊の動きは目に入った。矢で狙われると覚悟した女の一人は、「ヨサミ様!」と叫び、巫女を守ろうと覆いかぶさった。もう一人は死を覚悟しながらも立ち上がり、棹を取った。川底を押しやって、舟を加速させる。
 しかし、矢は降ってはこなかった。馬上のエステルが叫び、兵士の動きを止めたのだ。
 炎に包まれた砦が崩れ落ちた。ものすごい黒煙と火の粉が立ち上る。
「お父様……」巫女、ヨサミの心を絶望がつかんだ。滂沱と涙があふれ出す。「うわああ……ああ――ッ!!」
 川を下るにつれ、ヨサミの視野をエステル隊がゆっくりと過って行く。舟の縁を爪が食い込むほど握りしめ、ヨサミは〝敵〟を凝視し続けた。燃え上がる砦の手前、正面にエステルの姿が入る。涙は後から後からあふれ出してきて、ともすれば視野をぼやけさせてしまおうとするが、彼女は涙を振り飛ばすように首を振り、瞬きを繰り返しながら、歯を食いしばって、馬上で傲岸に見下ろすかのようなエステルを脳裏に焼き付けた。
 許さぬ……。
 巫女として生きてきた彼女の人生の中で、生まれて初めて感じる熾烈で濃い、血が滴るような憎しみだった。


 ――キビの国、アゾ。
 夕刻には、小舟はそこへたどり着いた。キビの国はナカの国の中でも、屈指の強豪国家――いや、ワの島国全体でも大国の一つだった。ヨサミのカヤは、その中の小さな一部に過ぎない。キビは広大であり、豊かな国だった。ナカの国とイヨの国を隔てる東西に長い内海の中継点であり、しかもナカの国の中では大陸との重要な窓口となっているイズモへの道も通じていた。
 キビは、古代のワの島国の動脈の接点となっている場所だった。
 うまい具合に山あいに開けた広い平野を有し、その近くまで入り込む内海と、海へ流れ込む大きな河川の二本は、このアゾ付近を通過していた。そのためキビの国の中でも古来、もっとも豊かで栄えた場所の一つがアゾの国である。
「――ヨサミ!」
 迎え出た二人の巫女は、到着したヨサミと二人の侍女を見て、しばし絶句した。アゾの巫女アナトと、たまたま訪ねてきていたコジマのナツソである。
「これはいったい――どうしたというのッ」
 港に到着したとき、ヨサミたちはすでに息も絶え絶えだった。男の船頭もいない状態で、河川を転覆させずに到着させるだけでも、彼女らにはとてつもない苦労だった。幾度か、あわやという事態があった。それに加えて、自分たちのカヤの国が滅ぼされたという精神的なショックが、やつれを際立たせていた。港の衛兵たちによって、アナトの居する祭殿に導かれてきたときには、全員が力尽きたような状態だった。
「カナンに攻められました……」侍女の一人が答える。
「カナン……あの神の民とかいう者どもかッ」
「はい。カヤは焼かれました」
「なんということ……」アナトのもともと白いその面(おもて)からは、ほとんど血の気が失せていた。衝撃の大きさを物語っていた。
「ヨサミ、大丈夫……?」と、ナツソが傷ついた巫女に手を添える。
 もとより同じキビの地方のそれぞれの国を束ねる巫女同士。彼女らには親密な流があった。
「わたしは……でも、お父様やお母様が……」
「ミナギ様も?」
 ミナギというのはヨサミの母である。首長であるヨサミの父と婚姻関係を結ぶまでは、カヤの国を導いてきた巫女だ。幼少期から母譲りの素養が明確だったヨサミは、三年ほど前から国を統(す)べる巫女としてまつりごとを司ってきた。
「とにかくこちらへ。さあ」
 三人はアナトとキビの国の者によって手厚く迎えられ、身体を清め、食事も与えられた。
 その間にアゾの祭殿にはキビの国を構成する首長と巫女たちが緊急招集された。
「……すべてわたしのせいです」ヨサミはその席でそう言った。
「なにを仰る」驚いたように言うタケヒは、やや老いが目立ち始めたが、長くキビ国をまとめてきた首長だ。
「国が亡ぶのは巫女の責……でございましょう」
 自虐的な言葉に、タケヒとアナトは視線を交わした。
「カナンの民のことを知らされたとき、山の向こう側の出来事と高をくくっておりました」




「それはわたしたちも同じ」と、アナト。
 カナンとオロチの対立は、ナカの国の中でも主に大陸とを隔てる北海に面した地域で発生していた。この南の地域との間には、深い山地が横たわっている。まだ対岸の火事といった印象しか抱けなかったのだ。だが、彼女ら巫女はそれでは済まされなかった。
「このような事態が至ること、わたしたちのだれも予知はできなかった」
「そうです」と、他の巫女からも声が上がった。
 キビは五つの地域から構成されていた。アゾが中心であり、カヤ、イソカミ、ワケ、コジマである。これらはいずれもキビ地域を流れる複数の大きな河川に沿った地域であり、コジマのみ、この河川の先に浮かぶ島であった。どの地域にも首長が存在し、そして巫女が存在した。
 アナト、ヨサミ、シキ、イズミ、ナツソ。
 キビはこの五つの国の巫女を中心にして結束した連合国家であった。
「このところおかしいのです」と、シキが言った。「何か気が乱れてしまい、心がざわついてばかり。遠見や予知もうまくできないのです」
 シキは五人の中でも、際立って霊感の強い娘だった。この中で最年長のアナト――といっても、まだ二十歳になったばかりだが――は司祭としての能力や経験がもっとも秀でているが、シキは巫女としての能力なら、アナトに匹敵する力の持ち主だった。
「それはわたしもずっと感じておりました。とくにこの半月ほどの間」ナツソがよく響く声で言った。音感に優れた巫女であり、彼女がもともとアゾに来ていたのも、神事に使う新しい楽曲を作るためだった。「神事の調べを作ろうと思っても、それもうまく降りて来ず、それで今日はアナト様のところへご相談に来ていたのです」
「悪い予感はあった」アナトも自責の響きをにじませた。「しかし、わたしも具体的に予知はできなかった」
「そのカナンというのはどのような民なのだ」イズミが冷静に、しかし鋭い目で言った。
「唯一の神を信奉する……」呆然とヨサミが説明する。「そう言っておりました。この葦原の地、ワの国は神が約束された彼らのための土地だから国を譲れ……と」
「ふざけた話だ」イズミは男のような調子で言った。もっとも若い巫女で、まだ少女といってもいいが、その素養を見込まれて今の地位に押しやられた。いつも反抗的なところを感じさせるのは、本意ではないことをやらされるためかもしれなかった。
「わたしはまったく何も予感できませんでした。あのような災厄の訪れを、まったく感じることがなかったのです。それに……国を譲るように求められ、その判断も誤りました……」
 魂の抜け殻と化したかのように、ヨサミは語った。
 カナンはカヤに一日の猶予を与えた。国を明け渡すか戦うか、考える時間を。
 首長はそれぞれの国に存在はしているが、巫女は格別の影響力を持っている。ある意味、首長よりも頼りにされるのだ。巫女はその霊感によって常に宣託を下さねばならない。ヨサミはカナンの出現に非常に嫌な予感を抱いていた。むろんそれは巫女としての直感的なものとして鋭くあった。
 だが、国を譲れという傲慢で専横な要求に対して憤慨し、戦うことを決意した男たちを抑えることができなかった。いや、あまりにも強いその場に満ちた戦意に呑まれたのだ。
 以前であれば違ったかもしれない。しかし、オロチ国の傘下に入り、クロガネの剣が普及するにつれ、民全体の考えも変わって来ていた。力で解決できるという風潮が強くあり、とくに男たちは好戦的に逸(はや)った。
 結果、その全体的な機運の中で流され、ヨサミは戦いを抑えることができなかった。近隣に救援を求め、籠城して戦えば、切り抜けられる――と、彼女自身、判断した。それはすでに直感ではなく、願望であったのかもしれない。
「このアゾへも救援を求める使者を送りました……」
「こちらには救援の使者など来ておらん」と、タケヒ。
「何もかもわたしの考えが甘かったのです。おそらく使者もどこかで待ち伏せされ殺されたのでしょう。カナンは最初からわたしたちの退路を断っておりました。逃げ場のない状態で火を放たれ、みな、亡くなりました……。わたしだけが父に無理やり舟に乗せられ……」
「なんとむごい……」アナトの目にも光るものが滲んだ。
 比較的近い地域で仲良くやってきた国だったのだ。首長や巫女同士の交わりだけではなく、民の交わりも濃かった。
「カナンの兵は非常に強力な弓矢や剣を持っております。カネでできた鎧や盾も身に着け、わたしたちの国の兵ではとうてい……」
 首長たちもこれには動揺を隠せなかった。ワの国はようやく青銅器から鉄器への変遷を始めたところだった。青銅器はどちらかといえば祭器としての役割が強く、鏡や鐸などは使われ続けている。武器としての鉄器はツクシやイズモで国内生産が始められたが、このナカの国にもようやく広まり始めたところだったのだ。
 どすどすという荒々しい足音が響いた。その足音だけで、一同にはそれが誰なのか分かっていたし、巫女の神殿でこのような傍若無人さを発揮する男は、そうそういるものではなかった。
「カヤが落とされたというのはまことか」血相を変えて飛び込んできたのは、オロチ国からキビに派遣されている太守、イオリだった。
 タケヒがうなずいた。
「貴様、おめおめと……。なにをしておった!」
 憔悴したヨサミをイオリは足蹴にした。悲鳴を上げて床に倒れるヨサミに、アナトたちは駆け寄った。
「なにをされる! おやめなさい!」
「カヤはイズモへ抜ける街道の守りだぞ! それを奪われてはッ……」
「それこそが敵の狙いであろう」タケヒが言った。「敵はこのワの島国のことをよくよく調べておる」
「おのれ、カナン……」ぶるぶるとイオリは両腕を震わせていた。今にも腰に帯びた剣を抜き放ち、暴れまわりそうな怒気を放っていた。「うかつであった。よもや南に手を伸ばしてこようとは……」
 オロチ国の現在の本拠はタジマにある。そこからイズモ一帯にまで勢力を拡大し続けていたのは、その地域が砂鉄の産地だからだ。そして同様な理由で、このキビにもオロチ国の王カガチは手を伸ばしてきた。とくにアゾの周辺やカヤの北では鉄が採れる。
 イオリはこのキビでの鉄生産という大きな役割を負わされて派遣されていた。しかし、ただそれだけではなかった。彼の本当の役目は、このアゾの近くに巨大な山城を建造することで、それはすでに八分通り完成していた。
 それはワの島国全体を支配するための布石なのだ。
 カガチはすでに東国の統合に着手していた。オウミやヤマト、キの国などもすでに傘下に入っている。彼の野心である島国の統一のためには、これら東国と西のツクシを結ぶ海上交通路である内海を掌握せねばならなかった。タジマやイズモは鉄資源こそ豊富だが、平野は少ない。大人口を養い、兵力を蓄えるためには、このキビは最適の地だった。正面にはイヨの島国がもっとも間近に迫っており、こことイヨを抑えてしまえば、東西の往来もさえコントロールでき、島国全体の支配が容易になる。
 それが王カガチの遠大な計画だったのだ。
 しかし、もしキビを失うようなことがあれば、計画は頓挫する。それどころか、海上交通を掌握したカナンによって、追い詰められるような事態も発生しかねなかった。
 いや、それ以前に――とイオリは考える。冷酷な王カガチは、イオリを無能として処断するかもしれなかった。
「兵をかき集めて、カヤからの道と川を防衛させろ!」イオリは引きつったような表情になっていた。
「すでにそのように指示しておる。みなも協力してくれておる」
 タケヒの冷ややかな言葉に、集まった首長もうなずいて見せた。オロチ国の傘下にこそ入っているが、誇りや自主性まで、何もかも奪われているわけではない。
「タジマへはさきほど伝令の鳩を飛ばした。カガチ殿もすぐに知るところとなろう」
「もう少しで山城も完成するというのに……」舌打ちし、イオリはその場を離れかけた。そうしかけ、一度、足を止めた。「ぶざまに国を明け渡すようなことでもしてみろ。トリカミを滅ぼすぞ」
 イオリは去って行った。
 キビの巫女と首長たちには、重い沈黙だけが残された。



 月明かりが焼け落ちた集落と砦を照らしていた。
 もはやどこも原形をとどめてはおらず、木材はまだ燻っている。煙と吐き気を催すような異様な臭気が立ち込めていた。
 エステルはそんな中を歩いていた。多くの死体はすでに片付けられていたが、木材の下には真っ黒に焦げた塊がいくつか覗いていた。目を背けたくなるような人であったものの炭化した姿だった。
 眉を寄せ、口元を抑えながら、エステルは歩いていく。ふと月明かりに白っぽく見えたものがあった。
 まだ熱を持つ灰をどかし、エステルはそれを拾い上げた。
 勾玉だった。
 それはエステルが持つ宝珠とよく似ていた――いや、同じものとしか思えなかった。


     2

 冴えわたる満月が中空にあった。今にも魂が吸い込まれそうな神秘的な輝きだ。玲瓏たる輝きが、蒼くタジマの山野を浮かび上がらせていた。
 他のものとは一線を画すほど高床の大きな建造物には、夜の静けさをかき乱す喧騒があった。女たちが音楽に合わせて身をくねらせるように踊り、男たちが卑猥な調子ではやし立てる光景が屋内に見える。その酒宴の中心にいるのは、黒頭巾の巨漢だった。壮健な雰囲気を身にまとい、ただそこに座っているだけで恐ろしいほどの力感が伝わってくる。しなだれかかる女の酌を受け、黙々と盃を口に運んでいる。
「カガチ! カガチよ!」酒宴の騒ぎを割って、甲高い声と荒々しい足音が近づいてきた。
 黒頭巾の男は猛禽類のような鋭い眼を動かし、廊下から柱の間を抜けてくる男を見た。
「カガチ! 大変だぞ」
「何事だ、ミカソ。騒がしい」
「たった今、キビからの伝令の鳩が。カヤがカナンに落とされたらしい」
「なに?」
 カガチの形相が一変し、その場の雰囲気も一変した。凍りついたようになったのは、知らされた情報が驚くべきものだったこともあるだろうが、むしろそれを知らされたカガチが示す態度に、周囲が恐れおののいたからだった。
「それで? キビはなんと?」
「救援を求めているようだ……」ミカソも喉を詰まらせたように答える。
「ヒメジから援軍を送るように伝えろ」
「わ、わかった」
 そばに置いていた剣を取り上げながら、ゆっくりとカガチは立ち上がった。ほかの男たちよりも、頭一つか二つは背高い。小柄な女など子供に見えてしまう。カガチが剣を鞘から抜き、女たちが怯えて後ずさりする。
「おい……」カガチは低い声で、女たちに取り囲まれていい気になっていた部下のひとりに剣を向けて言った。「貴様、なぜカナンの動向に気づかなかった。俺は命じたはずだぞ」
「あ、いや……」
「能無しが」
 カガチの脚が、びゅっと唸りを上げ、部下の頭部を払った。ちぎれるのではないかというほど首が伸びきった状態で、部下の身体は転がりまわった。鼻血と共に、うわああ、と何とも言えぬ呻きを上げ、もがき苦しむ。
 カガチは宙を見据え、忌々しげに毒づいた。「カナン……。後からのこのこやってきて、国をかすめ取る泥棒めが。この国は俺が作り上げた国ぞ!」
 カガチは半島での戦乱によって家族を失い、追われた身だった。同族はほとんど皆殺しにされ、筆舌に尽くしがたいほどの辛酸を舐めて生き延び、ワの島国に漂着した時にはほとんど身一つ、すべてを失った状態だった。
 さいわいに持っていたクロガネを作る技術だけが彼を救った。鉄文化の後進国であるワは、再起のためには絶好の場であった。クロガネ作りを普及させ、その利便性で民を魅了しながら、彼は富を得、勢力を拡大させ、今では力による恐怖支配の構造を作り上げていた。それもこれも、いつかは大陸のやつらに復讐するためだった。それをこんなところで……。
「おいっ! 新しい剣はできておるのか!」
 次にカガチの憤りの矛先が向けられた部下は、蒼白になりながら慌てて言った。「も、もちろんだ。今までより強い剣を今、量産しているところだ」
「急がせろ。強い剣さえあれば、数ではこっちがカナンを圧倒できるのだ」
 部下はがくがくと頷いた。
「アカルを呼べ……。誰かアカルを呼んで来い!」
 怒声を浴びて一人が慌てて席を離れる。
「そ、その剣のことだが、カガチ」もっとも信頼が厚い部下であるミカソでさえ、声が震えていた。「じつはちょっと見せたいものがあるのだ」
「なんだ?」
「これを――」ミカソは手にしていた麻布でまいた長いものをカガチに差し出した。
 怪訝そうにカガチは受け取った。自分の剣はその場に突き立て、麻布を開く。
 中から現れたのは、荘厳な輝きを持つ剣だった。
「イナバの浜に難破船が漂着していた。船には誰もいなかった。たぶん皆、海の藻屑となったのだろう。だが、船の甲板にこれが突き立っていた」
「これは……」カガチは目を奪われていた。絶世の美女に魅了された男のように、うっとりとした眼差しだ。「なんという見事な……大陸でもこのようなものを見たことがない」
「不思議なのだ。おそらくその剣は何日も浜で潮風を浴びていたはず。なのに、まったく錆びてもいないのだ」
「まことか……」
「しかも、なんというのか、その剣には霊妙なものを感じる。持つと、なにかこう、手がしびれてくるような……痛いような心地がするのだ。俺にはとても長くは持ってはいられぬ。どうだ、感じぬか」
「おおよ。感じる」剣を握るカガチに変化が生じていた。陶然となっていた顔は、灯明の中でさえはっきりとわかるほど、赤く照り映えはじめ、呼吸が荒くなってきていた。「ものすごい〝気〟を感じる。感じるぞ! なんという力だ! これは並の剣ではない」
 漲ってくる力がカガチの肉体を通じて、こぼれ出てくるようだった。誰もが息を呑んだ。錯覚ではなかった。カガチの肉体は変化し始めていた。もともとの巨漢が、さらにひとまわり、肉付きを盛り上げたように膨張し、すでに備わっていた力強さは、さらに凶暴な肉食獣の雰囲気へと変容していった。頭巾で隠されている頭部にも、なにか隆起してくるものがあるように見えた。



 いきなりカガチは剣を一振りした。彼が床に突き立てていた剣は、あっけもなく折れた。
 にやりとカガチの表情が歪む。口元から長い牙のような犬歯が光った。そして彼は笑い始めた。笑いの衝動が突きあげてきて、こらえきれなくなったように笑い始め、やがて高笑いに変わっていった。それは狂気じみたものだった。
 全員が怖気(おぞけ)をふるった。
「ミカソ……お前、でかしたな。よくぞ、これを俺のもとへ届けた」
「お、おう」
「これはこの世のものではない」
 言下にカガチは動いた。もともと機敏な男だった。だが、そのときの動きは灯明の中では消えたと思わせるほどの素早さだった。
 何が起こったのか、すぐに理解できた者は少なかった。さきほどカガチが蹴り飛ばした部下は、ようやく立ち上がろうとしたところだった。ところが、その男の上半身は、直後にすとんと床に落ちていた。その瞬間には彼はまだ生きており、いきなりまた低くなった視野に戸惑い、そして自分の下半身がないことに絶叫した。
 彼の身体は二つに分断されていた。彼の断末魔の絶叫と、女たちの悲鳴が折り重なって、夜闇の世界を駆け巡った。
「これさえあれば、怖いものなどない……。とてつもない力が湧いてくる。これは鬼神の剣に相違ない。まさに俺が持つべき剣……ふ、ふはははッ! すごいぞ、これは。たまらぬ。たまらぬぞ!」
 噴出するマグマがしたたり落ちるような熾烈な欲望の奔流が、カガチの全身を貫いていた。凍りつく空気の中、その場の多くの者が、たった今カガチによって惨殺される予感を抱いた。彼は何かに憑りつかれていた。剣の凶暴な力に魂を奪われたのだと確信させるものだった。
「おい、女ども」
 先ほどまで酒に酔い、歌い、踊っていた女たちは、小動物のようにすくみ上がった。
「来い。伽(とぎ)の相手をせよ」カガチは歩き出した。
 が、女たちも怯えきっており、動き出せずにいた。
「まいれ!」
 怒鳴りつけられ、弾かれたように動き出す。性の相手をさせられるだけではなく、嬲り殺されてしまうのではないかという恐怖が巣食っていた。
 女たちを引き連れてその場を去るカガチと、先ほどこの場を離れた部下と巫女が出くわした。呼びつけておきながら、カガチはその巫女を無視してその場を去った。
 アカルというその巫女は、すれ違うカガチを驚きの顔で見送った。まるで別人だったからだ。
 そして、その場の凄惨な有様を見、息を呑んだ。
「ふつのみたま……」
 その言葉が、ふっと天から降ってくるように巫女の口を突いて出た。アカルは自分自身、この言葉に打たれたように、はっとしてカガチを振り返った。
 月明かりの下、女たちを引き連れて立ち去って行くカガチの後ろ姿に、魔性の気配が重なって見えた。


 ――同刻、トリカミの里。
 スサノヲは同じ満月を見上げていた。秋の虫たちの調べが、競い合うようにあたりには満ちていたが、ほんのわずかな気配を彼は聞き逃さなかった。
「どうした? こんな夜中に。眠れぬのか」
 その問いかけを受けたクシナーダは、ほとんど感じないゆるやかな風のようにやって来て言った。「はい。心がざわざわします」
「満月は人の心を騒がせる力を持つようだな」
「はい」
 スサノヲはその返事を聞き、クシナーダの顔を見た。「はい」という、そのヒビキ。
「スサノヲ様も?」
「その『様』というのは、やめてくれ」
「はい」
 またスサノヲはクシナーダを見た。月光に照らされ、その白い頬がいっそうに透き通るようだった。
 彼女が「はい」という肯定の言葉を発するときが、なぜかスサノヲは好ましさを感じた。とても素直な反応としての言葉であるからだけではなく、なにか自分の存在を受け入れてもらえているという優しさを感じるからだった。



「では、スサノヲ――」
「なんだ」
「眠れぬ者同士、少しお話を致しませぬか」
「なんの話を?」
「天界のお話を聞きとうございます」
 ふっとスサノヲは歯を見せた。「なにを言うかと思えば……。クシナーダは知っているのではないか? アシナヅチも、そなたも、この世の人とは思えぬ目と耳と、そして意識を持っている」
「わたくしはただの人でございます。この世のカタチに縛られた、肉を持つ身の一つに過ぎませぬ。感じることはできるのですが、天界のことはこのカタチの身では正確に理解することができないのです」
「それは……そうだろう」
「ですから、お伺いしたいのです」
 クシナーダはスサノヲのそばで返事を待っていた。やや躊躇しながら、スサノヲは「いいだろう」と答えた。その言葉を得て、クシナーダは笑顔を浮かべ、スサノヲが腰かけている大きな岩の隣の岩にそっと腰を下ろした。
「ただ、今となっては俺も天界のことをうまく伝えることは難しい。それはコトバで伝えられる世界ではないからだ」
「それでもお伺いしとうございます」
 うむ、とスサノヲはうなずき、考え込んだ。「何を話せばよいのだ」
「スサノヲは天界ではどのようなお姿だったのですか」
「姿はない」
「やはり」
「そなたが言っていたように、カタチというのはこのネの世界のもの。天界にはこれというカタチがない。どのようにもなり得る。強いて言うなら――」スサノヲは空を仰いだ。
「言うなら?」
「この月の光のようなもの。あるいは流れる水のようなもの。見えざるヒビキの調べのようなもの」
「いかようにも変わるということ?」
「そなたは頭がいい」
 クシナーダはにっこり笑った。
「光はただ光であるだけでは、なにも映さぬ。そこにカタチがあれば、カタチを浮き彫りにする。水は流れて、川のカタチでいかようにも姿を変える。声も音も、ヒビキは響かせる存在(もの)によって変わる」
「スサノヲ様は――いえ、スサノヲは――さぞかし強い光でありヒビキでしたのでしょうね」
「光にもヒビキにも、いろいろある。いや、光もヒビキも、実は同じものなのだが――」スサノヲは言葉を選び、そして思案に沈んだ。適切な表現を探し求めながら、なかなか見つけることができない。
 言葉を待っていたクシナーダは、別なことを言い出した。「わたくしたちの民に伝わる古い物語には、天界で乱暴を働いた神のことが語られています。その神は姉であるヒビキの女神と争いを起こし、傷つけられた女神は岩戸に姿を隠します」
「それはたぶん俺のことだ。わかりやすく人のような物語として伝えているのだろう」
「すでに私たちに伝わっている物語が、今ここにいるスサノヲのことを語っている?」
「不思議に思うだろうな。俺は今やってきた。その俺の物語は古くからある」
「はい」
「それがこのカタチの世界、ネの国の限界だ。じつは天界では『時』は存在しない」
「『時』がない?」
「すべてのものは混沌として、あやふやな状態で漂っている。なにもはっきりとした形を得ることはなく、なにでもなく、なんでもある状態として、ヒビキそのものとしてある。それが天界なのだ」
 それを聞き、クシナーダははっとなった。「わたくしたちの物語では、天地すべてを生み出した夫婦の神、イザナギ・イザナミ様はなにも定まらぬ漂った海から、カタチを作り出したと……」
「それは真理をうまく伝えている」スサノヲは驚きながら言った。「その通りだ。天界では、すべては混沌としてヒビキとして漂っている。しかし、そこに意識が働きかけたとき、すべてが一瞬にして創造される。このネの世界の太古から今に至るすべてが瞬間的にすべて生まれるのだ」
「つまりスサノヲの古い物語も、今ここにいるスサノヲも、同時に生まれる……?」
「そうだ。そなたは本当に賢いな」
 驚きを隠さないスサノヲの言葉に、クシナーダははにかんだようだった。月光の中で、少し頬の色が変わったように見えた。
「俺はこのカタチを、このネの世界のこの時間で得た。ただそれだけのこと。しかし、過去の世界のどこかでも俺を表現する別な存在がいるのだろう」
「それが太古の物語を作った?」
「それもあるだろう。が、おそらくアシナヅチやそなたのような者が古くからいて、天界で起きた出来事を、同じイメージとして感じ取って語り伝えたのだ。俺がこの地に降りた場所はスサという街だったが、そのはるか西にギリシアとかいう土地があると聞く。その国の旅人が教えてくれた。かつてウラヌスという天とガイアという地は一つに睦み合っていたが、憎み合って離れたと」
「まるでイザナギ様とイザナミ様の物語のようですね」
「大地の女神を傷つける海の神の物語。同じ大地の女神を怒らせ、隠れさせる冥府の神の物語。それはきっと、そなたがいうところの、ヒビキの女神を傷つけた弟の物語と同じものだろう」
「面白い……」
「そうか?」
「はい」
 スサノヲは彼女が「はい」というたびに、胸がざわつく自分に気づいていた。が、それは無視して続けた。
「その物語たちの大元は、天界で今、そして過去、未来でも起きているあることに関わっている。俺は天界ではあるヒビキであり、ある光としてあった。しかしもう一つ別なヒビキと光があった。大雑把にいえば、その二つのヒビキは、この世界……星の海までも生み出すためには絶対に必要なものなのだが……その……相容れぬものを持っている」
 うまく伝えるために言葉を選び続けねばならなかった。
「たとえばこの世の男と女と同じような対極のものだ。そなたらも男と女が交わって、はじめて子が生まれるだろう。天界も同じような力の働きがあり、対極の働きが交わり、新たなものの創造が行われるのだが、それは対極であるがために強く引きつけられもするし、また時には反撥もする。そのヒビキがうまく均衡されたら、創造がうまく行く。しかし、時には均衡が崩れることがある。いや、それも崩れるようになっているのだが……崩れたときに、ヒビキの女神は岩戸に籠る。そういう意味では、ヒビキの女神を岩戸に籠らせたのは、たしかに天界でのヒビキとしての俺の働きだ」
「それが神話の真相なのですね。わたくしたちの物語では、岩戸は開かれねばならぬようになっています」
「ヒビキの女神を外に呼び出すため?」
「はい」
「面白いな」
「はい」
 しばし、二人の間には沈黙が生じた。鈴虫のヒビキに包まれたその時間は心地よいものだった。「あ……」と、二人は同時に話し出そうとして、互いに遠慮した。
「ごめんなさい。どうぞ、あなたのほうから仰ってください」
「いや、たいしたことではない」
「たいしたことでなくてもお聞きしとうございます」
「あ……その……」言葉がうまく出てこなかった。「巫女というのは、この国では生涯独身なのか」
 何を聞いているのかと、スサノヲは自分を疑った。
「そのように生きる者も多くございます。でも、巫女を捨てて男性と目合(まぐあ)ひを結ぶ(結婚)者もございますよ」
「そなたはこの里の――いや、このワの島国の、もっとも貴い巫女なのだろう。そなたが巫女でなくなったら困るのだろうな」
「巫女はわたくし以外にも大勢おります。この里にもミツハや、他にも育っているものがございます」
「しかし、岩戸を開くほどの霊力があるのは、そなただけなのだろう」
「今のところは……。ただ……」
「ただ?」
「その……性の交わりをすることで巫女としての霊性が失われぬ場合もございます。むしろ強まることさえございます」
「ほう?」
 見ると、クシナーダは真っ赤になっていた。
「それはどのような場合なのだ」
「その男性との……その……ヒビキが合うということです」
「相性ということか」
「そうとも言えるのですが、その方が巫女としての資質を壊さぬ、清き心をお持ちであることも条件です。アシナヅチ様と、もう亡くなられた大巫女様は、そのようなご関係でした。ですから、お二人はお互いの力を強めあって、とても高いところへ達されたのです」
「なるほど……。クシナーダは、何を?」
「え?」
「さっき、何を言おうとした」
「ああ、あの……」
 火照りを鎮めようとするように、クシナーダは指先で自分の顔に少し風を送るようなしぐさをし、それを見てスサノヲは心の中である感情が強く動くのを感じた。それは彼女の存在自体が、すごく愛しいとか、好ましいとか感じる、心の動きだった。
「すみませぬ。もしかしたら、お怒りになるかもしれないのですが」
「言ってみてくれ」
「スサノヲがヨミへ行かれるのは、母なるイザナミ様に会うためではないでしょうか」
 すぐに返答ができなかった。図星だったからだ。
「やはり、そうですか」と、クシナーダのほうで結論を出した。「お気に触りましたか」
「いや……」
「なんのためにイザナミ様に会いに行かれるのでしょうか」
 もはやごまかしは無意味に思えた。
「なんのために自分がこの世にあるのか、その意味が知りたい」
 クシナーダは絶句し、つぶらな瞳を見張った。その答えは彼女の想像していたものとはまったく違ったものだったからだ。ミカホシの光が地球に到達する幻視を得たとき、ミカホシは母に会うために来るのだと、クシナーダは気づいていた。
 それは母を失った子が、その母を恋い慕うのと同じだと、単純に考えていた。それはあまりにも擬人化した表現だったのかもしれない。
 根本にはそうだと言えるのかもしれない。きっと、それは「人」となったスサノヲの中にもある。
 けれど、ここにいるスサノヲは母の胎から生まれたのでもない。
 普通の子が母に感じる皮膚の感触や乳の味も、子を愛おしむ母の言葉も笑顔も、彼はまったく知らないのだ。だから、恋い慕う感情さえ、じつは彼には実感としてはないのではないか。
 彼は孤独なのだ、と痛切にクシナーダは知った。この世に、誰とのつながりもないままに生れ落ちて、超人的な力を代償のように得てはいるが、それすらも他のか弱き人間とは明らかに違うということを証明するだけではなかったのか。

 この男性(ひと)を抱きしめたい。

 ほとんどそれは実行しそうになるほど強い想いだった。クシナーダの精神は肉体を抜け出して、すでに彼を抱きしめていた。


     3

 巨大な滝の下にいるのかと思うほどの雨が、先刻から降り続いていた。モルデはものの役にも立たなかった蓑の雨具を取り払い、髪の毛をかきあげながら砦の中に入った。
 カヤに再建されつつある砦だった。もともと地の利を有する要害である。この地を拠点として利用しない手はなかった。突貫工事で進められ、基礎的なものは出来上がっている。
 土砂降りの雨の中でも休む暇なく、材木が運ばれ、組み合わされ続けている。もともとカヤの国の民で生き残っている者の多くは奴隷として強制労働させられ、疲弊しきっていた。ふらふらになって、材木ごと横倒しになる者もいる。
 カイがそんな奴隷を怒鳴りつけている。倒れた男はうつろな目で起き上がろうとするが、足腰が定まらない。鞭打とうする弟に向かって、モルデは叫んだ。が、雨音がすごすぎて聞こえず、一度二度とカイが鞭打ったところで、ようやくモルデは弟の腕を握って止めることができた。
「カイ! 少し休ませてやれ!」
「あ、兄さん」
「食事は与えているのか」
「ま、まあ、そりゃ」
「休ませてやれ」
「わかったよ」不服そうにカイは鞭を振るうのをあきらめた。
「指示していた仕掛けはできているのか」
「ああ。そりゃ、もうとっくに。川から水を汲み上げて、いざというときには上から砦に流せるようにしてるし、場合によっては攻めてくる敵に向かって流すこともできる」
 木材を使用するこの国の建物の弱点は火だった。だからこそ、カヤを落とすときにはそれが選択された。レンガを焼いたり、石を切り出したりして砦を作る方が安心だったし、もともとカナンの民の祖国は「石の文化」だった。しかし、それを悠長に行っている時間はなかった。いつ、オロチが攻撃をしかけてくるかわからない情勢では、短期にカヤの砦も再建する必要があり、それには木材を使わざるを得なかった。
 自分たちが行った火攻めを逆に仕掛けられないとも限らず、そのための消火機能を持つ仕掛けを作るよう、モルデは提言していたのだ。
「敵の動きはどうなんだ、兄さん」
「エステル様は?」
「ヤイルと一緒だと思う。奥にいるはずだ」
「お前も一緒に来い。アロン! アロンも来てくれ! ユダも!」
 モルデは目についた者に呼びかけ、肩を叩いた。アロンもユダも屈指の剣客であり、精鋭部隊を率いる指揮官だ。彼らを引き連れ、エステルの幕間を訪ねた。エステルはそこでヤイルと話し込んでいた。
「おお、モルデ、帰ったか」と、ヤイルが立ち上がる。「どうだった、キビとやらの動きは」
「簡単ではないぞ」モルデはなおも滴る水滴を拭いながら言った。
 彼らは円陣を組むように腰かけ、中央に木版が置かれた。モルデはそこに炭を使って図面を描いた。

 ※ この時代、岡山県南部の児島半島は、まだ「島」であり、本土との間には穴海が広がり、吉備の穴戸(あなと)と呼ばれていた。また島根県の沿岸の地形も相当に違い、斐伊川はまだ宍道湖には流れ込んでいなかった。

「キビは五つの国からなる連合国家だ。そのうち一つはここ、カヤだった」モルデは自分たちがいる場所に○を描いた。「他の四つは今、この川の下流に大軍を配備している。そこは切り立った渓谷の出口で、もしこの川に沿って軍を進めるなら、そこを通過せねばならないが……」
「敵にとっては、こちらを叩く絶好の場所というわけか」と、ヤイル。
「そういうことだ。川に沿って兵も配置されている」
「迂回する道はないのか」ユダが言った。「それができるのであれば、分隊を送り込んで、敵の側面から攻めれば……」
「無理だろうな。ここらへんはかなり山深い。迂回路は険しい山越えとなるし、周辺にも見張りが置かれていて、何かあればすぐに本隊に知らされる」
「どうやって知らせるのだ」
「山の上で火を焚き、煙を上げるんだ。その山が見える距離の離れた山の上で監視が同じようにまた火を焚く。そうやって狼煙で伝達を送るようだ」
「なるほど……」
「ここを抜くのは容易ではないぞ」
「エステル様」あまり多弁でないアロンが口を開いた。「もし軍を進めるのであれば、このアロンが先頭に立ち、かならず突破口を開いてごらんにいれます」
「いや、しかし……。かなり犠牲が出るのでは?」カイが不安げに言った。
「われらには神のご加護がある。下賤な異教徒どもなど何ほどのこともない」
「川の下流には、かなりの数の水軍もいるぞ」モルデが付け加える。「キビの一つ、コジマの水軍らしい」
「水軍か。われらの泣き所よな」ユダが言った。
「だからこそ、この南の内海を手中に収める必要があるのだ」エステルが言った。「モルデ、そなたは言った。この島国支配の趨勢を握るのは、南の内海だと」
「はい。今回の探索で、ますますその確信は深まりました。オロチがキビやヒメジなど、内海に面した土地に手を伸ばしたのも、同じ動機かと思われます」
 モルデはカヤ攻めにも参加していなかった。それ以前から探索に出ていたからだ。カナンがカヤやそれ以前の小国を攻め落とす戦略を効率的に進められたのも、モルデの情報収集能力によるところが大きかった。ワの国に先着した段階から、モルデはワの国のなかで〝使える人間〟を探し出しては教育し、自分のもとに情報が集まるようにしていた。むろんそれだけではなく、今回のようにみずから敵地の中に潜入することも行っていた。
 モルデには、島国の地図がおぼろに見えていた。話をつなぎ合合わせることで、すべての土地を検分せずとも、おおよそのことは見当がついた。東西に長い内海は、島国の海上交通の最大の要だった。内海であるために荒れることも少なく、陸路よりはるかに効率的に物資の輸送ができる。
 ところが、大陸側からのその内海への侵入しようとすると、西端の狭い海峡を抜けるしかなく、そこを防衛された場合、内海への侵入は容易ではなくなる。
「つまり守られた内海ということか」ヤイルは隻眼を図面に落として言った。
 木版にはモルデがあらたに大きな地図を描いていた。むろんいい加減な略図だ。しかし、それを示しながら解説することで、一同は島国の構造とオロチ国の支配拡大とその戦略について理解を深めることができた。
「この内海を制することができれば、島国の支配は容易になる」モルデは説明を続けた。「しかし、この内海を支配しているのはアマ族で、ムナカタとかアズミといかいった海の民が、内海を実質的に握っている。オロチ本国のあるタジマも、もともとアマ族の国だったようだ。カガチはこのタジマのアマ族の協力を得て、北海だけではなく、この内海支配ももくろんでいるのだ。そのためにヒメジやキビを手に入れた」
「キビはイズモなどに比べて気候も温暖だと聞くが」
「そのようだ。土地は肥沃で作物がよく取れる。しかも、クロガネもキビは自国で生産している」
「まことか。なおさらに重要な土地だな」
「だからだろう。カガチはキビに巨大な山城を造営させている」
「山城?」
「このカヤのようなかわいいものではない。あれを落とすためには総力戦となるだろう」
「つまりこの渓谷を抜いたとしても、その山城があるということだな」その言葉はエステルから発せられた。
「はい。これまでにない厳しい戦(いくさ)になるでしょう」
「このまま無理押しに南下を進めれば、今度はイズモが手薄になり、領土を取り返される危険もあるな」ユダが言った。「そうなれば、最悪、北と南から挟み撃ちに遭う可能性もある」
「今はあまり戦線を拡大すべきではないのでは?」と、カイが堅い表情で言った。
「たしかにな。このまま南下すれば、危険は増す。キビを倒すためには、相当な犠牲も払わねばならんだろう」
「臆したのか、ヤイル」と、アロン。
「そうではない。戦略というものだ」
「モルデ」二人の掛け合いを、エステルが遮った。「このキビは連合国家と言ったな」
「はい」
「分裂させることはできないか」
「じつは私もそれを考えておりました。力押しで倒すより、内部から崩せぬものかと」
「さすがだな」エステルは笑みを浮かべたが、その表情に信頼の色があった。「なにか良い考えがあるのか」
「キビを調べていて不思議に思っていたのですが、キビはタジマを中心とするオロチ本国に匹敵するほどの力を持っています。それがなぜ、オロチの属国になっているのか」
「なにか理由があるのか」
「人質を取られているのです。それも二つ」
「人質? 二つ?」
「キビ国の領内から大勢の者がタジマやイナバ、イズモなどへ送られ、クロガネ作りのため強制労働させられています。彼らは人質でもあるのです。その中には国の首長の身内もおります」
「なるほど。家族を奪われているのだな」
「もう一つは、先のトリカミの里です」
「トリカミ? あのスサノヲがいた里か」
「あそこがオロチの直接支配を受けていなかったことが不思議でした。ところが、どうもあの里は特別なもののようで、ワの民にとっては一種の聖地なのです。その聖地を守る民や巫女があそこにいる」
「だから、カガチもそこには手を出さずにいたということか」
「はい。ただしカガチは、トリカミの巫女を毎年、一人ずつ殺しているようです。見せしめと脅迫のために」
 その話を聞くや、さすがに男たちの顔にも苦々しいものが浮かんだ。エステルはさらなる嫌悪を眉間に走らせた。
「つまりそれは、われわれのかの聖なる神殿の土地が、異教徒によって土足で踏み荒らされるのと同じということです。キビはこのカヤも含め、五つの国すべてに国を束ねる巫女がおります。その巫女たちにとっても、トリカミは重要なのです」
「巫女……」ふとエステルの目の奥に、何かが浮かんだようだった。「あの者たちか」
「なにか?」
「いや……。それで、モルデ、おまえは何を考えておる」
「トリカミの周辺は今やわれわれが実効支配できる状態です」
「今度はわれらがキビの巫女たちを脅すと?」
「いや。エステル様もスサノヲとの約束をたがえるのは寝覚めが悪かろうと思います」
「まあ、たしかに」と、エステルは苦笑する。
「しかし、今やトリカミはわれらが守っていると伝えたらどうなりますか?」
 沈黙の後、エステルはにやっと笑みを浮かべた。「モルデ、わたしはそなたという者がそばにいることを神に感謝する」
「畏れ多い……」
「ただ、それだけでは十分ではないだろう」ヤイルが言った。「家族も人質なのだろう」
「われわれと共闘すれば、家族が解放される日も近いと言えば? われわれがこれまでオロチから奪い取った里やタタラ場から、現にこのキビに逃げ帰った者もいるらしい」
「なんと……」
「われらは神の遣い。そしてこの国の真の支配権を持つ者。だからこそ、オロチの恐怖支配から解放できると伝えたら、このキビもまた寝返る可能性はおおいにある。――いかがですか、エステル様」モルデは女君主に目を向けた。「わたしをキビとの交渉に送り出してください。もしキビを取り込むことができたら、われらはこの温暖で肥沃な土地を手に入れ、内海の制海権を得ることにも足がかりを得ることができます。あるいはキビを構成する国に意見の対立を生み、一部だけでもこちらにつかせることができるかもしれません」
「面白いな。しかし……あまりにも危険ではないか」エステルの瞳はさすがに曇っていた。「これまでの小国とはわけが違うぞ」
「覚悟の上です。これはわたしにしかできぬ仕事です」
 それは衆目の一致するところだった。エステルはその中で判断を下さざるを得なかった。
「わかった――。明日、キビとの交渉に」


 ――同刻、アナトの祭殿。
 カヤと同じ豪雨が、あたりを騒々しく満たしていた。その中で、端然とアナトとシキが座っていた。二人とも、耳を澄まし、そうすることで豪雨の騒音は、むしろ意識の外へ押し出されていた。
 あたりには神気が満ちていた。特殊な〝力〟を持つ場でしか生じないものだ。祭殿はその上に建てられている。そんな空気の中で身体をゆるめ、呼吸をゆっくりと深く繰り返す。そして自分を空っぽにする。
 すっと、ヒビキが二人の胸に落ちた。
 ――御霊(みたま)ヲ集メヨ。浄(きよ)メヲ急ゲ。
 二人の巫女は目を見開いた。
「アナト様……」シキが蒼ざめて言った。
 アナトも同様に白い顔でうなずいた。無意識に胸の勾玉を握りしめている。
 血の気が引くほど、そのヒビキには鋭い警告が込められていたのだ。二人はお互いにまったく同じヒビキを受けたことがわかっていた。キビの国の巫女たちの中でも格段の霊力を持つ彼女らは、時には空間を隔てて意思を疎通させることさえできる。
 現実に意識を戻した彼女らの聴覚を、猛り狂ったような雨の音が満たした。雷鳴が遠くで轟いている。
「急がねば、手遅れになるよ」
 豪雨にもかかわらず、強いヒビキを持つ女の声が、彼女らの耳朶を打った。
 はっとして振り返ると、庭先に女の姿があった。腕組みをし、降りしきる雨の中、佇んでいる。が、彼女はまったく濡れていなかった。
「ウ……ウズメ様!」アナトは名を呼び、そして絶句した。
 ウズメはゆっくりと歩いてきて、二人に近づいた。豪雨は彼女の身体をまっすぐに通過して、地面に当たっていた。
「手遅れとは……」シキが畏敬にかすれた声で言った。
「〝死の力〟が解き放たれる」ウズメの声は相変わらず、あらゆる騒音を透過して届く。
 その双眸は二人の巫女を圧倒する強い輝きを放っていた。
「クシナーダが失われたら、〝死の力〟は世を滅ぼすだろう」
 二人の巫女は金縛りにあったようになっていた。言葉さえ出てこない。
「あんたらがぼやっとしてると、そうなるってことさ」ウズメはにやっと笑った。「踊れ! 魂で踊れ! そしてワのヒビキでこの世を埋め尽くせ!!」



 パチン、と弾けたようにウズメの姿は消え、そこには血相を変えたずぶ濡れの男の姿が出現していた。祭殿を守っている衛兵のひとりだ。彼は大声で、たった今ウズメが立っていた場所で叫んでいたが、豪雨があまりにもひどくまったく耳に届かなかった。
「大変です、アナト様!」
 近寄ると、ようやく聞き取れるようになる。
「や、山が崩れました!」
「え?」
「アシモリの山です。下にあった集落がものすごい土砂で埋まってしまいましたッ……!」
 二人の巫女は、総毛立った。


 首長のタケヒと共に現場に向かうことすら容易ではなかった。
 雨足はすでに弱まっていたが、普段使っている道にどこから集まって来るのか、大量の泥水が流れ、歩行すらままならなかった。泥沼を歩くようなものだ。山から下ってきた岩や木が、いたるところで歩みを妨害した。
 それでもアナトとシキは、現場に向かった。この目で確かめずにはおれなかったからだ。
 そして彼女らは、凄惨な現場を目の当たりにした。
 これまで山としての形を持っていたのものが、まるで巨人の手が抉り取って行ったように、ごっそり陥没していた。その陥没した部分の土砂が丸ごと集落を呑み込み、ほとんどの家が泥沼の下になっていた。
 アゾからほど近く、多くの者が暮らしていた集落だった。それが……。
 土砂の直撃をまぬかれ、かろうじで生き残った人々が、丘の上に退避していた。その丘の上から確認できる風景は、アナトの記憶にあるものとはまったく違った、見るに堪えぬものだった。
「巫女さまあ……」小さな子が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で近寄ってきた。「お父ちゃんとお母ちゃん、いないの。ねえねえ、お父ちゃんとお母ちゃんはぁ? ねえ? ねえ! 巫女さまだったらわかるんでしょう。ねえったら!」
 だんだん泣き叫ぶようになってくる子をアナトは抱きしめた。彼女の目にも涙があふれ、唇が震えた。だが、目を背けてはならないと思った。
「クロガネなど作るからじゃ」泥まみれで、そこに座り込んでいる老婆が言った。「あれを作り始めてから、ろくなことがない。木を切って、禿山ばかりにするから、生き物も飢え、川は汚れ、あげくにこのざまじゃ……」
 老婆は独り言のように喋っていた。誰ともなく。しかし、その言葉はアナトたちに向けられた痛烈な批判そのものだった。
 堪えきれなくなったようにシキがその場から走りだした。目の前に広がる泥海の中へ身体を投げ出すように駆け込んで行き、細腕で折り重なった材木や岩をどかし始める。泣きながら、狂ったように。
 アナトも子供をその場に残し、シキと同じように探し求めた。もしかしたら生きているかもしれない人を……。
「アナト様! シキ様! おやめください!」
 タケヒや他の男たちが止めに入った。
「そのようなことは私たちが致します! 危険です! おやめください!」
 しまいには男たちによって羽交い絞めにされ、二人の巫女は現場から引き離された。そのときには彼女らは号泣していた。


 翌日、再びアナトの祭殿で、二人の巫女が呆然と座っている姿が確認できた。アシモリからの人々の避難、その世話と、二人は休む間もなく働き続けた。彼女ら自身、身を清め、泥だらけの衣装を着替えることができたのは、すでに夕刻に近かった。
 それぞれの国に戻っていたイズミとナツソも、災害の知らせを受けてそこへ現れたが、魂を抜かれたようになっている二人を見て愕然となった。疲労と悲しみが、痛々しいほどにじみ出ていた。
「アナト様……」シキがつぶやいた。「わたしはずっと考えておりました。このままでいいのだろうかと……。やはり、わたしたちは間違っております」
 反論はできなかった。アナト自身、それはずっと胸にあった疑問だったのだ。
 オロチ国のカガチによってクロガネ作りの技術がもたらされ、その利便性の高さにどの国も魅了された。農耕にも、狩猟にも、また何よりも武器として、クロガネはこれまでの道具とはまったく一線を画するものであり、生活全体に一大革命を引き起こしていた。たったここ十年ほどの間のことだ。
 その利便性の代償は、決して少なくなかった。カガチは各地にタタラ場を作り、鉄穴流しを行わせ、その結果、川は魚が生息できないほどの有様に変わった。タタラの炉に使用するため、山から大量の木を切り出し、美しかった山野もみるみる無残な風景に変わった。
 樹木を失って丸裸にされた山。
 それがこの豪雨で崩れたのだ。
「クロガネを今のような形で作り続けては、皆が不幸になります」
 シキの言葉はそのままアナトの内心を代弁していた。
「しかし、カガチが許さないだろう」イズミが言った。「クロガネはわたしたちが作っているというより、カガチに作らされているようなものだ。作ったものの多くはタジマに献上している」
「だからこそ、よけいにクロガネ作りのためにこのようなことが起きるのは、おかしいと思われませぬか」シキは話すことで、少ししゃんとなってきていた。「わたしたちはカガチにたばかられたのです。便利になると言われ、クロガネを作らされ、男たちもタジマやイズモへ送られ、今ではそのことで身動きできなくなっております」
「たしかに今のわたしたちは、オロチ国の奴隷のようなものです」と、ナツソ。
「だから? 今さらカガチの支配を離れられるとでも?」イズミは冷笑的に言った。「逆らえば皆、滅ぼされるのだぞ。わかっているのか」
 沈黙が落ちた。
「わたしがあのとき、もっと強く警告していたら……」悔悟をにじませ、アナトは言った。
 オロチ国のカガチが、ヒメジを足掛かりにキビへの圧力を強めてきたのは、十年ほど前だった。すでにこの時、ワの国全体に、燎原の火のごとく、戦乱の雰囲気が蔓延していた。
 鉄器は大陸から伝えられており、とくにツクシやイズモを中心に広がりつつあったが、キビはこの点でかなりの遅れを取っていた。カガチはこの点での技術的な援助を申し出、見返りとしてタジマや支配を広げていたイズモでの鉄生産の労働者の供出を求めてきた。
 キビにしてみれば、周辺で生じている戦乱の火の粉を振り払うためにも、クロガネ生産に踏み切らざるを得なかったという事情があった。
 そのとき、この五人の中ではアナトただ一人が、すでに優れた巫女としてアゾの中心にいた。しかし、あまりにまだ若すぎ、人心を掌握するには至っていなかった。
 アナトはカガチの出現に、なにか金属を舐めるような嫌な予感を抱いた。鋭い痛みが胸の奥で発し、カガチを悪しき未来を呼ぶものとして、はっきりと拒絶すべきと感じた。
 そのまだ幼いと言っていい巫女の予感は、当時の「大人の事情」によって黙殺された形になってしまった。ほかにも同様な印象を抱いた巫女はいたが、いずれも現実に迫る脅威の中で、カガチと手を結ぶことを是とする空気には逆らえなかったのだ。
 だが、今やアナトの当時の予感は、そのまま現実のものとなっていた。文明の利器という甘い言葉で籠絡され、力を得たと思われたキビは、カガチによって送り込まれたイオリなどの太守やタタラ場の製作と管理を取り仕切る監督官たちによって、内側から貪り食われたような状態になっていた。
 国内で生産されるクロガネの多くは、タジマへ送られ、カガチのさらなる勢力拡大に役立っていた。結果、オロチ国はすでに連合国家キビでさえ逆らうことが難しい存在として増長していた。
「どうしたの……?」
 その場にヨサミが現れた。髪が乱れ、やつれた顔をしている。かつての凛とした雰囲気は失われていた。
「アシモリで山が崩れて、おおぜいの里人が亡くなったのです」と、ナツソが説明した。
 ヨサミは「そう」と言って、その場に座り込んだ。悲惨な出来事にもまったく無感動になっていた。
 他の四人の巫女たちは、ヨサミにかける言葉も失っていた。カヤを滅ぼされ、逃げ延びてきて以来、彼女は生ける屍のようになっていた。
 が――。
 そのヨサミのうつろな眼に、一瞬にしてぎらつく光がよみがえった。慌ただしく祭殿に現れたタケヒの言葉が、彼女の眼に火をつけたのだった。
「アナト様! それに皆様! 一大事です」
「何事です」
「カナンより使者が参りました。話し合いたいと」
 水を打ったような静けさの中、ヨサミは音もなく立ち上がった。


     4

「かならず無事で戻ってくれ」
 カヤを発つとき、エステルはモルデにそのように声をかけた。そして、そっと耳元に顔を近づけて、囁いた。「戻って来たら、知らせたいことがある」と。
 その言葉の意味を考えたのもしばらく間だけ、モルデは二人の護衛を連れ、急ぎカヤを南へ下った。昨日の豪雨のため、川は荒れており、舟は使えなかった。半日ほどかけ川沿いの道歩き、ようやくキビの勢力下である渓谷の手前までたどり着き、そこからは慎重に行動した。
 渓谷の中、そして出口で待ち構えているのは、キビの軍勢だけではなかった。オロチ国の軍も配備されていた。
 モルデが交渉に当たらねばならないのはキビであり、オロチではなかった。キビをオロチから離反させるためには、オロチに動向を知られるわけにはいかず、内密に事を進める必要があった。
 こういった判断も、事前のモルデの索敵と諜報活動があればこそだった。
 さいわいオロチ国の兵は、キビのそれに比べて全体に重装備だった。これはカナンの兵力に対抗するために、この頃増強されてきたものだ。見分けるのは難しい話ではなかったし、モルデにとって好都合だったのは、渓谷の上流にキビ国の中のコジマの兵士たちが配備されていたことだ。おそらく敵襲を受けた場合、水軍の彼らは小舟で一気に下流へ下り、本隊に知らせる役割を持たされていた。
 モルデは周辺にオロチ国の兵は存在しないことを確認したうえで、彼らの前へ堂々と進み出た。
「カナンの使者、モルデだ! オロチ国に勝るとも劣らぬキビ国の兵(つわもの)よ、そなたらの国主と話がしたい!」
 その場を任されていたコジマの指揮官との話し合いは、思惑通りオロチ国の知るところとはならず、モルデ以下三人はその後、キビの兵士に連れられ、渓谷を避けた山道を使って川を下った。オロチ兵の目が届かないエリアの川幅が広くなったところで流れを船で下った。太陽が西へ傾き始めた頃には、アゾに到着していた。
 アゾはキビの中心地である。なだらかな山々が取り囲む広大な平野に、膨大な数の高床の建造物が並び、集落が取り巻いて広がっていた。物見やぐらでは常に警備する兵がいて、周辺の出入りを見守っている。
 索敵時に目にしていたとはいえ、その規模に舌を巻く。モルデに同行した二人の護衛は、これまでの小国とは異なるその景観に気を呑まれていた。
 案内されたのは、アゾの中心地にある大きな建造物の中だった。護衛の二人は外で待たされ、モルデは剣を預けるように指示された。それに従う。
 もし自分の身に何かあれば、カヤの民、そして砦の生き残りの命がなくなると伝えてある。恐れることはないと自分に言い聞かせる。
 やがて二人の巫女と国主らしき年輩の男が姿を現した。
「首長のタケヒだ。こちらは筆頭巫女のアナト様、そしてヨサミ様」
 アナトは静かな、品の良い雰囲気を持つ巫女だった。ヨサミは燃えるような眼をして、モルデのことを凝視していた。
 また巫女か、とモルデは思った。ワの国は、どこへ行っても巫女に遭遇する。巫女たちの多くは政治の決断にも影響力も持ち、人心をまとめ上げる核となっているように思えた。そういうワの国の風土や習慣のことに理解はあっても、モルデにはワの巫女など、しょせんは劣った邪教の魔女に過ぎなかった。
 むしろ蔑みの対象でしかない。そんな思いは胸に押し隠しながら、モルデは言った。
「カナンの王女、エステル様の名代として参りました。モルデと申します」
「話というのは?」
 タケヒは穏やかな眼を持つ首長だった。しかし、いつでも強さを押し出すことができる者だということは、モルデも一瞥で実感していた。胆力のある男だった。持ってまわった話し合いをするより、こちらの肚(はら)を開いて見せるべきと考えた。
「単刀直入に申し上げる。われらと同盟を結ばれる意志のあるや否や」
「同盟?」
「イズモ一帯は、今やわれらカナンが制圧しつつある。オロチ国の勢力は、今や中海より東まで退き、その後も東へ下がるのみ。この状況をキビの方々は知っておられるのか」
「聞き及んではおる」
「そのことが意味するものは何か、よく理解しておられるのか」
「そなたが言うことの意味が、よく呑み込めぬが」
「トリカミの里はすでに我らが守るところの土地という意味」
 タケヒの表情に、かすかに驚きがよぎった。
「むろんわれらはトリカミの里が、そなたらにとっていかに重要な土地か、理解している。手を出すつもりはない」モルデは彼らをけん制しつつ、安堵も与えるために言った。
 が、なぜか、先刻からヨサミと呼ばれた巫女のことが気になっていた。同盟と聞いたときも今も、彼女の表情には氷のような冷たさと、その中に秘めたマグマのようなものが感じられた。この場の雰囲気のぎこちなさも、大半は彼女によるものと思えた。
 というのは、アナトやタケヒが、彼女の存在をどことなく気にしている雰囲気が伝わってきたからだ。この会談に、どうあっても自分もとヨサミが言い張って出席したことは、モルデには知る由もない。
「トリカミの巫女は今や我らが守っているということ。それをキビは理解しておられるのか」
「そういうことか……」タケヒは隣のアナトを見た。
 キビの筆頭巫女は、そのとき伏し目がちなまま微動だにせずいた。
「このまま戦局が進めば、やがてはイナバやタジマもわれらに制圧されよう。イズモからタジマにかけて多くあるタタラ場で強制労働させられている者たちも、われらの力で解放される。そなたらの家族も」
「このワの国の事情に通じておるようだな」
「そなたらにとって悪い話ではないはずだ。このままオロチのカガチにこのキビが屈していて良いのか。それをお伺いしたい」
「そなたの本心は、そのような親切心ではあるまい」アナトは静かに言った。
「なんと?」
 アナトは床に目を落とす姿勢のまま、何かそこに書かれている文字を読むような調子で続けた。「キビを落とすことは容易ではない。これに力を注げば、背後が危うくなる。カヤを落としたのはいいが、そなたらは先へも後へも動けなくなっておるのだろう」
 たなごころをあまりに明瞭に見通され、モルデは返答に詰まった。
「そなたらに絶対的に欠けておるもの。それは数。補うためには小国を併合し、人を集めねばならぬ。しかし、いかに人を集めたところで、今のままではそなたらには未来はあるまい」
「なにを仰るのか」巫女に気圧されまいとして、モルデは肩と胸を張った。
 静かな中に潜んだ鋭利なものがアナトにはあった。鍛えられ、鋭く研がれた小刀のような気配だ。まだ若い小娘だと侮っていたし、邪教の汚らわしい巫女だとも蔑んでいた。それが思わぬ存在感と力を突き付けてきていた。
「われらは神によって約束されたこの島国の真なる支配者。この国はわれらのものとなることが定まっている」
 ヨサミの眼が鋭く動き、光を弾いた。
「まことにそのような成り行きになろうか」と、アナト。
「われらには唯一の神がともにおられる。負けることはない」
「唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか」
「この地のすべてを創造され、支配されておられる神」
「その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ」
 モルデは質問の意味が分からず、失笑した。何かも違うではないか。
「このワの国では、多くの神々を信奉している。われらの民もさらに古い時代、そのような愚かな原始的な信仰を持っていた。が、今のわれらは違う。われらは唯一の神によって選ばれたのだ。われらは特別な民。そしてわれらの信奉する唯一の神はもろもろのか弱き汚れた邪教の神々とは異なる。われらの神を信じれば、みな、救われるのだ」
「つまり今のままでは、われらは救われぬと?」
「われらと同盟を結べば、そなたらにも救いはあろう。神の思し召しが」
 モルデのように大局を見る能力があり、理性的な判断が下せる人間であっても、まぬかれ得ぬものがあった。それは宗教の呪縛であった。神について語るモルデはその唯一神に確信を持ち、そしてみずからの信仰がやがてはこの下賤な島国の民どもも、多少なりとも救うと信じていた。
 自分たちのような選ばれた民ではなくとも、選ばれた民に支配されるものとして。
 くっくっく……と低く抑えた笑い声が聞こえた。
 ヨサミだった。彼女は背を丸くし、手で顔を抑えるようにして笑っていた。それは、やがて顔が上げられるとともに、甲高くて神経的な笑い声となって響いた。
「アナト様、これがこの者たちの本音です! こやつらは、しょせん、自分たち以外は猿や虫けらのようにしか考えていないのです」
「なにを?」モルデは気色ばんだ。
「おまえの本音が読めぬと思うてか」ヨサミが立ち上がり、叫ぶように言った。「おまえの考えなど、われらには筒抜けじゃ!」
 モルデは蒼ざめた。考えを読まれている?
「わたしはおまえたちに滅ぼされたカヤの巫女じゃ! 父も! 母も! 愛する同胞もみな、おまえたちに殺された!」
 この瞬間、モルデは交渉が決裂したのを知った。まさかカヤの巫女がこの場にいようとは……いや、そうではない。カヤから逃げ延びた者はいても不思議ではない。それ以上に、両者の間にはもっと深い亀裂があったのだ。
 それに気づかなかったために、モルデは判断を誤ったのだった。
「わたしはおまえらを許さぬ……」
「それは残念……」声がかすれた。
 モルデが緊張と怯えを感じるほど、ヨサミが放つ憎悪は濃度が高く、そして熱いものだった。人の思考さえ読み取るという巫女たちの力にも気圧されるものを感じていたが、こんなときでさえモルデが寄る辺とするのは神への信仰だった。このような者どもが、いかなる力を持っていたとしても、唯一の神にかなうはずがない……。
 神は自分とともにある。
「話し合いにならぬようだな」モルデは席を立とうとした。
 そのときだった。騒ぎが起きたのは。「お待ちください」などという声が、悲鳴や絶叫に変わるということが繰り返され、アナトやタケヒにも動揺が走った。足音が近づいてきた。
 会談の席に現れたのは、黒頭巾をつけた山のような巨漢だった。酷薄そうな眼が底光りする猛獣のような雰囲気の持ち主で、手には血濡れた剣があった。
「カ、カガチ……」タケヒが言った。
 カガチだと? モルデは腰を浮かせながら、珍しく逡巡した。
「カガチ?」アナトの声は、むしろ疑念に満ちていた。いつの間にか見知らぬ存在へと変化を遂げていた相手を見るような、目にも表情にもそんな驚きと戸惑いがあった。
「貴様がカナンの者か」
 まるで毒気のようだった。カガチが口を開き、言葉を発すると、禍々しい何かがあたりにまき散らされるようだった。アナトは胸を抑え、苦しんだ。
 それはモルデのように霊感的なものに無縁な人間にさえ、影響力を持っていた。なぜか力が奪われ、手足を萎えさせるのだ。
「なぜ、ここに……」タケヒが言った。
「なぜ? おまえらが窮地に陥っておるのだ。俺が助けにやって来ても不思議ではあるまい」
 まさかこの場に、オロチ本国からカガチがやって来るとは、誰も考えていなかった。
「ましてや、コジマの水軍にはわがタジマのアマ族の手勢も多く紛れ込んでおる。俺がここへ到着したときには、すぐに報告がまいったわ」
 交渉がうまくいなかっただけではない。モルデは自分が致命的な失態を演じたことを思い知らされた。
「さて、どう料理してやろうか」カガチはすでに何人かを血祭りに上げた剣を楽しげに振りまわした。血があちこちに飛び散る。
 モルデはその剣に見覚えがあった。ゆるいそりの付いた独特な形状をしていたから、すぐにわかった。
「それは……」
「ああん? この剣がどうかしたか」
 スサノヲが使っていた剣だった。
「これはもうおまえの部下の血を吸うておる。おまえはどこから血を流したい?」
「われらが戻らねば、カヤの捕虜たちの命がないぞ」
「心配するな」ぐっと、カガチは顔を突き出し、笑った。人間のものとは思えないほどの犬歯が覗く。「おまえらに何かするほどの時間はない」
 不意を突いて、モルデは相手に殴り掛かろうとした。一撃でも浴びせて、この場から逃亡するつもりだった。
 が、カガチの動きはそれをはるかに凌駕していた。剣を持っていない左手が下から蛇の鎌首のように持ち上がり、モルデの身体を後方の柱に当たるほど跳ね飛ばした。下に落ちたとき、モルデは泡を吹き、気絶していた。
 カガチは哄笑した。圧倒的な〝力〟がみなぎっていた。それはこの場のキビの者が、かつて見知っていたカガチのものではなかった。そして、その〝力〟を目の当たりにしたとき、アナトとヨサミでは取る反応がまったく異なっていた。
「カガチ様!」裏返るような声でヨサミが、カガチの巨体に駆け寄った。「こやつらを皆殺しにしてくださいッ!」
「ヨサミ……」アナトは信じられないといった表情で、子供の頃からの友人の変貌を見た。
 ヨサミはすでに心を病んでいた。そのためか、まるで今この瞬間に明から暗に反転するような、異常な変化を遂げたのだった。



「おまえはカヤの巫女だったな」
「はい。どうか、カナンの者どもを皆殺しに」
「言われるまでもない。お前の国は取り戻してやる」
「国などいりませぬ。もはや国はありませぬ……」暗い声。
 はっとしてアナトは幼馴染の娘を見た。ヨサミは全身を震わせ、拳を握りかため、その手からは血が滴っていた。爪が皮膚を破るほど握っているのだ。体中が抑えがたい衝動で、暴れ馬のようになっている。憎しみのオーラが、鼓動のように彼女の全身から発せられ、それがカガチの恐ろしい邪気と結びついていた。二匹の巨大な蛇がのたうち、交わるように。
「もし傲慢なカナンの者どもを打ち滅ぼしてくださるのなら、わたしはなにもいりませぬ」
「よう言うた」カガチは凄絶な笑いを浮かべ、ヨサミの顎に指をかけ、顔を上向かせた。「国もないのなら、わがものとなれ。そうしたら、おまえの望みをかなえてやろう」
「喜んで……」
 冷水を浴びたような心地とともに、「ヨサミ!」とアナトは叫んだ。だが、カガチから向けられた怒気が、熱風のように彼女を圧倒した。
「貴様ら……わが国をないがしろにして、カナンの使者となぜ会おうとした」
「…………」
 返答ができなかった。アナトの心境には、カガチと袂を分かつことも一つの選択としてあったからだ。むろんヨサミの心情を思えば、安易にそのような選択は取れない。しかし、国の主としては考えなければならない問題だった。
 この場でモルデの心まで見通すことで、カナンと同盟を結ぶという選択肢はなくなったが、そうでなければあるいはこの先に……。
「まあ、いい」カガチは言った。「明日、カヤに陣取っているカナンに攻勢をかける。すべての兵を集めておけ。いいか。明日からの戦には、おまえたちも参加するのだ」
「わたしたちも!?」
「そうだ。国の主であるおまえたちが先頭に立てば士気も上がろう。――このカナンの者を拷問にかけろ。交渉に出てきたほどの者だ。カナンの内情は詳しく知っておるはずだ」


「待って」数刻後、アナトは、一人、カガチについて祭殿を去ろうとするヨサミに呼びかけた。「ヨサミ、考え直して」
 ヨサミは振り返って言った。「なにを?」
 今まで一度も見たことがないほどの凍ったような表情だった。
「カガチについていけば、あなたは何もかも失ってしまう。巫女としても」
「なにを? もう失っているわ、何もかも」
「お父様やお母様が悲しむわ」
 その言葉は、いくばくか、ヨサミの胸に食い込む力を持っていた。だが――。
「そんなことはわかっている……」地の底から吹き出すような憎悪が、眼と口元にみなぎった。「でも! わたしはカナンのやつらが憎くて憎くてしかたないのよ! 悲しくて悲しくて、どうしようもないのッ! この悲しみや怒りをどうしたらいいのッ!!」
 最後は絶叫だった。
 アナトはもはや言葉を失った。
「もういい……」ヨサミは静かに言った。「アナトも、みんなも、もういらない。あなたたちは、本当はカガチと手を切りたいのでしょう。わたしにはわかる。きれいごとばかり」
 ヨサミは背を向け、歩き出した。その場にしゃがみこんだアナトの眼から涙があふれ出した。


     5

 カガチは言葉通り、翌日にはカヤに再建しつつあった砦を攻めた。川を遡上するルートだけではなく、東の山側からも大軍を押し寄せ、カナンの中核である精鋭部隊を数で圧倒した。しかし、それは数の問題だけではなかった。
 指揮を執るだけではなく、カガチは自ら先頭に立ち、砦攻略の先鋒に立った。大将が先陣を切るなど、あり得ない戦略だったが、カガチは降り注ぐ矢を払いのけ、押し寄せる防衛隊を蹴散らしてのけた。
 そこへオロチ・キビの連合軍が攻め込んだ。
 カナンに油断があったわけではなかった。が、これまでありとあらゆる戦局で、その眼となり耳となってきたモルデが失われてしまったのは、現実的にも心理的にも大きなダメージだった。戻らないモルデの身を案じる暇もなく、不意打ちで攻撃をかけられた形となった。
 エステルはモルデを交渉に送り出したことを心底後悔した。カナンの守りは機能せず、連鎖的に崩れ続けた。
「ユダの部隊が全滅しました!」カイの絶望的な知らせが届いたとき、砦は陥落寸前だった。
「エステル様、このままでは……」ヤイルが言った。「砦を捨てましょう。今なら間に合います」
「しかし……」
 この場を去ってはモルデが……というのは私情だった。
「イズモまで引き、体勢を立て直しましょう」
「アロンがしんがりを務めます。エステル様」アロンも同様に進言した。
 苦渋の決断だった。
「わ、わかった……」
 そのとき幕屋のそばで騒乱が起きた。見れば、そこには十数名のカナン兵に取り囲まれた、黒頭巾の巨漢がいた。巨漢はにたにた笑いながら、手にした剣の血糊を舐めた。カガチだった。
 うお――! と口々に声を上げ、兵士たちが斬りかかった。
 爆発が起きたようだった。
 そしてエステルは奇妙な既視感(デジャヴュ)を覚えた。それはスサの地でスサノヲが見せた圧倒的な〝力〟そのものとしか思えなかった。暴力的な嵐が渦巻き、カナン兵の肉体は寸断された。鎧の装備があろうが、まったく問題ではなかった。
 あの剣は……。
「エステル様!」ヤイルが二の腕をつかみ、引っ張った。
 カガチは荒々しい踊りを踊っていた。その舞踏はすべてを破壊し、踏み荒らす足が着地するたび、世界が鳴動し、命が奪われた。
 破壊の神。
 カガチは吠えた。それは猛々しい破壊の欲望が、殺戮を重ねることでさらに高揚したためだった。
 激しい動きによって、黒頭巾がほどけ、ずれていた。
 半ばあらわになったその頭部に、エステルは見た。逃げ惑いながらも、はっきりと。

 その頭部には二本の角が生えていた。

 化け物……。
 凍りつくような恐怖がエステルの身体をこわばらせ、動きを鈍らせた。これまでどのような戦場でも、死に瀕したスサでさえ、このような恐怖を味わったことがなかった。
 あまりにおぞましさにエステルは吐いた。えづきながらも逃げた。
「そこか……」
 その言葉が悪霊のように背後から迫ってきて、エステルの両肩をつかんだ。脚をわしづかみにした。



 それこそ悪夢の中でしか体験できなかったものだった。黒頭巾の鬼神が発する黒い霧のようなものが、エステルを囲繞(いにょう)し、身動きさえ鈍くした。それはほとんど物理的な力を持っていた。そのために思うように逃げられなかった。
 非常時用の階段を辛くも登り切り、緊急用に作らせていた西側の渓谷へ抜ける吊り橋へ向かう。野獣の咆哮が下から迫ってくる。
 しんがりのアロンの一つ前にいたカイは、そのとき兄の命令で作っていた仕掛けを眼にした。ほとんど考えることもなく、その仕掛けを作動させるための綱を引っ張った。
 消火機能を兼ねた貯水樽がいくつも一気に裏返り、下へ向かって水を放出した。階段を上って来ていたカガチは、それで一度足を取られ、落下した。ずぶ濡れになりながら起き上り、階段を上がるというよりも、飛び上がっていく。
「エステル様! 早く!」アロンが叫び、剣を取った。
 エステルとヤイルは数名の衛兵たちと共に吊り橋を半ばほど渡っていた。カイがそれに続く。
「邪魔だ!」迫るカガチ。
 アロンは剣をまともに合わせることもできなかった。カナンで屈指の剣客である彼が、ただ一振りを受けただけで跳ね飛ばされた。吊り橋の蔓にしがみつき、体勢を立て直す。
 カガチは無造作にさらに二度、剣を振るった。最初の一撃でアロンの剣は折れた。そして次の刃が彼の首をはねた。
「アロン! アロ――ン!!」
 エステルが叫ぶのと、ヤイルが吊り橋の蔓を切り落とすのは同時だった。
 橋は落ちた。
 さすがのカガチも、その渓谷を飛び渡ることはできなかった。
 だが、彼は笑いを浮かべ、剣をエステルに向けた。そして言った。
「カナンのお姫様。俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる! 覚悟しておれ!」


 その夜、ヨサミはカガチに連れられ、砦に戻った。カナンによって再建されつつあったカヤの砦に。
 そこはもはやヨサミの知る懐かしい場所でもなんでもなかった。累々たる屍が満ち、死にゆく人々の怨念や悲しみが満ちた空間だった。
 エステルが臥所に使っていた寝台に放り投げられ、カガチの巨体がのしかかってくるのを、ヨサミは他人事のように感じていた。飢えた獣に四肢を食われるようだった。やがて訪れた身を二つに引き裂かれるような激痛に、ヨサミは悲鳴を上げた。泣き、喚き、そして暴れた。
 脳裏を父や母、そしてアナトたちの顔がよぎって行く。裏切った。そんな想いが、抑えようもなく湧いた。すべて裏切り、すべてなくした。
 巫女としての使命より、おのが激情に身を任せることを選んだ。それこそがヨサミの、自らへの裏切りだった。味わったことのないようなこの苦痛。その痛みは倒錯した喜びでさえあった。
 一人、生き残ってしまった。その根深い悔悟と罪悪感を打ち消してくれるのは、この苦痛だけだった。
 苦悶にのたうちながらヨサミは血を吐くように口走った。「カナンを……あの女を……八つ裂きにして! 八つ裂きに……!」
 カガチはその大きな手で、ヨサミの顔をつかみ、眼を覗きこんだ。
「ならば捧げろ。すべて」
「……〝力〟をすべてあげる。わたしの全部を」
「愛いやつじゃ」
 カガチは鬼神だった。それは黒頭巾に隠されていても、もはや明白な事実として知れていた。何人もの人間が彼の頭部に屹立するものを畏怖を持って目撃していたし、ヨサミにとっては彼の持つ〝力〟が鬼神のそれであることは、自明の理だった。
 その〝力〟と同化する。
 恐ろしさに身が震えた。その恐怖がカガチからくわえられる激痛と相まって、彼女を狂わせた。
「目障りな」カガチは鬱陶しそうに言い、ヨサミの胸に光っていた勾玉をつかみ、首飾りを引きちぎった。
 放り投げられ、床に転がった勾玉は、淡い光を放ち、そしてその光を消した。


 ――カヤの砦の外。
 落ちかかった半月が、西の空にあった。アナトたち四人の巫女が、星空の下、集まっていた。彼女らは手に首飾りの勾玉を載せていた。
「ヨサミ……」アナトの声は震えていた。
 四つの勾玉は悲しげに明滅を繰り返した。


 ――タジマの国。
 アマ族の巫女であるアカルは、同じ月を見ていた。月はなぜか赤く染まって見えた。
 勾玉が細かく、怯えるように震えていた。明滅を繰り返す。
「これは……」アカルは胸元を抑えた。
 鋭いもので貫かれるような痛みが襲ってきた。
「誰なの……。誰が……」
 見開いたアカルの眼の中に、幻視が生じた。
「カガチが……」


 ――カヤを北上した山中の洞窟。
 かろうじて逃げ延びたエステルたちが身をひそめていた。
 洞窟の中で焚かれる火の周囲に集まるたったの七名が、カヤを生き延びた生存者だった。
 信じられなかった。誰もが、たったの一日前まで、このような事態を迎えるとは想像していなかった。
 傲慢な彼らの思惑は、ことごとく打ち砕かれていた。
 洞窟の一番奥で、エステルは膝を抱え、ただ火を見つめていた。が、本当にその眼の中で見ているのは、昼間のカガチによる殺戮の光景の再現だった。幾度も幾度も、それは繰り返された。
 恐ろしい……。
 心底、思った。この東洋の島国に至るまで、辛酸を舐めつくしたはずだった。だが、ここへ来て、エステルの心の中にあった強固な芯が、ぽきりと折れてしまっていた。それほどのショックを、あの鬼神はもたらしたのだ。
 ――俺から逃げられると思うなよ。どこまでも追いかけて、おまえのはらわたを食らい尽くしてやる!
 胸の奥から突き上げてくるものがあり、エステルは口を押えた。洞窟の奥の方へ駆け込み、背を波打たせる。もはや吐くものもなく、黄水だけが鼻の奥を痛くした。
「エステル様」ヤイルが背をさすった。
 そのとき彼には、エステルの首から下がっている宝珠が、淡く光っているように見えた。


 ――トリカミの里。
 スノサヲは夜、気配を感じて外に出た。冷え込みが厳しくなり、吐く息は白かった。
 西の空に半月はあったが、澄んだ空には星々があふれ出て、零れ落ちるように広がっていた。
 前の満月の夜、語り合った二つの岩のそばに、クシナーダの背中が見えた。
「どうした、こんな夜中に――クシナーダ?」
 スサノヲは気づいた。彼女の丸められた背が震え、嗚咽を彼女が洩らしていることに。
「どうした、どこか痛むのか」
 まさにそのように見えた。クシナーダはうなずき、そして首を振った。
「どうしたというのだ」と、肩に手をかけた。
 振り返った彼女の眼から、はらはらと涙が零れ落ちていた。その表情のあまりの悲しみの深さに、スサノヲは息がつまった。彼女は自分の勾玉を両手で握りしめていた。
 驚くべきことに、勾玉は光を放っていた。青く悲しい光を明滅させている。
「御霊(みたま)が……泣いております」クシナーダはそう言い、たえかねたようにスサノヲの胸に顔を押し付けてきた。



 わずかな逡巡の後、スサノヲはクシナーダの身体をそっと抱いた。

 ――この娘(こ)を守りたい。

 それはこれまで、この地上でどのような存在にも抱いたことのない、熾烈な想いだった。

 そして……。
 あと二人、勾玉の明滅を見守る巫女がいた。


 そのうち一人は、その夜、船上にいた。
「ナオヒ様、寒くありませぬか」
 声をかけられた老いた巫女は、冷たい潮風を心地よさそうに浴びていた。甲板の上に座ったまま、「案ずるな」と言った。
「いや、しかし、お風邪でも召されては」
「無粋なことを言うでない」皺を引き延ばすように顎を上向け、東の上空にあるオリオンの三ツ星を見つめた。「せっかくの美しい星を楽しんでおるのじゃ」
 そういうナオヒの掌でも、勾玉は明滅していた。



 もう一人は生駒から葛城へつながる峰の向こうに消えかかる月を見ていた。
「シキが泣いている……」ぽつりとその背が発したように思えた。
「シキ様が?」巫女の背後で待機している男の黒い影が答えた。
「カーラ、わたくしはキビへ行きます」
「カガチの要請をお受けになるので?」
「表向きは。明日、皆を集めておくれ」
「はい」
「よくお聞きなさい、カーラ」
「はい」
「これから起きることは、このヤマトにも、ワの国全体にも大きな意味を持つであろう」切れ長の目を持つ巫女は振り返った。「いや、きっと生きとし生けるものすべてにかかわること。この大きな玉の上で生きるすべての者の未来に。それを心しておくのだ」
「はい。イスズ様」
 ヤマトの巫女はカーラの横を通り過ぎて行った。
 その胸元でも、勾玉が明滅していた。




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